武将名鑑【信長の野望 新生】
上杉景勝(うえすぎかげかつ)
上杉景勝(うえすぎかげかつ)
上杉景勝 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
80 (137 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
77 (190 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
79 (172 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
79 (166 位) | ||||
合計 | 315 (83 位)2201人中 |
上杉景勝 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 顕景 | ||||
幼名 | 長尾卯松 | ||||
仮名・通称 | 喜平次 | ||||
法号・戒名 | 宗心 覚上院殿法印権大僧都宗心 | ||||
父 | 長尾政景 | ||||
養父 | 上杉謙信 | ||||
母 | 仙桃院 | ||||
配偶者・正室 | 菊姫 | ||||
側室1 | 桂岩院(四辻公遠の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1555年 | 出羽米沢藩主。長尾政景の子。上杉謙信の養子となった。謙信の死後、御館の乱に勝利して家督を継いだ。関ヶ原合戦では西軍に属し、最上・伊達軍と戦った。 | |||||||||
死亡年 | 1623年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
乾坤 | 合戦で積極的に退き口を襲撃 | ||||||||||
自衛 | 自勢力内では自部隊の防御上昇 | ||||||||||
数奇 | 家宝をまれに入手 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
同討 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 16 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 28 |
上杉景勝が登場する合戦
-
御館の戦い [御館の乱]
1579年2月1日 ~ 3月18日
新潟県上越市五智
-
鮫ヶ尾城の戦い [御館の乱]
1579年3月24日
新潟県妙高市宮内
-
栃尾城の戦い [御館の乱]
1580年4月22日
新潟県長岡市栃尾町
天正8年(1580年)4月に上杉景勝は春日山城を出立し、御館の乱で上杉景虎方につき景虎の死後も抵抗を続けていた本庄秀綱が守る越後栃尾城を攻めた。
かつて上杉謙信が一時在城していた栃尾城は堅城で知られており、秀綱は防戦に努めるも、4月22日に景勝方の総攻撃により落城した。
本庄秀綱は栃尾城を棄て、会津に落ち延びた。
-
三条城の戦い [御館の乱]
1580年7月7日
新潟県三条市
-
天神山の陣 [織田信長の北陸平定]
1582年5月19日 ~ 27日
富山県魚津市小川寺
-
松井田城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年3月28日 ~ 4月20日
群馬県安中市松井田町松井田・新堀
3月28日、前田利家・上杉景勝・真田昌幸・信幸父子の北国勢らが率いる豊臣勢3万5000余の大軍が上野松井田城を包囲する。
北条氏の重臣である大道寺政繁が守る松井田城は、信濃と上野の国境に位置する要衝である碓氷峠を扼していた。
政繁は勧告を拒絶して抗戦を続けたが、周囲にある北条方の国峰城や厩橋城が次々と落とされると、4月20日に政繁は人質として長男の直重を出して、降伏開城した。
松井田城の開城後、真田昌幸らの北国勢は上野国の要の城である箕輪城の攻略を進めた。
-
国峰城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年4月17日
群馬県甘楽郡甘楽町国峰
前田利家・上杉景勝や金森長近らの主力が上野松井田城を包囲するなか、上杉氏の先鋒を務める藤田信吉は上野国峰城の攻略に向かう。
国峰城の小幡氏はもともと上野守護上杉氏に従っていたが、その後、武田氏・織田氏に従い、このころは北条氏に臣従していた。
当主の小幡信定は小田原城に参陣していたため、留守を子の小幡信氏が守っていた。
信氏は宮崎城(現・富岡市)を守備していたが、事前に織田信雄家臣の岡田利世を通じて内通していたようであり、豊臣勢の北陸軍が侵攻すると降伏して前田軍に投降した。
その後信氏は小幡氏本拠の国峯城攻略の先兵となり、城を守備していた叔父の小幡信秀夫妻を殺害した。 -
箕輪城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年4月24日
群馬県高崎市箕郷町西明屋
箕輪城
上野松井田城を落とした前田利家・上杉景勝・真田昌幸らは、西牧城・国峰城・厩橋城を落として大導寺政繁の案内で上野箕輪城に向かう。
このとき箕輪城を守っていたのは、武蔵鉢形城主・北条氏邦の家臣の垪和信濃守である。
氏邦は、豊臣勢の襲来を予期して箕輪城を改修補強させていたが、城兵は一戦も交えず、4月24日に降伏開城した。
こののち信濃高遠城主・保科正直が城の請け取りにあたり、前田利家に引き渡している。 -
鉢形城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年5月19日 ~ 14日
埼玉県大里郡寄居町鉢形
鉢形城 曲輪
5月19日、前田利家・利長父子、上杉景勝・真田昌幸の北国勢と、浅野長政・本多忠勝・島田利正・鳥居元忠ら徳川勢の連合軍は、3万5000余の軍勢で武蔵鉢形城を包囲する。
城主の北条氏邦は、小田原城で籠城している北条氏政の弟であった。
鉢形城は稀に見る頑強な要害であったため、1ヶ月近く籠城を続けたものの、抗戦の不利を悟って降伏開城する。
このとき自刃するため菩提寺正龍寺に入った氏邦は、利家によって一命を助けられ、のち利家とともに金沢に移った。
徳川家康の関東討入にともない、鉢形城は成瀬正一・日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。
-
八王子城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年6月22日 ~ 23日
東京都八王子市元八王子町
天正18年(1590)鉢形城を攻略した前田利家・上杉景勝・真田昌幸・信幸父子ら北国勢は、後北条氏の副都心ともいえる武蔵八王子城を包囲する。
八王子城主は北条氏政の弟である北条氏照で、城代の横地吉信のほか、狩野一庵・中山家範・近藤綱秀ら1000余で守っていた。
豊臣勢は翌6月23日に総攻撃を仕掛け、城代の吉信が城から脱出し城主・北条氏照を欠いたまま半日で落城した。
小田原城に対する見せしめのために徹底した攻城が指示され、敵味方の相交える鉄砲の音は雷のようだったという。
このとき氏照の正室をはじめとする女性たちは、滝に身を投げた。
-
河股城の戦い [東北の関ヶ原]
1600年7月24日
福島県伊達郡川俣町東福沢
1600年7月24日、伊達政宗が白石城を攻撃したのとほぼ同じ頃、政宗配下の陸奥駒ヶ嶺城主・桜田元親は、上杉領の伊達郡に侵入して、上杉景勝の属城となっていた陸奥河股城を攻略する。
桜田元親は、飯野、秋山、大波、小島を焼払い大舘に陣を取る。
しかし上杉勢の援軍に攻撃されると、すぐに城を捨てて居城の駒ヶ嶺城に戻った。
もともと河股城を占拠した元親は、上杉勢を釘打ちしておくための陽動作戦だったらしい。
梁川、福島の上杉勢は元親に釘付けにされ白石救援に赴くことができず、政宗は白石城を手中に収めることができた。 -
今福・鴫野の戦い [大坂冬の陣]
1614年11月26日
大阪府大阪市城東区今福・鴨野
大坂城北東2kmほどの位置に、大和川(寝屋川)の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。
この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田圃という地形だった。
豊臣方は今福村に3カ所の堀切と4重の柵を設置し、矢野正倫および飯田家貞にそれぞれ兵300で守備させていた。
鴫野砦では井上五郎右衛門・小早川左兵衛・竹田兵庫ら2,000の兵が守りを固めていた。徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両砦の奪取を命じます。
今福砦へは佐竹義宣が兵1,500で、鴫野砦には上杉景勝・堀尾忠晴・丹羽長重が攻めいります。
11月26日夜明け、戦いは佐竹隊による今福砦への急襲から始まった。佐竹麾下の渋江政光、戸村義国らにより第4柵まで占拠され、矢野と飯田は討死した。
豊臣軍は木村重成が来援し、反撃に転じたため佐竹勢はやや後退したがその後膠着状態になった。
その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は、後藤又兵衛に救援を命じた。大坂城から後藤又兵衛隊兵3,000が駆けつけ木村重成を支援しながら突撃を指揮し、佐竹勢を押し戻した。
渋江政光は第1柵で防戦していたが、木村重成の指示で狙撃され討死したため佐竹勢先鋒隊が潰走、佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めた。鴫野砦では、砦の守備兵もよく守り、とくに秀頼の武術師範をも務めたともいう穴沢盛秀は大長刀を水車のように振り回して多くの敵をなぎ倒した。
そこへ城中から繰り出した青木一重や渡辺内蔵助らの率いる新手の兵が駆けつけてきたため、上杉隊も苦戦を強いられることとなった。上杉勢の安田能元、須田長義らにより柵は占拠され、井上頼次は討ち死した。
上杉勢一番手は第一の柵まで後退し、二番手の水原親憲らに崩れかかりそうになるところ親憲が大声で左右にどくよう指示し、そのあとを追いかけてきた豊臣軍に鉄砲隊の一斉射撃を加えた。
上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加え、そこへ安田能元隊が槍を入れたため、徳川軍は苦戦しながらも両砦を陥落させ豊臣軍は撤退した。
この戦いは大坂冬の陣最大の激戦とも言われ、双方ともに多数の死傷者を出した。大坂方の後藤又兵衛は退却の際に被弾して血まみれの姿になって帰城したといい、徳川勢ではとくに佐竹隊の損耗が激しく、翌日には佐竹隊に代えて本多忠朝以下、浅野長重や真田信吉・信政兄弟、仙石忠政・秋田実季らに今福砦の守備が命じられたという。
上杉景勝が登場する記事一覧
-
マイナー武将列伝
斯波長秀(しばながひで)は何をした人?返り咲いた10万石大名!【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
金上盛備(かながみもりはる)は何をした人?蘆名の執権【マイナー武将列伝】
-
戦国時代の女性
水心(すいしん)は何をした人?長宗我部元親を妻として支え中央政権との架け橋となった姫【戦国時代の女性】
-
マイナー武将列伝
直江兼続と二頭体制を築いた狩野秀治(かのうひではる)とは?【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
天然要害の観音寺城(山形県)を築城した来次時秀(きすぎときひで)とは?【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
上杉景虎派の重鎮で御館の乱の際に景勝に暗殺された北条景広(きたじょうかげひろ)とは?【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
北楯大堰を造り石高を10倍にした北楯利長(きただてとしなが)とは?【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
小島職鎮(こじまもとしげ)とは?恩を仇で返す!主家を滅亡させた神保家臣【マイナー武将列伝】
-
マイナー武将列伝
上杉→織田→上杉と2度も上杉氏に仕えた越中の豪族・土肥政繁(どいまさしげ)とは?【マイナー武将列伝】
おすすめ記事一覧
-
歴史イベント
【新解釈】本能寺の変の真実!光秀が謀反を決意した真の動機とは?
-
ランキング
戦国武将のかっこいい異名・あだ名ランキングTOP10
-
ランキング
障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!
-
ランキング
織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
-
戦国時代の逸話
豊臣秀吉の指は6本あった?その真相に迫る【戦国時代の逸話】
-
どうする家康
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
-
ランキング
戦国武将の変な名前ランキング!!
-
戦国時代の逸話
直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】
-
戦国時代の暮らし
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】
-
どうする家康
なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
-
どうする家康
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】
-
どうする家康
家康につかなかったため滅ぼされた三河武士、鵜殿長照(うどのながてる)とは?【マイナー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はなぜ松平から徳川に改姓したのか?【メジャー武将列伝】
-
戦国時代の女性
徳川家を苦しめた妖刀「村正」【戦国時代の逸話】
-
マイナー武将列伝
鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
-
蟹江七本槍
大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】