天正壬午の乱
天正壬午の乱
1582年6月
北条氏直と鳥居元忠と真田昌幸
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神流川の戦い(かんながわのたたかい)
1582年6月18日 ~ 19日
埼玉県児玉郡上里町金久保一帯
小諸城の戦い(こもろじょうのたたかい)
1582年7月12日
長野県小諸市古城
小諸城大手門
二俣城の戦いや田中城の戦いにおいて武田方として活躍していた依田信蕃は、天正壬午の乱に際し徳川家康に臣従する。
信蕃は家康の命に従い、武田氏の遺臣らを率いて信濃佐久に侵入し小諸城に入った。
しかし天正10年(1582年)7月12日に北条氏直に小諸城が攻撃されたため、信蕃は春日城(三沢小屋)に退く。
氏直は獲得した小諸城に大導寺政繁を配置している。
信蕃は家康の家臣で甲州奉行に任命されていた柴田康忠の支援を得ながら、春日城で抗戦を続けた。
高島城の戦い(たかしまじょうのたたかい)
1582年7月22日 ~ 8月6日
長野県諏訪市上諏訪桜ヶ丘
武田氏の滅亡後、諏訪郡は織田信長の家臣・河尻秀隆の領地となっていた。
しかし本能寺の変による混乱に乗じて、北条氏と結ぶ旧主の諏訪頼忠が旧臣の千野氏らに擁立されて河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を駆逐した。
諏訪頼忠は信濃高島城(茶臼山城)に入って諏訪氏の家督を継ぎ本領の諏訪郡を回復した。
信濃の領国化を図る徳川家康は、家臣・酒井忠次に高島城を攻撃させたが、北条氏直からの援軍が着陣する前に兵を退く。
こののちも抵抗を続けた頼忠は、天正11年(1583年)に家康に降伏し、諏訪領は安堵された。
若神子の陣(わかみこのじん)
1582年8月10日 ~ 10月29日
山梨県北杜市須玉町
黒駒の戦い(くろこまのたたかい)
1582年8月12日
山梨県笛吹市御坂町上黒駒一帯
甲斐の若神子に着陣した北条氏直は、ここで徳川家康の軍勢と対峙することになった。
その一方で、家康の背後を衝くため北条氏直は叔父・北条氏忠ら1万余を甲斐東部の郡内に侵入させる。
これに対し、徳川方は家康の家臣である鳥居元忠・水野勝成ら3000余が、甲斐黒駒で背後から侵攻してきた別動隊の北条氏忠を迎え撃つ。
劣勢であった徳川勢が北条勢300余を討ち取って勝利をおさめ、 北条氏の優位が揺らぐきっかけとなった。
三島の戦い(みしまのたたかい)
1582年9月25日
静岡県三島市一帯
天正10年(1582年)3月に武田氏か滅亡すると、武田氏の領国であった駿河は、織田信長によって徳川家康の領有とされていた。
本能寺の変による混乱で、織田氏と同じく武田を攻めていた北条氏政・氏直らは駿河方面に出陣した。北条氏規はこの先陣の総大将に任じられている。
徳川家臣で駿河国沼津の三枚橋城将・松平康親と、氏政の家臣で伊豆韮山城将・北条氏規とが伊豆の三島で衝突し、家康の家臣の小笠原安次らが討死した。
三枚橋城は落城せず、9月25日には氏政も出陣したものの城の攻略はできなかったが、北条氏は御厨地域を征圧した。
以後松平康親・康重と2代にわたり約8年間、三枚橋城を拠点に北条氏と戦う。
田口城の戦い(たぐちじょうのたたかい)
1583年1月
長野県佐久市田口
武田氏の遺臣である依田信蕃は、天正壬午の乱を機に徳川家康に臣従すると、信濃佐久郡における北条方諸城の攻略に乗り出す。
天正11年(1583年)1月には、同じ武田氏の遺臣である三枝昌吉らとともに、 信濃田口城を攻撃する。
田口城主の(相木)依田昌朝は抵抗を諦め、城を捨てて小田原の北条氏を頼って落ちのびた。
信蕃は翌月の岩尾城の戦いの際に弟とともに戦死したため、子の竹福丸がこのときの戦功により「松平」の名字と「康」の一字を与えられて松平康国と名乗り、小諸10万石の大名となった。
岩尾城の戦い(いわおじょうのたたかい)
1583年2月20日 ~ 22日
長野県佐久市鳴瀬
徳川家康に従って信濃佐久郡に入った依田信蕃は、天正10年(1582年)の間に北条方の10余城を攻略し、残るは岩尾城と小諸城だけになっていた。
天正11年(1583年)2月20日、信蕃は岩尾城を包囲する。
城主・岩尾行吉が防戦に努めたことから、攻めあぐねた信蕃は22日、自ら城内に攻め入ろうとして弟・信幸とともに銃撃に合い戦死する。
3月3日、行吉は徳川方の軍監・柴田康忠の勧告に応じて岩尾城を開城して明け渡し、 上野保渡田に幽居した。
依田信蕃が戦死したため、嫡男の康国が松平康国として小諸城を継いだ。
小諸城の戦い(こもろじょうのたたかい)
1583年3月
長野県小諸市古城
天正11年(1583年)2月の岩尾城の戦いで、 依田信蕃が弟・信幸とともに討死したため、信蕃の嫡男・竹福丸に松平姓と偏諱を与え松平康国と名乗らせると信蕃の跡を継がせた。
同年3月、徳川家康は松平康国や大久保忠世らに北条氏の重臣・大道寺政繁が守る小諸城の攻略を命じた。
8月、家康の次女である督姫が北条氏直に輿入れし、徳川氏と北条氏との和睦が成立したため、大道寺政繁らは信濃より引き上げ小諸城には松平康国が入った。
加野川の戦い(かのがわのたたかい)
1584年2月2日
長野県上田市
武田氏の遺臣である真田昌幸は、天正10年(1582年)9月より徳川家康に従い、同じ武田氏の遺臣である依田信蕃とともに家康の信濃平定に参加していた。
徳川氏と北条氏との和睦が成立すると、自立を図っていた昌幸は家康から離反する。
このため天正12年(1584年)2月、昌幸は家康の命を受けた依田信蕃の子の松平(依田)康国に攻められた。
松平勢と真田勢は信濃の加野川で戦い、真田勢200余が討ち取られた。
上田城の戦い(うえだじょうのたたかい)
1585年8月2日
長野県上田市二の丸
上田城
この合戦に登場する武将
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北条氏直 (ほうじょううじなお)
後北条家5代当主。氏政の嫡男。豊臣秀吉の上洛命令に応ぜず、秀吉の小田原征伐軍の攻撃を受けた。籠城3カ月ののち降伏、高野山に上り、同地で病没した。
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北条氏邦 (ほうじょううじくに)
北条家臣。氏康の三男。上杉家との和睦を成立させた。豊臣秀吉の小田原征伐では出撃を唱えるが退けられる。前田利家に居城・鉢形城を落とされ、降伏した。
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滝川一益 (たきがわかずます)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。
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大道寺政繁 (だいどうじまさしげ)
北条家臣。盛昌の子。行政に手腕を発揮し、河越城下の繁栄に貢献した。豊臣秀吉の小田原征伐軍に降伏し、道案内を務めたが、秀吉によって自害させられた。
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蘆田信蕃 (あしだのぶしげ)
武田家臣。信守の子。二俣城主を務め、父とともに徳川軍と戦った。主家滅亡後は徳川家に仕え、信濃攻略に参加するが岩尾城攻撃戦で銃弾を浴び、戦死した。
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酒井忠次 (さかいただつぐ)
徳川家臣。徳川四天王筆頭。主君・家康の養育係を務めた。家康成人後は東三河衆を率いて各地を転戦し活躍。その才覚は織田信長や豊臣秀吉にも称賛された。
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諏訪頼忠 (すわよりただ)
武田家臣。満隣の子。主家の統治下で諏訪大社大祝となった。主家滅亡後は諏訪を平定して自立。一時北条家に属すが、のち徳川家に仕え、本領を安堵された。
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徳川家康 (とくがわいえやす)
江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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鳥居元忠 (とりいもとただ)
徳川家臣。関ヶ原合戦の際に主君・家康の命で伏見城に籠城する。13日間の攻防戦の末、城兵とともに玉砕した。その忠節は「三河武士の鑑」と称賛された。
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水野勝成 (みずのかつなり)
徳川家臣。遠江高天神城攻めなど多くの合戦に従軍した。一時は豊臣秀吉などに仕えたが、のちに帰参し、備中福山10万石を領す。島原の乱にも参陣した。
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松平康重 (まつだいらやすしげ)
徳川家臣。康親の長男。元服時に家康から一字を賜る。駿河沼津城を守り、北条家に備えた。小田原征伐で活躍し、関東入国の際に武蔵騎西2万石を領した。
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北条氏規 (ほうじょううじのり)
北条家臣。氏康の四男。人質として今川家にいた頃、同じ境遇の徳川家康と知り合う。豊臣秀吉の小田原征伐では韮山城に籠城するが、家康の説得で開城した。
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北条氏政 (ほうじょううじまさ)
後北条家4代当主。氏康の嫡男。優秀な弟たちや家臣団に支えられ、北条家の地位を不動のものにした。豊臣秀吉の小田原征伐軍に抗戦するが敗れ、自害した。
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大久保忠世 (おおくぼただよ)
徳川家臣。忠員の長男。三方ヶ原合戦、長篠合戦など多くの合戦に従軍し、その豪胆な性格で抜群の功を立て、織田信長や豊臣秀吉にも器量を高く評価された。
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真田昌幸 (さなだまさゆき)
幸隆の三男。「表裏比興の者」と豊臣秀吉に評された稀代の謀将。関ヶ原へ行軍途中の徳川秀忠軍3万8千を数千の兵で翻弄し、秀忠軍を信濃に釘付けにした。
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平岩親吉 (ひらいわちかよし)
徳川家臣。温厚篤実な性格から、主君・家康の絶大な信頼を受け、家康の長男・松平信康の傅役を務める。信康の自害後は家康の九男・義直の傅役となった。