武将名鑑【覇道】
佐々成政(さっさなりまさ)
佐々成政(さっさなりまさ)
佐々成政 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
506 (56 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
545 (39 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
298 (86 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
402 (60 位) | ||||
合計 | 1751 (61 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 3227 | ||||
天賦 | 650 | ||||
b | |||||
a | |||||
c |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 織田家臣。柴田勝家に属して北陸の攻略に貢献する。本能寺の変後、羽柴秀吉と対立するが、敗れて降伏。転封先・肥後の領国経営に失敗し自害を命じられた。 | ||||||||||
声優(CV) | 檜山修之 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
三階菅笠 | 対象とする敵1部隊の武勇を30%低下させ、武勇150%の攻撃 | ||||||||||
佐々成政は、武勇の高さを示した「三階菅笠」の馬印を掲げていた。 |
技能
早駆
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 部隊の機動+4% |
Ⅱ | 部隊の機動+7% |
Ⅲ | 部隊の機動+11% |
Ⅳ | 部隊の機動+17% |
Ⅴ | 部隊の機動+25% |
巡見
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 石垣に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅱ | 石垣に任命した場合、任命効果+16% |
Ⅲ | 石垣に任命した場合、任命効果+24% |
秘伝
織田家伝
条件 : 繋がった配置の武将と同じ縁が合計2以上
系統 : 部隊
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 編制した部隊の攻撃+2% 編制した部隊の武勇+1% 編制した部隊の知略+1% |
Ⅱ | 編制した部隊の攻撃+3% 編制した部隊の武勇+2% 編制した部隊の知略+2% |
Ⅲ | 編制した部隊の攻撃+4% 編制した部隊の武勇+3% 編制した部隊の知略+3% |
Ⅳ | 編制した部隊の攻撃+5% 編制した部隊の武勇+4% 編制した部隊の知略+4% |
Ⅴ | 編制した部隊の攻撃+6% 編制した部隊の武勇+5% 編制した部隊の知略+5% |
佐々成政が登場する合戦
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小出城の戦い(こいでじょうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1581年3月9日 ~ 24日
富山県富山市水橋小出
天正8年(1580年)、織田信長は上杉景勝の軍勢に対峙するため、家臣の佐々成政を越中に遣わし、富山城の神保長住を救援させていた。
翌天正9年(1581年)2月、越中国の平定を進めていた佐々成政・神保長住が上洛した間隙をぬって景勝の家臣で越中国松倉城主の河田長親が成政の属城である越中小出城に攻撃を仕掛けてくる。
小出城を守る成政の家臣・久世但馬守が防戦に努めている間に成政は急ぎ救援に向かう。
上杉方が沼地に手こずるなどしている間に成政らが帰還。
長親は小出城の包囲を解いて越中松倉城に兵を退いた。
-
弓庄城の戦い(ゆみのしょうじょうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1581年8月20日
富山県中新川郡上市町
富山城主・神保長住に加勢するため、織田信長から越中に派遣されていた佐々成政は、天正9年(1581年)2月に越中半国を与えられると越中一国の平定に乗り出す。
成政は8月、謙信の急死を機に織田方に寝返ったものの本能寺の変で再度上杉景勝に従った土肥政繁が守る越中弓庄城を攻めた。
城兵による激しい抵抗を受けたため弓庄城を攻略することができなかった。
しかし翌天正10年(1582年)4月、土肥政繁は上杉景勝からの後詰が得られず佐々成政に再度包囲され、ついに降伏開城している。
-
瑞泉寺の戦い(ずいせんじのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1581年9月8日
富山県南砺市井波
織田信長と本願寺との間に和睦が成立した後も、本願寺顕如の子の教如は、本願寺に立てこもり越中の一向一揆に檄を飛ばしていた、
このため天正9年(1581年)9月8日、織田家臣の佐々成政と謙信により没落し織田家臣となっていた旧越中守護の神保長住らは越中の一向一揆最大の拠点であった瑞泉寺を攻撃する。
瑞泉寺顕秀は上杉景勝の家臣で松倉城の黒金景信に援軍を要請する。
瑞泉寺は蓄えていた弾薬を惜しみなく使い必死の抵抗をするも、金に目のくらんだ城下の焼き餅売りの老婆が城内に通じる秘密の抜け道を佐々・神保方に教えたため、上杉方の援軍が来る前に瑞泉寺は陥落した。 -
魚津城の戦い(うおづじょうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1582年3月 ~ 6月3日
富山県魚津市本町
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富山城の戦い(とやまじょうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1582年3月11日
富山県富山市星井町
富山市役所から見た富山城
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末森城の戦い(すえもりじょうのたたかい) [羽柴秀吉の越中平定]
1584年9月9日 ~ 9日
石川県羽咋郡宝達志水町
末森城
越中富山城の佐々成政は、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と対峙した織田・徳川連合軍に呼応し、自らは大軍を率いて羽柴方の前田利家の属城である朝日山城(石川県金沢市加賀朝日町)を急襲。
しかし、これは前田家家臣の村井長頼がこれを撃退する。天正12年(1584年)9月9日、そこで利家の領国である加賀国と能登国の分断をはかるべく、能登末森城を総勢15,000の兵で包囲した。
9月10日、戦闘が始まると城将奥村永福・千秋範昌らの篭城軍300人が篭城戦を展開。
戦況は佐々軍が有利であり、前田方の城代土肥次茂(土肥親真の弟)が討死するなど、落城寸前にまで追い込まれる。9月11日、急ぎ末森城に向かった利家は2,500人を率いて出陣。
末森城の奥村永福と謀り、末森城を包囲する佐々勢を挟み打ちにした。9月11日明け方には末森城に殺到する佐々軍の背後から攻撃し、これを破った。
両軍ともに750人余りの死者が出たとされる。 -
富山城の戦い(とやまじょうのたたかい) [羽柴秀吉の越中平定]
1585年8月22日 ~ 29日
富山県富山市呉羽町
富山市役所から見た富山城
佐々成政が登場する記事一覧
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