織田信長の北陸平定
織田信長の北陸平定
1576年9月
柴田勝家と上杉謙信
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守山城の戦い(もりやまじょうのたたかい)
1576年9月
富山県高岡市東海老坂
越中に勢威を誇った神保氏の嫡流である神保長住は没落し庶流にあたる神保氏張が、織田信長に通じて上杉謙信に抵抗を続けていた。
天正4年(1576年)3月、上杉謙信は永禄5年(1562年)頃から神保氏張の居城となっていた守山城を落とすべく越中に侵攻したが、大雨で増水していたたため撤退する。
9月に再び侵攻した謙信は、守山城を落とし氏張は一時上杉氏に従属した。
天正6年(1578年)に上杉謙信が卒去すると、神保氏張は再度上杉氏に反旗を翻し信長に従うことなる。
第一次七尾城の戦い(だいいちじななおじょうのたたかい)
1576年11月17日 ~ 1577年4月12日
石川県七尾市古城町
七尾城跡本丸からの七尾市街と能登島
天正4年(1576年)11月、上杉謙信が能登に侵攻して能登守護畠山氏の居城である七尾城を包囲した。
謙信は、かつて人質(養子扱い)として差し出されていた上条政繁(畠山義春)を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するという大義名分の基に能登攻めを開始していた。
畠山氏の当主はわずか5歳の畠山春王丸だったので、老臣筆頭の長続連らが織田信長に通じ、七尾城の兵2,000で徹底抗戦する方針を取った。
長続連が七尾城の大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口をそれぞれ守備することを決めた。
畠山義総によって築かれた難攻不落さで縄張りも広く堅城である七尾城は一年にわたって持ちこたえ、支城を攻め落とし七尾城を孤立させていたものの攻めあぐねた謙信は、相模の北条氏に背後を衝かれる恐れがでたため、翌天正5年4月12日に居城の春日山城に帰陣した。
第二次七尾城の戦い(だいにじななおじょうのたたかい)
1577年7月 ~ 9月15日
石川県七尾市古城町
七尾城
天正5年(1577年)4月に能登七尾城から退陣した上杉謙信は、北条軍の侵攻は大規模なものではなかったため領国の仕置を済ませ、閏7月に再度能登に出陣した。
これに対し七尾城主の畠山春王丸を擁する長続連は籠城を決める。
さらに今回、続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせていたので、城内は城兵と領民合わせて15,000人の大人数となっていた。
長続連は安土城の織田信長に僧籍にあった息子の長連龍を使者として派遣して援軍を要請した。
信長は了承し8月8日に柴田勝家を総大将とした織田軍を能登に派遣した。
上杉謙信は織田軍の援軍を翌日に察知し、加賀の一向宗の総領である七里頼周に対して織田軍の進行を妨害するように求め、自身は石動山に本陣を置き七尾城を攻撃した。
七尾城は堅城なので攻撃を耐えていたが、城内で疫病が発生し、疫病で死ぬ城兵や領民が相次いだ。
当主の畠山春王丸も疫病で死去してしまう。
窮した長続連は小伊勢村の八郎右衛門に一揆を起こすよう扇動するも、上杉謙信に鎮圧される。
落城寸前の状況下で、かねてから親謙信派の遊佐続光はとうとう謙信の呼びかけに応じて、温井景隆や三宅長盛兄弟らもこれに結託し内応しようとしていた。
彼らは筆頭老臣で親信長派の長続連を快く思っておらず、9月13日付で謙信に対して内応了承の書状を送った。
この日は中秋の名月の日で、本陣で月見の宴を催していた謙信は「霜満軍営秋気清(霜は軍営に満ちて秋気清し)。数行過雁月三更(数行の過雁月三更)。越山併得能州景(越山併せ得たり能州の景)。遮莫家郷憶遠征(さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)」という七言絶句、いわゆる『十三夜の詩』を口にしたと伝わっている。
9月15日、遊佐続光・温井景隆・三宅長盛兄弟らは十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れた。
この反乱により長続連・綱連父子や、綱連の弟の長則直、子の竹松丸と弥九郎らの長一族100余人がことごとく討ち取られた。
長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った長連龍と、綱連の末子である菊末丸のみであった。
七尾城は謙信の手中に帰して、能登を完全に支配下に入れた。
手取川の戦い(てどりがわのたたかい)
1577年9月23日
石川県白山市美川南町・湊町周辺
松波城の戦い(まつなみじょうのたたかい)
1577年9月23日 ~ 25日
石川県鳳珠郡能登町松波
穴水城の戦い(あなみずじょうのたたかい)
1578年8月14日
石川県鳳珠郡穴水町川島
織田信長に通じた父・長続蓮と兄・長縞を尾城の戦いで殺された宗顓は、還俗して好連(連龍) と名乗り復讐の機会をうかがう。
天正6年(1578年)3月に上杉謙信が卒去したのを好機とみた好連は、8月に信長と結ぶ越中の神保氏張の支援を得て、長氏の歴代の居城であった能登穴水城を攻め穴水城主の温井景隆から奪還を果たす。
その後、能登国の大名となった前田利家が奥能登支配の拠点として穴水城を管理し、長連龍はその家臣となった。
月岡野の戦い(つきおかののたたかい)
1578年10月5日
富山県富山市月岡
天正6年(1578年)3月、上杉謙信が急死して御館の乱がおきると、これを好機ととらえた織田信長は美濃加治田城主で織田信忠付の斎藤利治を率いる美濃・尾張の兵を送った。
斎藤道三の末子とされる利治は、姉小路氏の支援を受けて飛騨から越中に侵攻する。
10月5日、上杉氏の家臣として越中を支配下におく今和泉城の河田長親を月岡野で破る。
まず津毛城を攻略すると神保長住勢に守備を任せ、さらに北進して今泉城を攻めた。
しかし今泉城は堅牢であったため、夜半になり撤退を開始。
撤退する織田軍に対し、河田長親・椎名小四郎(長尾景直)率いる上杉軍は城を打って出て織田軍を追撃した。
斎藤利治は地形の複雑な月岡野まで上杉軍を引きつけ、一挙に逆襲に転じ首級360を討ち取り、3000人以上捕捉した。
これにより越中西部を制圧した信長は、斎藤利治に感状を与え加増を行って戦功を称え、越中を逐われていた神保長住を富山城に入れた。
尾山御坊の戦い(おやまごぼうのたたかい)
1580年3月
石川県金沢市丸の内
飯山の戦い(いのやまのたたかい)
1580年3月30日
石川県羽咋市飯山町
菱脇の戦い(ひしわけのたたかい)
1580年6月9日
石川県羽咋市菱分町
鳥越城の戦い(とりごえじょうのたたかい)
1580年11月17日
石川県白山市別宮町
加賀平定を進める柴田勢は3月に尾山御坊を落とすと、加賀一揆最後の地となった白山麓の鳥越城の攻略に取り掛かる。
城主の鈴木出羽守が守る鳥越城は、本願寺派の門徒が籠城していた。
天正8年(1580年)11月、柴田勝家・佐久間盛政らはこの鳥越城を包囲するが、城兵の抵抗が強くなかなか落城しなかった。
そこで勝家は偽りの和睦を結び、鈴木出羽守一族を松任城に呼び出して殺害したのである。
鈴木出羽守父子ら19人の首級は安土に送られ、ここに100年間にわたる本願寺の加賀支配に終止符が打たれた。
小出城の戦い(こいでじょうのたたかい)
1581年3月9日 ~ 24日
富山県富山市水橋小出
天正8年(1580年)、織田信長は上杉景勝の軍勢に対峙するため、家臣の佐々成政を越中に遣わし、富山城の神保長住を救援させていた。
翌天正9年(1581年)2月、越中国の平定を進めていた佐々成政・神保長住が上洛した間隙をぬって景勝の家臣で越中国松倉城主の河田長親が成政の属城である越中小出城に攻撃を仕掛けてくる。
小出城を守る成政の家臣・久世但馬守が防戦に努めている間に成政は急ぎ救援に向かう。
上杉方が沼地に手こずるなどしている間に成政らが帰還。
長親は小出城の包囲を解いて越中松倉城に兵を退いた。
七尾城の戦い(ななおじょうのたたかい)
1581年6月27日
石川県七尾市古城町
天正5年(1577年)9月、遊佐続光と温井景隆・三宅長盛兄弟の内応により七尾城を攻略した上杉謙信は、家臣・鰺坂長実を城代として送り込み、続光らとともに守らせていた。
しかし天正8年(1580年)7月、続光らは七尾城から鰺坂長実を追放し信長に帰順した。
信長から城代として送り込まれた菅屋長頼は未だ上杉と通じる不穏分子を一掃すると、遊佐続光と温井景隆・三宅長盛兄弟らは危機を感じたのか城から逃亡する。
天正9年(1581年)6月27日、遊佐一族は長連龍に捕らえられ処刑され、温井・三宅らは上杉景勝を頼って越後に落ちのび、七尾城には前田利家が入った。
弓庄城の戦い(ゆみのしょうじょうのたたかい)
1581年8月20日
富山県中新川郡上市町
富山城主・神保長住に加勢するため、織田信長から越中に派遣されていた佐々成政は、天正9年(1581年)2月に越中半国を与えられると越中一国の平定に乗り出す。
成政は8月、謙信の急死を機に織田方に寝返ったものの本能寺の変で再度上杉景勝に従った土肥政繁が守る越中弓庄城を攻めた。
城兵による激しい抵抗を受けたため弓庄城を攻略することができなかった。
しかし翌天正10年(1582年)4月、土肥政繁は上杉景勝からの後詰が得られず佐々成政に再度包囲され、ついに降伏開城している。
瑞泉寺の戦い(ずいせんじのたたかい)
1581年9月8日
富山県南砺市井波
織田信長と本願寺との間に和睦が成立した後も、本願寺顕如の子の教如は、本願寺に立てこもり越中の一向一揆に檄を飛ばしていた、
このため天正9年(1581年)9月8日、織田家臣の佐々成政と謙信により没落し織田家臣となっていた旧越中守護の神保長住らは越中の一向一揆最大の拠点であった瑞泉寺を攻撃する。
瑞泉寺顕秀は上杉景勝の家臣で松倉城の黒金景信に援軍を要請する。
瑞泉寺は蓄えていた弾薬を惜しみなく使い必死の抵抗をするも、金に目のくらんだ城下の焼き餅売りの老婆が城内に通じる秘密の抜け道を佐々・神保方に教えたため、上杉方の援軍が来る前に瑞泉寺は陥落した。
富山城の戦い(とやまじょうのたたかい)
1582年3月11日
富山県富山市星井町
富山市役所から見た富山城
棚木城の戦い(たなぎじょうのたたかい)
1582年5月22日
石川県鳳珠郡能登町宇出津
織田信長の軍勢が上杉景勝の属城である越中魚津城を包囲している際、織田軍勢にいた能登長氏の庶流の長景連は突如として反旗を翻し、わずかな手勢で能登に渡海し、このころ前田利家の属城となっていた棚木城を攻撃した。
これに対し利家の命により棚木に向かった長連龍は、七尾城を守る利家の兄・前田安勝とともに棚木城に立て篭もった景連を討ち取った。
景連の首級は安土に送られている。
これは上杉方の計略とも景連の独断行動とも言われる。
天神山の陣(てんじんやまのじん)
1582年5月19日 ~ 27日
富山県魚津市小川寺
魚津城の戦い(うおづじょうのたたかい)
1582年3月 ~ 6月3日
富山県魚津市本町
この合戦に登場する武将
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上杉謙信 (うえすぎけんしん)
越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。
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神保氏張 (じんぼううじはる)
越中の豪族。森山城主。はじめ上杉家に属すが、のちに織田家の佐々成政に仕える。成政の肥後移封に従い、国人一揆と戦った。成政の死後は徳川家に仕えた。
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長続連 (ちょうつぐつら)
畠山家臣。畠山七人衆に名を連ねた。温井・三宅一党の叛乱鎮圧に活躍し、重臣筆頭として畠山家の実権を握る。のちに織田信長に通じ、上杉謙信に討たれた。
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温井景隆 (ぬくいかげたか)
畠山家臣。続宗の子。祖父・総貞の死後に逐電するが、主君・義綱の追放後に帰参。のち織田家に属す。本能寺の変後、所領回復を狙って挙兵するが敗死した。
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横瀬繁詮 (よこぜしげあき)
由良成繁の四男。豊臣秀吉に仕え、紀州征伐などに従軍。小田原征伐にも参陣し戦後、遠江横須賀3万石を領した。のちに豊臣秀次事件に連座して自害した。
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遊佐続光 (ゆさつぐみつ)
畠山家臣。温井家との政争に敗れて出奔するが、和睦して帰参する。のちに上杉家に通じて能登を治めるが、織田家の台頭により逐電し、捕縛され斬首された。
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柴田勝家 (しばたかついえ)
織田家臣。「かかれ柴田」の異名をとった猛将。北陸方面軍の総大将を務めた。本能寺の変後、羽柴秀吉と争い賤ヶ岳合戦で敗れ、居城・北庄城で自害した。
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長沢光国 (ながさわみつくに)
越中の豪族。森寺城主。上杉謙信の越中侵攻軍に降り、松波城を攻略するなど活躍し、穴水城主となる。謙信の死後、畠山家旧臣に攻められて敗れ、戦死した。
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長連龍 (ちょうつらたつ)
畠山家臣。続連の次男。父と兄・綱連の死後、還俗して家督を継いだ。織田信長に従属して福水城主となり、旧領を回復した。のちに前田利家の与力となった。
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河田長親 (かわだながちか)
上杉家臣。近江の出身。上杉謙信が上洛した際に召し出され、家臣となる。上杉家の北陸攻略に大きく貢献した。のちに松倉城主となり、織田信長軍と戦った。
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佐久間盛政 (さくまもりまさ)
柴田家臣。盛次の嫡男。叔父・勝家に仕える。「鬼玄蕃」の異名をとった猛将。賤ヶ岳合戦で深入りし、柴田軍の敗因を作った。戦後、捕らえられ斬首された。
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佐々成政 (さっさなりまさ)
織田家臣。柴田勝家に属して北陸の攻略に貢献する。本能寺の変後、羽柴秀吉と対立するが、敗れて降伏。転封先・肥後の領国経営に失敗し自害を命じられた。
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神保長住 (じんぼうながずみ)
越中の豪族。長職の子。父に追放され、京都で浪人となるが、織田信長に招かれる。越中経略に携わるが、小島職鎮らに襲われて富山城に幽閉され、失脚した。
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前田利家 (まえだとしいえ)
織田家臣。数々の合戦で活躍し「槍の又左」の異名をとった。のちに柴田勝家に従って北陸平定に貢献。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、五大老の1人となった。
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上杉景勝 (うえすぎかげかつ)
出羽米沢藩主。長尾政景の子。上杉謙信の養子となった。謙信の死後、御館の乱に勝利して家督を継いだ。関ヶ原合戦では西軍に属し、最上・伊達軍と戦った。