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上杉→織田→上杉と2度も上杉氏に仕えた越中の豪族・土肥政繁(どいまさしげ)とは?【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、越中の豪族である土肥政繁(どいまさしげ)です。美作守とも。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
土肥政繁の生まれ
越中土肥氏は土肥実平を祖とし、鎌倉時代より新川郡堀江庄の地頭職として名が見える。
戦国期には、神保長職の膨張に伴いこれに属した為、椎名・上杉氏との抗争に巻き込まれて没落。
しかし弓庄城に拠った庶流は土肥政繁の代に上杉謙信に臣従し、椎名氏の没落もあって天正の初め頃には新川郡の大半を領するまでになった。
土肥政繁の生年は不明だが、ゲーム信長の野望では1540年と設定されている。

上杉謙信の10歳下くらいですね。
弓庄城主の土肥政繁は、堀江のほか柿沢・稲村・弓庄などに城を構えていた。
天正6年(1578年)に謙信が急死すると、多くの越中国人と同様に政繁も織田方に寝返った。
しかし1582年に本能寺の変が起こると、再び謙信のあとを継いだ上杉景勝と結んで織田氏に対抗した。
これに対し織田方は、まず人質として差し出されていた政繁の次男の平助を見せしめのために磔にした。
そして織田方の佐々成政は8月に弓庄城を包囲する。
要害堅固な平城のため成政は長期戦を覚悟し日中砦・郷田砦を築いて土肥氏に対峙したが、土肥勢の守りは固く、9月に佐々勢は一旦撤退。
同11年(1583年)2月には成政の越後出兵の隙を突いて太田新城を奪うなど躍進するも、成政・秀吉・景勝の三者が和睦を結ぶと進退窮まり、弓庄城を立ち退き、越後に落ちて上杉景勝を頼った。
旧領回復のチャンス
天正12年(1584年)10月、旧領回復の機会が訪れる。
上杉景勝が富山城主・佐々成政に攻撃することとなった。
土肥政繁は上杉軍の越中攻めの先鋒として宮崎城攻略に功をあげ、その後も佐々成政に備え宮崎城や天神山城などの守将を務めた。
しかし、上杉景勝が佐々成政と羽柴秀吉に降伏したため、手柄も無意味となり旧領回復はならなかった。
土肥政繁はそのまま越後にとどまり、旧領に帰ることなく、同18年(1590年)、越後国能生で病死した。
信長の野望での土肥政繁
ゲーム信長の野望での土肥政繁のパラメーターを見てみましょう。
統率 61 (744 位)
武勇 54 (1135 位)
知略 50 (1494 位)
内政 28 (2122 位)
外政 33 (2020 位)
合計 226 (1827 位)
2200人中の順位です。
先鋒を務めるほどだったので、戦闘面のパラメーターが気持ち高くなっています。
しかし、政治パラメーターはからっきしですね。
まとめ
いかがでしたか?
上杉謙信・織田信長・上杉景勝に仕えた土肥政繁。
佐々成政の所領を一時奪い取るも、最後は主君が和睦してしまい旧領を取り返すことができなかった。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。