武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
丹羽長重(にわながしげ)
丹羽長重(にわながしげ)
丹羽長重 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
68 (478 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
48 (1438 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
50 (1529 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
49 (1397 位) | ||||
合計 | 215 (1184 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1571年 | 豊臣家臣。長秀の嫡男。越前北庄120万石を継ぐが、次第に減封され、関ヶ原合戦後は所領を失う。大坂の陣に従軍して活躍、陸奥白河10万石を領した。 | |||||||||
死亡年 | 1637年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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盛名 | 城主のときに配下武将の忠誠上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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威圧 | 敵部隊の攻撃低下 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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資糧整備 | 腰兵糧日数増加 兵糧収入減少 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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治水奉行 | 灌漑整備の維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 未登場 | |||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 元服前 | |||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 元服前 | |||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | 北ノ庄城 | ||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 30 | 小松城 | ||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 44 | 小田城 |
丹羽長重が登場する合戦
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浅井畷の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月9日
石川県小松市北浅井町・南浅井町
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今福・鴫野の戦い [大坂冬の陣]
1614年11月26日
大阪府大阪市城東区今福・鴨野
大坂城北東2kmほどの位置に、大和川(寝屋川)の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。
この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田圃という地形だった。
豊臣方は今福村に3カ所の堀切と4重の柵を設置し、矢野正倫および飯田家貞にそれぞれ兵300で守備させていた。
鴫野砦では井上五郎右衛門・小早川左兵衛・竹田兵庫ら2,000の兵が守りを固めていた。徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両砦の奪取を命じます。
今福砦へは佐竹義宣が兵1,500で、鴫野砦には上杉景勝・堀尾忠晴・丹羽長重が攻めいります。
11月26日夜明け、戦いは佐竹隊による今福砦への急襲から始まった。佐竹麾下の渋江政光、戸村義国らにより第4柵まで占拠され、矢野と飯田は討死した。
豊臣軍は木村重成が来援し、反撃に転じたため佐竹勢はやや後退したがその後膠着状態になった。
その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は、後藤又兵衛に救援を命じた。大坂城から後藤又兵衛隊兵3,000が駆けつけ木村重成を支援しながら突撃を指揮し、佐竹勢を押し戻した。
渋江政光は第1柵で防戦していたが、木村重成の指示で狙撃され討死したため佐竹勢先鋒隊が潰走、佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めた。鴫野砦では、砦の守備兵もよく守り、とくに秀頼の武術師範をも務めたともいう穴沢盛秀は大長刀を水車のように振り回して多くの敵をなぎ倒した。
そこへ城中から繰り出した青木一重や渡辺内蔵助らの率いる新手の兵が駆けつけてきたため、上杉隊も苦戦を強いられることとなった。上杉勢の安田能元、須田長義らにより柵は占拠され、井上頼次は討ち死した。
上杉勢一番手は第一の柵まで後退し、二番手の水原親憲らに崩れかかりそうになるところ親憲が大声で左右にどくよう指示し、そのあとを追いかけてきた豊臣軍に鉄砲隊の一斉射撃を加えた。
上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加え、そこへ安田能元隊が槍を入れたため、徳川軍は苦戦しながらも両砦を陥落させ豊臣軍は撤退した。
この戦いは大坂冬の陣最大の激戦とも言われ、双方ともに多数の死傷者を出した。大坂方の後藤又兵衛は退却の際に被弾して血まみれの姿になって帰城したといい、徳川勢ではとくに佐竹隊の損耗が激しく、翌日には佐竹隊に代えて本多忠朝以下、浅野長重や真田信吉・信政兄弟、仙石忠政・秋田実季らに今福砦の守備が命じられたという。
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若江の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月6日
大阪府八尾市幸町一帯
道明寺で徳川軍を迎え撃つ後藤又兵衛・真田信繁・毛利勝永らを援護するため、木村重成は長宗我部盛親と共に大坂城を打って出て、河内若江に布陣しました。この時敵に悟られないようにするため、提灯一つのみを頼りに進軍したという。
先鋒を3手に分け、右翼は南の藤堂隊に備え、左翼は北の奈良街道へと備え、本隊は若江の南端で敵に備えた。
その右手に藤堂勢の右先鋒である藤堂良勝・藤堂良重が攻撃をかける形で開戦します。
結果藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝・良重は戦死した。勢いづいた木村隊右翼の部将である長屋平太夫・佐久間正頼は藤堂隊の追撃をしようとするが重成は兵の疲労が多かったためこれを制します。
重成は負傷者を本隊に収拾すると次の戦闘に備える。藤堂勢を退却させた木村重成は、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃するため玉串川西側堤上に鉄砲隊360人を配置します。
午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。
井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。
木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。
堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。
川手はさらに突進したが戦死した。
そこに庵原も加わって激しい乱戦となった。
木村重成は自身も槍を取って戦ったが安藤重勝に首を取られ討死、豊臣方は総崩れとなり山口弘定・内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅してしまった。それまで戦闘を傍観していた徳川軍の榊原康勝、丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手の木村宗明へ攻めかかった。
宗明は本隊が敗れたため大坂城へ撤退しました。 -
天王寺口の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月7日
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町一帯
徳川家康 (73)本多忠朝 (33)秋田実季 (39)浅野長重 (27)松下重綱
真田信吉 (20)六郷政乗 (48)植村泰勝
榊原康勝 (25)小笠原秀政 (46)仙石忠政 (37)諏訪忠恒 (20)保科正光 (54)丹羽長重 (44)酒井家次 (51)松平康長 (53)松平忠良 (33)松平成重
松平信吉
内藤忠興 (23)水谷勝隆 (18)稲垣重綱 (32)六郷政乗 (48)徳川義直 (14)徳川頼宣 (13)小笠原忠脩
丹羽秀重
諏訪忠澄
松平忠直 (20)水野勝成 (51)浅野長晟 (29)西尾宗次
本多忠純 (29)WIN
大阪の陣の最終決戦となった天王寺口の戦い。
大阪城への総攻撃を決定した徳川家康は、本多忠勝の次男・本多忠朝を先鋒の大将に命じ、秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら計5,500を置く。
二番手には榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光、丹羽長重ら計5,400。
三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、水谷勝隆、稲垣重綱、六郷政乗ら計5,300。
その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。さらに徳川義直15,000、徳川頼宣が本陣後備として布陣し天王寺口から大坂城を攻める。
これに対し豊臣方は、真田信繁・大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。
それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。これにより毛利勝永は息子の毛利勝家・樫井昌孝・山本公雄・竹田永翁・浅井長房ら4,000などが天王寺口を固めていた。
正午頃、豊臣方大将の毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方先鋒大将・本多忠朝勢を銃撃します。
これをきっかけに合戦が始まると、戦場は混乱に陥った。毛利勢は正面から突入してきた忠朝を討ち取り、幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。
本多忠朝は大坂冬の陣で、酒を飲んでいたために不覚をとってしまったため、汚名返上のため戦功が欲しかったのでしょう。
本多勢の救援をしようと小笠原秀政、小笠原忠脩、諏訪忠恒らが駆けつけるも、勢いづく毛利勢に追随する木村重成残兵である木村宗明や湯浅正寿らの備による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。
続いて木村宗明らの備はその後、丹羽長重隊に突撃した。
丹羽長重隊の老兵丹羽秀重の備は「先の戦(大阪夏の陣における若江の戦い)で因縁のある」木村宗明の備に全身全霊の怒涛の突撃を見せたが、秀重は討ち死にし毛利勢に突破される。
その後も丹羽長重隊は秀重の亡骸を守る為、先鋒を務めたが、先鋒に残っていた先鋒備は丹羽長重隊などの数少ない隊備の手勢のみであった。二番手大将・榊原康勝以下、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの毛利勢に先鋒大将・本多忠朝を打ち取られ木村宗明備に小笠原忠脩を打ち取られたうえに丹羽長重隊が突破された混乱に巻き込まれ壊乱。
毛利勝永は、敗兵が雪崩込んだ三番手大将・酒井家次の部隊も撃破し、遂には家康の本陣に突入するという活躍を見せた。真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の先鋒大将・松平忠直勢と交戦していたが、天王寺口・茶臼山の一番手総大将・水野勝成勢の救援に気づかずに松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。
さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回にわたって突撃を繰り返した。これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。
家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来2度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。
倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる(一説には平野方面に逃げたともいわれる)家康自身も自刃を覚悟するも、文殊院勢誉に制止されたという(実際には勢誉はこの2年前に死去しているので俗説)。
しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。
水野勝成の性格を知る徳川家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じていたが、戦況を重く見た一番手総大将・水野勝成大和路勢は勝成が自ら一番槍を取った、彼の救援に天王寺口・茶臼山の一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。大野治長は秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。
しかしこの時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。真村信繁も3度の突撃の後、13の傷を受け疲労のため動けず、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、松平忠直配下の鉄砲組頭である西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。
豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勝永や大野治房も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり大阪城内に撤退した。
別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると天王寺口・茶臼山の水野勝成勢に突撃した後姿を消した。
勝ちに乗した徳川勢が城内への侵入を果たし、大坂城は落城することになった。
翌5月8日、豊足秀頼は毛利勝永の介錯で自刃し、秀頼の子で8歳の国松丸は、京都六条河原で斬首されている。大坂の陣をもって150年ほどに渡って続いてきた戦乱の時代が終わり、江戸幕府は元号を元和と改めた。
これを元和偃武という。偃武とは武器を武器庫に収めることを指しており、すなわち平和になったという意味である。
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