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木戸孝允の祖先、毛利家宿老で厳島神社の管理者・桂元澄(かつらもとずみ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、毛利元就の宿老の桂元澄(かつらもとずみ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
桂元澄の生まれ
引用 : 桂元澄(wikipedia)
桂元澄は毛利氏の親類衆と呼ばれる重臣である桂広澄の嫡男として明応9年(1500年)に生まれます。
兄弟に桂元忠、桂就延、桂保和、国司元相妻の娘がいます。
父・桂広澄の自害
父・桂広澄は毛利一族である毛利宗家の執政を務めた坂氏の嫡流筋に生まれますが、分家して桂村(広島県安芸高田市)に居住し桂姓を名乗るようになります。
父・桂広澄は分家した際に桂城を築城し桂城主となりました。
桂城は、福原氏の鈴尾城とは可愛川を挟んだ対岸の丘陵地帯に築城されています。
大永2年(1522年)に一門の坂広時が失脚・粛清されたため父・桂広澄から家督が桂元澄に譲られます。
そのため大永3年(1523年)7月毛利元就が家督相続した際には、起請文に署名した宿老15人の中には桂元澄の名はあるものの、父・広澄の名はありませんでした。
宿老一覧(署名順)
福原広俊、中村元明、坂広秀、渡辺勝、粟屋元秀、赤川元助(元保)、井上就在、井上元盛、赤川就秀、飯田元親、井上元貞、井上元吉、井上元兼、桂元澄、志道広良
大永4年(1524年)に父・桂広澄の弟である坂広秀が元就の弟・相合元綱を擁して元就に謀反し、誅殺されてしまいます。
桂広澄は謀反には無関係であったが、坂一族の嫡流として一門の責任をとるため、元就の制止を振り切って自害して果てます。
この時、嫡男の元澄たちも城に籠もって自刃しようとしたが、元就の懇願もあり思いとどまり、以後も桂氏は毛利家の重臣として存続することになりました。
桂元澄の活躍
大永3年(1523年)に尼子経久が鏡山城を攻めた際には、鏡山城主・蔵田房信の叔父である蔵田信直を寝返らせるなどの活躍を見せています。
享禄5年(1532年)7月13日の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では3番目に「桂左衛門尉元澄」と署名しています。
毛利家臣内でかなり地位が高かったのですね。
安芸国桜尾城主となる
桜尾城は大寧寺の変後は陶晴賢家臣の江良賢宣などが城番となっていたが、大内・陶氏に反旗を翻した毛利軍の侵攻により天文23年(1554年)5月12日に開城し毛利家の配下に置かれます(防芸引分)。
そこで城主として入城したのが桂元澄でした。
桜尾城は西の押えとして、また周防に侵攻してからの中継基地として重要な拠点でした。
弘治元年(1555年)の厳島の戦いでは、陶晴賢に偽の内応書を送って、陶軍を厳島に誘き寄せるという軍功を挙げます。
その後、厳島と廿日市周辺の支配と管理にあた流のでした。
生涯を通して毛利元就の忠臣であり、天文15年(1546年)の元就の隠居後、または正式に家督が毛利隆元に譲り渡された弘治3年(1557年)以後も児玉就忠と共に元就派の立場を取り、隆元赤川元保らとは度々対立しているようです。
桂元澄夫妻の墓
永禄12年(1569)7月5日に没するまで約15年間桜尾城に在城しこの地を治めました。享年70。
墓は広島県廿日市市の洞雲寺にあり、今では廿日市市の指定史跡となっています。
元澄の墓は大理石製の宝篋印塔であるが風化が激しく特異な形状になっており、基礎中央には大江元澄と刻され、夫人の墓は後妻の志道広良娘のもので地方色の濃い宝篋印塔である。
その後元澄の子孫を中心に桂一族は江戸時代には寄組2家、大組12家、他に長府藩と右田毛利家の家老に庶子家があり繁栄します。
また、子孫としては明治時代の政治家である木戸孝允(旧名は桂小五郎)、桂太郎(本名は桂清澄)がいる(ただし、木戸孝允は和田氏よりの養子であるので直接的な血縁関係はないが、和田氏は天野元政の子孫と称している為、一応血縁があるとも言える)。
信長の野望での桂元澄
ゲーム信長の野望での桂元澄のパラメーターを見てみましょう。
統率 51 (1280 位)
武勇 47 (1513 位)
知略 73 (314 位)
内政 65 (545 位)
外政 71 (323 位)
合計 307 (593 位)
2200人中の順位です。
特に知略・政治のパラメーターが高いですね。
神領の管理・支配を担当した点から内政が、陶晴賢を誘き出した点から知略・外政が評価されたのでしょう。
まとめ
いかがでした?
家老として毛利家を支えた桂元澄。
桂元澄というfacebookアカウントがあり宮島付近で活動してらっしゃったので、地元で愛されている武将なのでしょうね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。