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繋ぎの当主がしっかり仕事をしてバトンタッチ!!古田重治(ふるたしげはる)とは?【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、石見浜田初代藩主である古田重治(ふるたしげはる)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
古田家の家督を継ぐ
古田重治は、天正6年(1578年)に羽柴秀吉の家臣だった古田重則の三男として生まれる。
父の死後古田家の家督を継いだのは兄の重勝であった。
重勝は関ヶ原の戦いで東軍に属し、西軍を引き止めた功により2万石を加増され伊勢松坂5万5000石の大名となり、伊勢(三重県)松坂藩初代藩主であった。
しかし、慶長11年(1606年)に重勝が死去すると、重勝の子である希少丸(後の重恒)が4歳と若かったため古田重治が跡を継ぎ伊勢松坂藩の2代藩主となった。
石見浜田を普請
名古屋城普請や大坂の陣などで功を挙げたため、元和5年(1619年)2月13日に伊勢松坂から石見(島根県)浜田へ5万4000石で移封され石見浜田初代藩主となりました。
初代藩主となったので古田重治は務めをしっかり果たすために、諸々と整備を行います。
極楽寺(浜田市元浜町)を宿陣とし、益田・三隅・周布・浜田の領地を検分して浜田亀山を城地と決めます。

亀山はもともと鴨山と呼ばれており、城にふさわしい地名として用心堅固と万代不易の意味に通じる亀山にこのとき改名したようです!/p>
元和6年(1620年)2月から3年かけて、浜田川以北を武家屋敷中心の総曲輪、浜田川以南を「浜田八町」と呼ばれる城下町と浜田城を完成させています。
「浜田八町」には紺屋町・新町・蛭子町・片庭町・原町など現代に残る町名があります。
また、浜田川、浅井川の治水工事に務めている。
元和9年(1623年)5月、家督を重恒に譲って江戸で隠居。
寛永2年(1625年)11月25日、江戸で死去した。享年48。
信長の野望での古田重治
ゲーム信長の野望での古田重治のパラメーターを見てみましょう。
統率 52 (1226 位)
武勇 35 (1987 位)
知略 53 (1324 位)
内政 63 (637 位)
外政 59 (837 位)
合計 262 (1290 位)
2200人中の順位です。
現代にも残る偉大な区画整備を行なったので政治が高めです。
まとめ
いかがでしたか?
伊勢松坂藩2代藩主、そして石見浜田初代藩主を全うした
山口から国道9号線を
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。