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青景隆著(あおかげたかあきら)は何をした人?陶隆房をそそのかせた人【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは大内家臣・青景隆著(あおかげたかあきら)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
大内義隆の家臣
青景隆著は、毛利家が拡大する前に中国・北九州を領地に持っていた大内氏16代当主大内義隆の偏諱をうけた青景城主にして青景当主の青景隆時の同族にあたります。
※青景城は長門国(現在の山口県美祢市)にあった青景氏の居城。厳島の戦いの後、毛利氏による防長経略の頃に廃城になりました。
※大内義隆は当時美男子であった陶隆房(陶晴賢)に6時間かけて馬で会いにいくというキモエピソードがあるためか、ゲーム信長の野望の顔グラフィックがちょっといやらしい顔をしています。
しかし、大内義隆の代で、大内家の勢力は格段に拡大されているので、優秀な人でもあります。
天文18年(1549年)11月3日、大内義隆の命で神辺合戦により大内氏が獲得した神辺城の城督となります。
※城主とは城の主、所有者の事で、対して城督とは城主より城の管理を任された人の事で主に北九州から中国地方にかけて使われた言葉です。
武闘派・文治派の対立から謀反へ
大内家の勢力拡大の際、出雲遠征にて尼子晴久に大敗し、お気に入りの養嗣子・大内義持を失ったことなどにより、政治は家臣に任せ自分はひきこもって文化活動にふけるようになっていきました。
※この文化活動によってか、さっき見たグラフィックは甲冑姿ではなく公家っぽいですね。
戦に敗れたことで大内家内の武断派の肩身が狭くなり、文治派と衝突していきます。
武断派の青景隆著は豊前守護代を務めていた大内家臣文治派はの杉重矩と対立しており、同じく杉重矩と対立していた武断派の重臣・陶隆房(陶晴賢)も一緒に除かんと杉重矩に画策されました。
そのため、大内義隆に「二人に叛意あり」と讒訴されてしまいます。
しかしこの件に関して大内義隆が文治派の相良武任を調査させることにすると、陶隆房に自分が讒言したことがばれてしまうことを恐れた杉重矩は態度を翻しました。
杉重矩は青景隆著と親しんだ上で「讒言は相良武任によるもの」と吹き込み、うまく恨みの矛先を変えさせました。
この奉行人の相良武任も大内義隆の重用されていたので、そこをついたんでしょうね。
taka
杉重矩は悪いやつですね。
このウソを信じ込んでしまった青景隆著は杉重矩と共に武断派の重臣・陶隆房にも殿はあなたよりも相良武任がお気に入りみたいですねと言った相良武任について讒言するようになり、大内家中の武官と文官の対立を燃え上がらせる一因となりました。
青景隆著ダマされてる...
このことにより、陶隆房は文治派に傾いた主君大内義隆の排除を決意。
大寧寺の変
天文20年(1551年)陶隆房・青景隆著は謀反に至ります(大寧寺の変)。
大寧寺の変により、大内義隆が自刃し嫡子の大内義尊も死んだ為、西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化しました。
青景隆著は陶隆房に協力して大内義隆を攻撃した為、冷泉隆豊に連署した謀反人への弾劾状に名を刻まれています。
その後陶晴賢は中国地方最強の毛利元就と断交し、厳島の戦いに敗れて自刃してしまいます。
それを機に弘治12年(1556年)毛利氏は防長経略が行われ、そこで抵抗した青景隆著は討死したと伝わっています。
まとめ
いかがでしたか?
マイナー武将な割にゲーム「信長の野望」では15年以上に渡り名前の順がトップなので割と知名度がありましたが、天道(パワーアップキット版)で愛州宗通が登場したことにより、その座を明け渡すこととなりました。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!