武将名鑑【信長の野望 新生】
六角定頼(ろっかくさだより)
六角定頼(ろっかくさだより)
六角定頼 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
84 (71 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
61 (762 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
76 (244 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
96 (6 位) | ||||
合計 | 317 (76 位)2201人中 |
六角定頼 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
仮名・通称 | 吉侍者 四郎 | ||||
法号・戒名 | 江雲 雲光寺殿光室亀公大居士 | ||||
父 | 六角高頼 | ||||
配偶者・正室 | 呉服前 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1495年 | 近江の戦国大名。近江に逃れた将軍・足利義晴を支援した。楽市楽座の創始や、一国一城令の先駆をなす「城割り」を初めて行った人物として著名。 | |||||||||
死亡年 | 1552年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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能弁 | 外交取次次の信用上昇増加 | ||||||||||
自衛 | 自勢力内では自部隊の防御上昇 | ||||||||||
作事 | 城下施設の建設速度上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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足止 | 敵部隊の機動低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 52 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 死亡 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 死亡 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
六角定頼が登場する合戦
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岡山城の戦い [永正の錯乱]
1520年4月 ~ 7月27日
滋賀県近江八幡市牧町
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等持院表の戦い [永正の錯乱]
1520年5月5日
京都府京都市北区等持院町
-
小谷城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1525年7月 ~ 8月28日
滋賀県長浜市湖北町伊部
大永3年(1523年)の今浜城の戦い後、協力して京極高清の長男・高広を後継に推した浅見貞則と浅井亮政との間で対立が始まる。
浅見貞則の専横な振る舞いが強くなり、国人領主らの反感を招くようになったためだ。
大永5年(1525年)5月、追放した上坂信光と和睦した亮政は、尾張から京極高清と高吉父子を自らの居城である小谷城に迎え入れ、権力の掌握を図った。
同年7月、六角定頼によって小谷城が攻撃された亮政は、越前の朝倉教景の援軍を受けて撃退することに成功すると、8月28日には教景の仲介により、亮政と定頼が和睦することになった。
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内保河原の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1528年8月3日
滋賀県長浜市内保町
大永3年(1523年)3月の今浜城の戦いで浅井亮政に敗北した上坂信光は、大永5年(1525年)5月に亮政と和睦して京極高清・高吉父子も近江に復帰した。
大永8年(1528年)8月に上坂信光は南近江の六角定頼と手を結び挙兵する。
六角氏はかねてより北近江狙っていたので、これ幸いと上坂信光を支援した。これに対し亮政は京極高広を擁して、内保河原で京極高吉・上坂信光を破った。
しかしこの戦いで浅井氏と六角氏との争いが激化していった。
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箕浦の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1531年4月6日
滋賀県米原市箕浦
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本願寺の戦い [細川晴元と堺公方]
1532年8月23日 ~ 24日
京都府京都市山科区西野山階町
本願寺派門徒の攻撃を受けた細川晴元は洛中の法華一揆と結び、享禄5年(1532)8月7日、法華一揆勢は京都山科の本願寺の寺院を次々と攻撃する。
8月8日、細川軍も堺から出撃して大坂御坊を攻撃し、一向一揆を破る。
12日には六角軍と連合して蓮淳のいる大津の顕証寺を攻め落とし、16日と17日は東山で一向一揆と戦う。
23日には近江守護・六角定頼の加勢を得た晴元配下の柳本信堯が、証如のいる山科本願寺を3万の大軍で総攻撃を加えた。
三重の土塁堀に囲まれた本願寺も、細川勢の猛攻を防ぎきれず、灰燼に帰してしまう。
翌日24日に水落から寺内に攻め込んで山科本願寺は落城。
その後、宗主である証如が逗留していた大坂御坊が、本願寺を継承した。
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佐和山城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1538年3月27日 ~ 5月23日
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城から見た琵琶湖
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国友河原の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1538年9月12日
滋賀県長浜市国友町
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勝軍地蔵山城の戦い [細川晴元と細川氏綱]
1547年7月12日 ~ 19日
京都府京都市左京区北白川
天文16年(1547年)7月、管領細川晴元と対立する第12代将軍の足利義晴は、征夷大将軍を息子の足利義輝に譲り自らは大御所となり、洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで洛北の修築をした勝軍地蔵山城に籠城すると、晴元打倒の兵を挙げた。
これに対し、主力を氏綱方への抑えとして摂津・河内に残した晴元は、7月12日、摂津から入浴すると相国寺に本陣をおき、家臣の三好長慶や岳父の六角定頼が率いる2万の大軍とともに、勝軍地蔵山城を完全に包囲する。
※岳父・・・妻の父。義父。 -
内野の戦い [細川晴元と細川氏綱]
1547年10月6日
京都府京都市上京区聚楽町一帯
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