細川晴元と細川氏綱
細川晴元と細川氏綱
1543年10月
細川晴元と細川氏綱
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菱木の戦い(ひしきのたたかい)
1543年10月1日
大阪府堺市西区菱木
井出城の戦い(いでじょうのたたかい)
1545年5月6日
京都府綴喜郡井出町
世木城の戦い(せきじょうのたたかい)
1545年7月27日
京都府南丹市日吉町
細川晴元と敵対していた細川氏綱に呼応し、丹羽守護代で丹波八木城主の内藤国貞も兵を挙げて上洛する勢いを見せた。
しかし、氏綱を支援していた河内守護の畠山植長が天文14年(1545年)5月に卒去すると、国貞は強力な後ろ盾を失って孤立してしまう。
7月27日、国貞は丹波世木城(関城)に拠って抵抗を続けるが、かねてより国貞と守護代職を争っていた八上城主の波多野秀忠が、細川晴元から派遣された三好政長・三好範長(長慶)らとともに世木城に押し寄せたため、支えきれずに開城した。
堺の戦い(さかいのたたかい)
1546年8月20日
大阪府堺市堺区
大塚城の戦い(おおつかじょうのたたかい)
1546年9月3日 ~ 4日
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町
堺の戦いに勝利した細川氏綱・遊佐長教らは、勢いに乗じて和泉や河内など近在の国衆を糾合しながら摂津に侵攻する。
そして1546年(天文15年)9月3日に、細川晴元方の山中又三郎が守る摂津大塚城を攻撃した。
晴元方の三好範長・安宅冬康兄弟らが後詰に向かったものの、池田信正や三宅国村など伊丹親興をのぞく摂津の国衆がことごとく氏綱に帰服したため、大塚城は細川氏綱・遊佐長教連合軍によって落城した。
この大塚城は茶臼山砦や茶臼山陣城としても知られており、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では徳川家康が本陣をこの大塚城に構え、1615年(元和元年)の大坂夏の陣の際には、豊臣軍の真田信繁がここに着陣している。
池田城の戦い(いけだじょうのたたかい)
1546年9月10日 ~ 1547年6月25日
大阪府池田市城山町
細川氏綱・畠山政国・遊佐長教らによる摂津侵攻により、伊丹親興をのぞく摂津国内の国衆はことごとく氏綱・政国に降った。
細川晴元は摂津を奪回するため、天文15年(1546年)9月10日、晴元を裏切り氏綱に帰服した摂津池田城の池田信正を攻撃する。
この攻撃で池田の町が放火されました。
籠城した信正は、晴元方の三好長慶・安宅冬康・伊丹親興らによる攻撃を1年近くにわたって凌いでいたが、翌天文16年(1547年)6月25日、摂津芥川城が陥落し、晴元方の軍勢が包囲陣に加わったため、信正は降伏した。
天文17年(1548年)5月6日、信正は晴元を裏切ったため一度は許されるも最終的には切腹させられた。
嵯峨の戦い(さがのたたかい)
1546年9月14日
京都府京都市右京区嵯峨
芥川城の戦い(あくたがわじょうのたたかい)
1546年9月18日
大阪府高槻市原
細川氏綱は京都を征圧した後、摂津の平定のために細川晴元配下の芥川孫十郎が守る摂津芥川城を攻撃する。
芥川城は細川晴元の拠点であり、摂津方面への出陣時に使用される城であった。
晴元の命を受けた三好政長は丹波の兵を率いて後詰として駆けつけたが、間に合わず、天文15年(1546年)9月18日に芥川孫十郎は他の摂津国人達に倣い降伏開城した。
氏綱は薬師寺元房を芥川城に配置したが、翌年には三好長慶と晴元に奪還され、芥川城は再び孫十郎に返されている。
三宅城の戦い(みやけじょうのたたかい)
1547年2月25日 ~ 3月22日
大阪府茨木市丑寅・蔵垣内
天文16年(1547年)2月25日、摂津茨木に陣をおいた細川晴元は、家臣の三好範長(範長)・義賢(実休)兄弟に命じ、摂津三宅城の三宅国村を30000余の兵で攻撃させた。
細川高国の敗死後、その弟の晴国を擁して晴元に抵抗を続けていた国村は、晴国の敗死を機に晴元へ帰服したにもかかわらず、このとき摂津に侵攻した細川氏綱に寝返っていたためである。
3月15日、三宅城の外郭を落とされた国村は、22日についに降伏して逃亡。
翌天文17年(1548年)に長慶が晴元に背くとそれに同調して長慶に属し、三宅城を回復する。
勝軍地蔵山城の戦い(しょうぐんじぞうやまじょうのたたかい)
1547年7月12日 ~ 19日
京都府京都市左京区北白川
天文16年(1547年)7月、管領細川晴元と対立する第12代将軍の足利義晴は、征夷大将軍を息子の足利義輝に譲り自らは大御所となり、洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで洛北の修築をした勝軍地蔵山城に籠城すると、晴元打倒の兵を挙げた。
これに対し、主力を氏綱方への抑えとして摂津・河内に残した晴元は、7月12日、摂津から入浴すると相国寺に本陣をおき、家臣の三好長慶や岳父の六角定頼が率いる2万の大軍とともに、勝軍地蔵山城を完全に包囲する。
※岳父・・・妻の父。義父。
氏綱方からの援軍を断たれた義晴は、7月19日、勝軍地蔵山城を自焼させて義晴・義輝父子は近江坂本に逃れた。
舎利寺の戦い(しゃりじのたたかい)
1547年7月21日
大阪府大阪市生野区舎利寺
高雄城の戦い(たかおじょうのたたかい)
1547年
京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町
高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい)
1547年8月11日 ~ 1548年4月24日
大阪府羽曳野市古市
内野の戦い(うちののたたかい)
1547年10月6日
京都府京都市上京区聚楽町一帯
この合戦に登場する武将
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細川氏綱 (ほそかわうじつな)
室町幕府最後の管領。三好長慶らに擁立され、細川晴元と争う。晴元が近江に逃れたあとに入京し、管領に就任した。のち山城淀城に移され、同城で死去した。
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三好政長 (みよしまさなが)
細川家臣。摂津榎並城主。主君・晴元の側近として各地の合戦で活躍する。のちに一族の三好長慶と対立してたびたび合戦におよび、摂津江口合戦で敗死した。
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三好長慶 (みよしながよし)
細川家臣。主家の実権を奪って勢力を拡げ、主君・晴元を追放して畿内の掌握に成功した。しかし嫡男・義興や弟たちの死後は心身に支障をきたし、病死した。
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内藤国貞 (ないとうくにさだ)
管領細川家臣。丹波守護代。細川氏綱・三好長慶と結んで主君・晴元と争う。のち松永久秀らとともに晴元方の波多野晴通を攻めるが、晴元軍に敗れ戦死した。
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遊佐長教 (ゆさながのり)
畠山家臣。河内守護代を務めた。軍略に優れ、主家の実権を握る。三好長慶と争うが、娘を長慶に嫁がせて和睦した。のちに反長慶派の刺客により暗殺された。
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池田信正 (いけだのぶまさ)
摂津の豪族。細川晴元に重用され、将軍家からも厚遇を受けた。三好長慶が細川氏綱を擁して晴元と対立すると、氏綱方に属して敗れ、晴元に自害させられた。
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安宅冬康 (あたぎふゆやす)
三好家臣。三好元長の三男。安宅家を継ぎ、淡路水軍を統率。兄・三好長慶を助けて活躍したが、松永久秀の讒言により兄に殺された。歌や書、茶道に長じた。
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細川晴元 (ほそかわはるもと)
摂津の戦国大名。三好元長と結んで細川高国を討ち、政権を樹立する。のちに元長を討つが、細川氏綱を擁立した三好長慶(元長の子)に敗れ、近江に逃れた。
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三好実休 (みよしじっきゅう)
三好家臣。元長の次男。兄・長慶の畿内進出後、本国・阿波の経略を担当。長慶の片腕として内政、軍事に活躍したが、和泉久米田合戦で戦死。茶道に長じた。
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六角定頼 (ろっかくさだより)
近江の戦国大名。近江に逃れた将軍・足利義晴を支援した。楽市楽座の創始や、一国一城令の先駆をなす「城割り」を初めて行った人物として著名。
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足利義晴 (あしかがよしはる)
室町幕府12代将軍。阿波で挙兵した三好元長に敗れ、近江に逃亡する。元長の死後、細川晴元に擁されて京に戻ったがのちに晴元と対立し、将軍職を辞した。
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足利義輝 (あしかがよしてる)
室町幕府13代将軍。塚原卜伝、上泉信綱らに師事した剣豪。失われた幕府権力の回復に奔走するが、のちに松永久秀らに奇襲され、孤軍奮闘の末自害した。
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畠山政国 (はたけやままさくに)
河内守護。高屋城主。兄・稙長の死後、家督を継ぐ。細川晴元と細川氏綱が争った際は氏綱に属す。三好義賢らと舎利寺で戦った。のち紀伊岩室城で死去した。