細川晴元と堺公方
細川晴元と堺公方
1526年11月
細川晴元と細川高国
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神尾山城の戦い(かんのおさんじょうのたたかい)
1526年11月18日 ~ 23日
京都府亀岡市宮前町
大永6年(1526年)初旬、細川尹賢は摂津で築城を行っていた。
この作事に家臣の香西元盛も加わっていたが、細川尹賢の人夫と香西元盛の人夫の間で口論になった。
一旦引き分けとなったが、納得のいかなかった香西元盛の人夫が城中に瓦等を投げ込んだりしたので、尹賢は元盛に対して憎悪感を増すことになった。
尹賢は元盛が無学であるのを利用して、偽の謀反書を従兄で主君の細川高国に差し出し、驚いた高国は同年7月13日に元盛を自刃に追い込んだ。
怒った元盛の兄である波多野元清と弟の柳本賢治は、密かに丹波に帰国し、それぞれの居城で高国に反旗を翻し、八上・神尾山城両城の戦い、桂川原の戦いに続いていく。
10月23日、この謀反を鎮圧するため細川高国は、細川尹賢を総大将にし摂津・丹波の国衆をつけて神尾山城に向かわせ、八上城には瓦林修理亮、池田弾正などを派遣して包囲させた。
11月30日、賢治に味方する黒井城主の赤井五郎が3000の兵で後詰に駆けつけて細川勢を背後から攻撃したため、細川方が300余を討ち取られ、敗北した。
八上城の戦い(やかみじょうのたたかい)
1526年11月18日 ~ 12月1日
兵庫県篠山市八上内
八上城のある高城山
香西元盛の自刃後、兄の波多野稙通と弟の柳本賢治は丹波に帰国し、稙通は居城の八上城で挙兵した。
細川高国は、細川尹賢に対し賢治の神尾山城とともに八上城の攻撃を命じていたが、この八上城はのち明智光秀の大軍に攻められてもなかなか落ちなかった堅城である。
12月1日、神尾山城の敗報を聞くと、八上城の包囲を解いて退却した。
退却中に、阿波守護・細川晴元と通じていた池田弾正が寝返り、瓦林修理亮らに一斉に矢を射かけたため、細川尹賢らは京へ逃散した。
その後波多野稙通は、守護・細川氏の勢力を丹波から駆逐すると丹波を統一した。
野田城の戦い(のだじょうのたたかい)
1527年2月3日
京都府西京区大原野北春日町
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大永6年(1526年)に主家の細川高国に居城の丹波神尾山城を攻め込まれた柳本賢治は反撃を開始する。
翌大永7年(1527年)正月、丹波を出陣した賢治は、京都に向けて進軍を始めた。
これに対し、高国は室町幕府の奉公衆である上野一雲らに命じて山城野田城を守らせたが、7日間の戦闘で野田城は柳本勢に落とされてしまう。
賢治の快進撃を受け、細川尹賢が自ら出陣し北野経王堂を守備することになった。
山崎城の戦い(やまざきじょうのたたかい)
1527年2月5日
京都府乙訓郡大山崎
柳本賢治
WIN
薬師寺国長
LOSE
大永7年(1527年)、管領の細川高国に反旗を翻した波多野稙通・柳本賢治兄弟は、丹波を出陣して京都に向かい、山城野田城を落とした後は摂津に向けて進軍した。
細川高国方の摂津守護代の薬師寺国長が守っていた山城山崎城を落とすと、国長を摂津高槻城に敗走させた。
これにより周辺の芥川城・茨木城・三宅城など摂津北部の城は、ことごとく賢治に降った。
摂津を抑えた波多野稙通・柳本賢治兄弟はこののち阿波の三好勝長・政長兄弟らとともに上洛する機会をうかがう。
桂河原の戦い(かつらがわらのたたかい)
1527年2月13日
京都府京都市南区吉祥院堤外町
誉田城の戦い(こんだじょうのたたかい)
1528年11月11日
大阪府羽曳野市誉田
伊丹城の戦い(いたみじょうのたたかい)
1529年8月16日 ~ 11月21日
兵庫県伊丹市伊丹
柳本賢治
WIN
伊丹元扶
LOSE
伊丹城(有岡城)
小沢城(依藤城)の戦い(おざわじょう(よりふじじょう)のたたかい)
1530年6月
兵庫県加東市小沢
京都を逐われた細川高国は、播磨・備前・美作に勢威を誇る浦上村宗を頼る。
享禄3年(1530年)5月15日、一方で堺公方の重鎮である柳本賢治は、浦上村宗と争う播磨三木城の別所村治(就治)の要請を受けて、村宗と結ぶ小沢城の依藤氏を攻めるため播磨に向かう。
柳本賢治は、小寺氏、別所氏の軍と合流し浦上氏に与する依藤氏を討つため小沢城(依藤城)を攻撃した。
依藤氏との戦いは一ヶ月半に及んだ。
しかし同年の6月29日の夜、酒に酔っていた賢治は陣中において高国と村宗の手の者によって暗殺されてしまう。
この時の様子は『二水記』によると、殺害したのは大和山伏の「浄春」坊と記している。
浄春は夜陰に乗じて賢治の陣所に忍び入り賢治を刺殺、陣所から脱出に成功したようだ。
総大将を失った柳本勢は総崩れとなり敗走し、別所村治も播磨から逐われた。
こののち村宗が播磨を掌握して、摂津に侵攻する。
富松城の戦い(とまつじょうのたたかい)
1530年9月21日
兵庫県尼崎市富松町
細川高国
浦上村宗
WIN
薬師寺国盛
LOSE
大永7年(1527年)の桂川原の戦いで敗れた細川高国は摂津に進行するため浦上村宗の軍事力に期待した。
一方で浦上村宗は高国を擁することにより主家赤松氏からの独立を図ろうとしていた。
柳本賢治を暗殺した高国と村宗は、享禄3年(1530年)8月、勢いに乗じて摂津に侵入する。
これに対し細川晴元は、富松城の薬師寺国盛のほか伊丹城の高畠長直や池田城の池田信正に命じて進撃を阻止させようとした。
9月21日、高国軍は神呪寺城から朝駆けで富松城を攻撃したが、晴元派の救援があり一旦兵を引いた。
しかし10月19日、再び富松城を攻め込み薬師寺軍を伊丹城に敗走させ、富松城を高国軍の本陣とした。
大物城の戦い(たいもつじょうのたたかい)
1530年11月6日
兵庫県尼崎市大物町
細川高国
浦上村宗
WIN
薬師寺国盛
LOSE
伊丹城の戦い(いたみじょうのたたかい)
1531年2月28日
兵庫県伊丹市伊丹
細川高国
WIN
高畠長直
LOSE
池田城の戦い(いけだじょうのたたかい)
1531年3月6日
大阪府池田氏城山町
中嶋の戦い(なかじまのたたかい)
1531年3月10日
大阪府大阪市淀川区西中島
天王寺の戦い(てんのうじのたたかい)
1531年6月4日
大阪府大阪市天王寺区四天王寺
三条城の戦い(さんじょうじょうのたたかい)
1532年1月22日
京都府京都市
三好元長
WIN
柳本甚次郎
LOSE
柳本賢治と対立して阿波に逼塞していた細川晴元の被官である三好元長は、享禄3年(1530年)の小沢城の戦いの陣中で賢治が暗殺されていたこともあり、晴元の懇願に応じて中嶋の戦い・天王寺の戦いにも加勢して畿内への復帰を果たす。
しかし元長は、享禄5年(1532年)1月22日、京都三条城に籠もっていた賢治の子の柳本甚次郎を攻めて、自刃に追い込んでしまう。
細川晴元の怒りを恐れ、元長は剃髪して海雲と号し晴元に陳謝したが、両者の溝が埋まることはなく主従関係を一段と悪化させた。
飯盛山城の戦い(いいもりやまじょうのたたかい)
1532年5月 ~ 6月15日
大阪府四条綴市南野
これに対し細川晴元は、富松城の薬師寺国盛のほか伊丹城の高畠長直や池田城の池田信正に命じて進撃を阻止させようとした。
河内守護代の木沢長政が細川晴元に通じて守護の畠山義堯から離反したため、享禄5年(1532年)5月、態勢を整えた義堯は三好海雲(元長)と結んで、長政の居城である河内飯盛山城を攻撃した。
木沢長政は細川晴元に援軍を要請したが、畠山・三好連合軍の攻囲を排除させるには至らなかった。
自軍での武力排除を断念した晴元・長政らは、山科本願寺の第10世法主証如に一揆軍の蜂起を要請する。
17歳になった証如は、祖父の実如の遺言であった「諸国の武士を敵とせず」という禁を破って、6月5日に山科本願寺から大坂に移動し、摂津・河内・和泉の本願寺門徒に動員をかけた。
これに応じた門徒は3万に及んだ。
6月15日に飯盛山城を包囲する畠山義堯らを背後から襲った本願寺一揆軍は、三好勝宗を含む200余兵を討ち取り、退却する畠山義堯を南河内まで追撃して捕らえ、6月17日に門徒の集会所である石川道場で自害に追い込んだ。
細川晴元は勝利し、木沢長政も命は助かったものの、蜂起を収束させない一揆軍の暴走が天文の錯乱に発展していく。
顕本寺の戦い(けんぽんじのたたかい)
1532年6月20日
大阪府堺市堺区宿院町
堺北庄の戦い(さかいきたしょうのたたかい)
1532年8月8日
大阪府堺市堺区北庄町
享禄5年(1532)6月の顕本寺の戦いで、浄土真宗本願寺派門徒の加勢を得て三好催雲を討った細川晴元は、室町幕府管領の立場から、本願寺との決別と一向一揆鎮圧を決意する。
この年の8月4日、晴元の要請により配下の木沢長政が本願寺の拠点のひとつであった堺の浅香道場付近に放火したことと晴元の家臣である茨木長隆の画策により、一向一揆に対抗する形で和泉・河内・摂津あたりで柳本賢治の家臣であった山村正次に率いられて法華一揆が勃発する。
8月8日、一揆勢は晴元がいる堺北庄を攻撃するが、逆に木沢軍が一揆勢を大坂まで追撃して破った。
本願寺の戦い(ほんがんじのたたかい)
1532年8月23日 ~ 24日
京都府京都市山科区西野山階町
本願寺派門徒の攻撃を受けた細川晴元は洛中の法華一揆と結び、享禄5年(1532)8月7日、法華一揆勢は京都山科の本願寺の寺院を次々と攻撃する。
8月8日、細川軍も堺から出撃して大坂御坊を攻撃し、一向一揆を破る。
12日には六角軍と連合して蓮淳のいる大津の顕証寺を攻め落とし、16日と17日は東山で一向一揆と戦う。
23日には近江守護・六角定頼の加勢を得た晴元配下の柳本信堯が、証如のいる山科本願寺を3万の大軍で総攻撃を加えた。
三重の土塁堀に囲まれた本願寺も、細川勢の猛攻を防ぎきれず、灰燼に帰してしまう。
翌日24日に水落から寺内に攻め込んで山科本願寺は落城。
その後、宗主である証如が逗留していた大坂御坊が、本願寺を継承した。
堺南庄の戦い(さかいみなみしょうのたたかい)
1533年2月10日
大阪府堺市堺区南庄町
伊丹城の戦い(いたみじょうのたたかい)
1533年3月5日 ~ 29日
兵庫県伊丹市伊丹
本願寺第10世証如は、洛北鞍馬で挙兵した細川高国の弟の晴国と結び、細川晴元に攻勢をかけようとしていた。
そうしたなか証如の檄に応じた一向一揆勢は、天文2年(1533年)3月5日、晴元方の伊丹親興が守る摂津伊丹城を攻撃する。
一向一揆勢は、伊丹城の堀を埋めるなどして攻城を続けたが、将軍・足利義晴の管領である細川晴元と管領代の茨木長隆の命令を受けた木沢長政は、3月29日、糾合した法華衆の一揆勢とで一向一揆勢を挟撃し、門徒ら500人余を討ち取った。
本願寺の戦い(ほんがんじのたたかい)
1533年5月2日 ~ 6月20日
大阪府大阪市中央区大阪城
高雄の戦い(たかおのたたかい)
1533年6月18日
京都府右京区梅ヶ畑高雄町
細川晴国
本願寺
WIN
薬師寺国長
LOSE
一庫城の戦い(かずくらじょうのたたかい)
1541年8月12日 ~ 10月2日
兵庫県川西市一庫
太平寺の戦い(たいへいじのたたかい)
1542年3月17日
大阪府柏原市太平寺
この合戦に登場する武将
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赤井時家 (あかいときいえ)
丹波の豪族。越前守を称した。丹波守護代・内藤家に所領を追われ、一時的に播磨に逃れるが、のちに復帰した。次男・直正は赤井家庶流の荻野家を継いだ。
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波多野稙通 (はたのたねみち)
管領細川家臣。将軍・足利義稙の偏諱を受け、稙通と名乗る。主君・高国に与力して丹波一帯に一大勢力を築き上げた。のちに細川晴元に属し、高国と戦った。
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足利義晴 (あしかがよしはる)
室町幕府12代将軍。阿波で挙兵した三好元長に敗れ、近江に逃亡する。元長の死後、細川晴元に擁されて京に戻ったがのちに晴元と対立し、将軍職を辞した。
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畠山稙長 (はたけやまたねなが)
河内守護。高屋城主。弟・長経が木沢長政・遊佐長教によって擁立された際、紀伊に逃亡。のち長経が殺されると、再び居城に戻り、河内守護に再補任された。
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別所就治 (べっしょなりはる)
播磨の豪族。三木城主。別所家は赤松家の庶流。赤松宗家の衰退に乗じて勢力を拡大し、東播磨8郡を領した。のち細川晴元や三好長慶に属して各地で戦った。
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池田信正 (いけだのぶまさ)
摂津の豪族。細川晴元に重用され、将軍家からも厚遇を受けた。三好長慶が細川氏綱を擁して晴元と対立すると、氏綱方に属して敗れ、晴元に自害させられた。
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細川晴元 (ほそかわはるもと)
摂津の戦国大名。三好元長と結んで細川高国を討ち、政権を樹立する。のちに元長を討つが、細川氏綱を擁立した三好長慶(元長の子)に敗れ、近江に逃れた。
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木沢長政 (きざわながまさ)
細川家臣。信貴山城主。主君・晴元に従って旧主・畠山義宣を自害させ、三好元長を討った。のちに晴元と対立し、河内太平寺合戦で細川軍と戦うが敗死した。
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本願寺証如 (ほんがんじしょうにょ)
本願寺10世法主。日蓮宗徒と六角定頼に山科本願寺を焼き討ちされ、石山本願寺に本山を移した。蓮如の書状を集めて出版し、諸方の末寺や門徒に配った。
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茨木長隆 (いばらぎながたか)
細川家臣。管領・細川高国を討ち、三好元長を滅ぼし、京の法華一揆を鎮圧するなど各地で活躍した。三好政長が摂津江口合戦で敗死したあとは没落した。
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六角定頼 (ろっかくさだより)
近江の戦国大名。近江に逃れた将軍・足利義晴を支援した。楽市楽座の創始や、一国一城令の先駆をなす「城割り」を初めて行った人物として著名。
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三好政長 (みよしまさなが)
細川家臣。摂津榎並城主。主君・晴元の側近として各地の合戦で活躍する。のちに一族の三好長慶と対立してたびたび合戦におよび、摂津江口合戦で敗死した。
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三好長慶 (みよしながよし)
細川家臣。主家の実権を奪って勢力を拡げ、主君・晴元を追放して畿内の掌握に成功した。しかし嫡男・義興や弟たちの死後は心身に支障をきたし、病死した。
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畠山政国 (はたけやままさくに)
河内守護。高屋城主。兄・稙長の死後、家督を継ぐ。細川晴元と細川氏綱が争った際は氏綱に属す。三好義賢らと舎利寺で戦った。のち紀伊岩室城で死去した。