武将名鑑【覇道】
今川氏真(いまがわうじざね)
今川氏真(いまがわうじざね)
今川氏真 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
64 (125 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
89 (125 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
50 (125 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
294 (81 位) | ||||
合計 | 497 (125 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 1154 | ||||
天賦 | 500 | ||||
b | |||||
c | |||||
b |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 駿河の戦国大名。義元の嫡男。父の死後、家督を継ぐ。しかし、蹴鞠や和歌に傾倒し、無為の日々を送る。その結果、徳川家康と武田信玄に領国を追われた。 | ||||||||||
声優(CV) | 榊原優希 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
一斉攻撃 | 対象とする敵1部隊に知略110%の攻撃 |
技能
器用
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 部隊の破壊+4% |
Ⅱ | 部隊の破壊+7% |
Ⅲ | 部隊の破壊+11% |
Ⅳ | 部隊の破壊+17% |
Ⅴ | 部隊の破壊+25% |
秘伝
消沈への警戒
条件 : 与力に配置する
系統 : 部隊
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 編制した部隊の受けた消沈の効果時間-8% |
Ⅱ | 編制した部隊の受けた消沈の効果時間-11% |
Ⅲ | 編制した部隊の受けた消沈の効果時間-14% |
Ⅳ | 編制した部隊の受けた消沈の効果時間-17% |
Ⅴ | 編制した部隊の受けた消沈の効果時間-20% |
今川氏真が登場する合戦
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今川館の戦い(いまがわやかたのたたかい) [武田信玄の駿河平定]
1568年12月13日
静岡県静岡市葵区駿府公園
永禄11年(1568年)12月13日、薩埵峠の戦いで今川勢を破った武田信玄は、勢いに乗じて駿河府中に侵入する。
今川氏真は、北条氏康の援軍を待つため今川館を出て背後に控える賎機山城に籠城しようとした。
しかし、賤機山城はすでに武田軍の先鋒であった馬場信春に押さえられ、今川軍の退路は断垂れた。
今川氏真の計画は破綻し、やむなく重臣の朝比奈泰朝を頼って遠江懸川(掛川)に落ちのびた。
この時、北条氏康の娘であった氏真の正室・早川殿は乗り物を得られず徒歩で駿府から脱出したという。
この報を受けた氏康は激しく憤慨し、後に越後の上杉謙信に対して「この耻辱そそぎがたく候」と書状を送っている。
今川館を接収した馬場信春は、今川氏代々の貴重な宝物があるために火をかけてはならないと命じられていたが財宝を奪ったという汚名を着せられないよう、駿府の町と今川館をすべて焼き払ったという。
武田氏の駿河侵攻で武田方に与する今川旧臣が居た一方、徳川方に与した者も居た。
井伊谷三人衆も、遠江侵攻前に徳川方の交渉で引き入れており、仮に武田方が介入してきても見放さないという起請文を同12日に家康は与えている。
こうして同13日に家康は三河から遠江に侵攻を開始する。
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懸川城の戦い(かけがわじょうのたたかい) [武田信玄の駿河平定]
1568年12月27日 ~ 1569年5月17日
静岡県掛川市城下
掛川城
永禄11年(1568年)12月27日、徳川勢が遠江に攻め寄せ今川氏真が保護されていた掛川城の包囲を始める。
はじめのうちは大きな動きがなかったが、翌年永禄12年(1569年)の1月中旬に本格的な包囲体制ができたため、大きな戦いが繰り広げられていった。
3月5日には家康自らが大手南町口・西町口・松尾曲輪・天王小路などを攻めたが、掛川城は堅城であるうえに朝比奈泰朝がよく守ったため攻め落とせず、また、今川氏の同盟勢力である相模国北条氏も海路から援軍を送ってきたため、長期戦となった。
家康は今川家家臣の調略を試みるが、ここまで残っている朝比奈氏は揺れず、また家康は武田軍の動向にも気をつける必要があった。
信玄と家康は大井川を境として東の駿河を武田軍が、西の遠江を徳川軍が手柄次第に領有するとの約束をしていたとされているが、信玄は信濃国の伊那郡より秋山信友を大将とする別働隊を派遣していた時期があり、この軍勢が遠江国をうかがう動きを見せたため、上信感を抱いていたのである。
このような状況下で、『松平記』『北条記』によると3月8日に家康から和睦を申し入れています。
家康は、かつては自分も今川氏に取り立てられた身であり、自分が遠江を取らなければ必ず信玄が取ることになるであろうから、それよりは家康に下されて和談とすれば、北条氏と申し合わせて信玄を逐い駿府を氏真に返そう、と説いたという。
この協議には北条氏も参画し、4月末頃までにはほぼ合意に達していたようであり、5月15日(一説には17日)に開城という運びとなった。これにより、かつては駿河・遠江・三河を領した今川氏は滅亡したのである。
領国を失った氏真は妻の実家である北条氏を頼り、北条領の伊豆国へと向かった。
この時朝比奈泰朝は氏真に供奉し、伊豆へ同行している。氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝は上杉謙信の家臣・山吉氏に援助を要請するなどの活動を行っている。
掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。
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吉原の戦い(よしわらのたたかい) [武田信玄の駿河平定]
1570年5月14日
静岡県富士市吉原一帯
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