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北条氏康の妻として、氏政・氏照・氏規・氏邦らを産んだ瑞渓院(ずいけいいん)とは?【戦国時代の女性】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、北条氏康の正室となった瑞渓院(ずいけいいん)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
瑞渓院の生まれ
父は駿河国守護・今川氏親、母は寿桂尼。
生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1523年と設定されています。
兄弟に今川氏輝・今川義元・今川彦五郎。異母兄に玄広恵探がいます。
おそらく天文4年(1535年)頃に、政略結婚で相模国・伊豆国の戦国大名である北条氏康の正室となります。
夫婦仲は良好だったようで、子に夭折した長男新九郎(氏親、天用院殿)、次男で嫡子の北条氏政、三男の北条氏照、四男・北条氏規、五男・北条氏邦、女子に今川氏真室の早川殿、足利義氏室の浄光院殿などがいる。
この後、後北条氏と代替わりした今川義元との河東一乱による断交があっても実家に戻ることなく、氏康正室、嫡子生母として北条家に残った。
元亀2年(1571年)11月21日、北条氏康の四十九日忌をもって逆修し、以後「御大方様」と称される。
秀吉の小田原討伐
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐により北条家が苦境に陥ると、6月12日瑞渓院は死去。
同日に氏政の正室の鳳翔院殿が自害しているため、鳳翔院殿・瑞渓院が自害することで氏政に降伏することを促したと思われる。
法名は瑞渓院殿光室宗照大姉。
小田原市栢山の如意山善栄寺の本堂の前には、巴御前と木曽義仲の五輪塔があり、墓地には北条氏康と瑞渓院の宝篋印塔がある。
この宝篋印塔は市の指定文化財となっています。
この善栄寺は、当時荒廃していたものを瑞渓院が私財を投じて再興し、天文23年(1554年)に瑞渓院が帰依して曹洞宗に改めたという縁起がある。
信長の野望での瑞渓院
ゲーム信長の野望での瑞渓院のパラメーターを見てみましょう。
統率 69 (401 位)
武勇 59 (863 位)
知略 63 (749 位)
内政 65 (545 位)
外政 64 (595 位)
合計 320 (466 位)
2200人中の順位です。
姫武将は基本的に能力値が高めに設定される傾向があります。
瑞渓院も合戦を出た記録や内政に干渉しまくった記録は残っていませんが、能力値は全体的に高めに設定されています。
まとめ
いかがでしたか?
北条氏康に嫁ぎ、今川と北条家の架け橋となった瑞渓院。
子の早川殿が今川氏真と婚姻し、今川家が没落した際は北条家を頼りにこれたのも彼女が北条家内で親今川として発言権を持っていたことも原因にあるでしょう。
それでは、今後も戦国時代の女性の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
瑞渓院