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傀儡当主となった能登の大名・畠山義慶(はたけやまよしのり)とは?【マイナー武将列伝】

こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、能登の戦国大名である畠山義慶(はたけやまよしのり)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
傀儡当主として擁立された畠山義慶
畠山義慶は天文23年(1554年)に能登畠山氏の第9代当主である畠山義綱の嫡男として生まれる。
幼名は次郎。
父の畠山義綱は北陸の能登という地方でありながら、中央の政権の六角義賢や足利義昭とも交遊があったなかなか優秀な方でした。
しかし、永禄9年(1566年)の永禄九年の政変で、祖父・畠山義続と父・畠山義綱が重臣の長続連・遊佐続光や八代俊盛らによって追放されてしまい、元服前の義慶が傀儡君主として擁立されました。
家督を相続し能登畠山氏10代当主となり七尾城主となった。
謎の急死
元亀2年(1571年)には修理大夫に任じられたり、天正元年(1573年)には能登の一宮気多大社造営の棟札に義慶の名が見えるなど形として当主をまっとうします。
しかし天正2年(1574年)に急死。
死因にはさまざまな説があり、病死説もあるが暗殺説もある。
暗殺説の実行犯については重臣の遊佐続光と温井景隆が有力とされている。

23歳の時に亡くなっているので、操られることに気づきだし邪魔になってきたのでしょう。
跡は弟の畠山義隆が継いだ。
信長の野望での畠山義慶
ゲーム信長の野望での畠山義慶のパラメーターを見てみましょう。
統率 41 (1758 位)
武勇 46 (1561 位)
知略 32 (2131 位)
内政 47 (1476 位)
外政 34 (1994 位)
合計 200 (2034 位)
2200人中の順位です。
やはり傀儡当主となった人物は能力値が低く設定されています。
まとめ
いかがでしたか?
親を重臣に追放され、傀儡当主となった畠山義慶。
しかし若くして亡くなってしまうのであった。
よくある流れです!
このサイトでは傀儡当主の記事がたくさんあるのでみてください!
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
畠山義慶