武将名鑑【信長の野望 新生】
遊佐続光(ゆさつぐみつ)
遊佐続光(ゆさつぐみつ)
遊佐続光 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
41 (1742 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
57 (959 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
75 (263 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
69 (418 位) | ||||
合計 | 242 (617 位)2201人中 |
遊佐続光 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
父 | 遊佐総光 | ||||
配偶者・正室 | 平信光の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1527年 | 畠山家臣。温井家との政争に敗れて出奔するが、和睦して帰参する。のちに上杉家に通じて能登を治めるが、織田家の台頭により逐電し、捕縛され斬首された。 | |||||||||
死亡年 | 1581年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
能弁 | 外交取次次の信用上昇増加 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
撹乱 | 敵部隊の体力低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 20 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 27 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 34 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 44 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
遊佐続光が登場する合戦
-
第二次七尾城の戦い [織田信長の北陸平定]
1577年7月 ~ 9月15日
石川県七尾市古城町
七尾城
天正5年(1577年)4月に能登七尾城から退陣した上杉謙信は、北条軍の侵攻は大規模なものではなかったため領国の仕置を済ませ、閏7月に再度能登に出陣した。
これに対し七尾城主の畠山春王丸を擁する長続連は籠城を決める。
さらに今回、続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせていたので、城内は城兵と領民合わせて15,000人の大人数となっていた。長続連は安土城の織田信長に僧籍にあった息子の長連龍を使者として派遣して援軍を要請した。
信長は了承し8月8日に柴田勝家を総大将とした織田軍を能登に派遣した。上杉謙信は織田軍の援軍を翌日に察知し、加賀の一向宗の総領である七里頼周に対して織田軍の進行を妨害するように求め、自身は石動山に本陣を置き七尾城を攻撃した。
七尾城は堅城なので攻撃を耐えていたが、城内で疫病が発生し、疫病で死ぬ城兵や領民が相次いだ。
当主の畠山春王丸も疫病で死去してしまう。
窮した長続連は小伊勢村の八郎右衛門に一揆を起こすよう扇動するも、上杉謙信に鎮圧される。
落城寸前の状況下で、かねてから親謙信派の遊佐続光はとうとう謙信の呼びかけに応じて、温井景隆や三宅長盛兄弟らもこれに結託し内応しようとしていた。
彼らは筆頭老臣で親信長派の長続連を快く思っておらず、9月13日付で謙信に対して内応了承の書状を送った。この日は中秋の名月の日で、本陣で月見の宴を催していた謙信は「霜満軍営秋気清(霜は軍営に満ちて秋気清し)。数行過雁月三更(数行の過雁月三更)。越山併得能州景(越山併せ得たり能州の景)。遮莫家郷憶遠征(さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)」という七言絶句、いわゆる『十三夜の詩』を口にしたと伝わっている。
9月15日、遊佐続光・温井景隆・三宅長盛兄弟らは十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れた。
この反乱により長続連・綱連父子や、綱連の弟の長則直、子の竹松丸と弥九郎らの長一族100余人がことごとく討ち取られた。
長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った長連龍と、綱連の末子である菊末丸のみであった。
七尾城は謙信の手中に帰して、能登を完全に支配下に入れた。
-
七尾城の戦い [織田信長の北陸平定]
1581年6月27日
石川県七尾市古城町
天正5年(1577年)9月、遊佐続光と温井景隆・三宅長盛兄弟の内応により七尾城を攻略した上杉謙信は、家臣・鰺坂長実を城代として送り込み、続光らとともに守らせていた。
しかし天正8年(1580年)7月、続光らは七尾城から鰺坂長実を追放し信長に帰順した。
信長から城代として送り込まれた菅屋長頼は未だ上杉と通じる不穏分子を一掃すると、遊佐続光と温井景隆・三宅長盛兄弟らは危機を感じたのか城から逃亡する。
天正9年(1581年)6月27日、遊佐一族は長連龍に捕らえられ処刑され、温井・三宅らは上杉景勝を頼って越後に落ちのび、七尾城には前田利家が入った。
遊佐続光が登場する記事一覧
おすすめ記事一覧
-
歴史イベント
【新解釈】本能寺の変の真実!光秀が謀反を決意した真の動機とは?
-
ランキング
戦国武将のかっこいい異名・あだ名ランキングTOP10
-
ランキング
障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!
-
ランキング
織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
-
戦国時代の逸話
豊臣秀吉の指は6本あった?その真相に迫る【戦国時代の逸話】
-
どうする家康
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
-
ランキング
戦国武将の変な名前ランキング!!
-
戦国時代の逸話
直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】
-
戦国時代の暮らし
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】
-
どうする家康
なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
-
どうする家康
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】
-
どうする家康
家康につかなかったため滅ぼされた三河武士、鵜殿長照(うどのながてる)とは?【マイナー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はなぜ松平から徳川に改姓したのか?【メジャー武将列伝】
-
戦国時代の女性
徳川家を苦しめた妖刀「村正」【戦国時代の逸話】
-
マイナー武将列伝
鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
-
蟹江七本槍
大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】