武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
井伊直孝(いいなおたか)
井伊直孝(いいなおたか)
井伊直孝 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
78 (170 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
74 (267 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
69 (484 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
71 (382 位) | ||||
合計 | 292 (173 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1590年 | 徳川家臣。直政の次男。病弱だった兄・直継に代わって家督を継ぎ、近江彦根藩主となった。大坂夏の陣に参陣し、長宗我部盛親・木村重成の両軍を撃破した。 | |||||||||
死亡年 | 1659年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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血気 | 戦場で積極的に部隊攻撃を行う | ||||||||||
能吏 | 街道に関する具申が可能 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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用心 | 自部隊の防御上昇 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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練武練兵 | 部隊の能力上昇 金銭収入減少 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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治水奉行 | 灌漑整備の維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 未登場 | |||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 未登場 | |||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 未登場 | |||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | |||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 元服前 | |||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 25 | 国峯城 |
井伊直孝が登場する合戦
-
真田丸の戦い [大坂冬の陣]
1614年12月4日
大阪府大阪市天王寺区真田山
LOSE
豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などの河川堀の役目をし守られていたが、地続きとなる南方だけは空堀のみであった。
そのため豊臣方は、手薄である南面を防御するため、惣構の外に出丸を築いていた。
真田信繁(幸村)によって築かれたので、この出丸を俗に真田丸という。豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、徳川幕府軍は大坂城を包囲した。
真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。
真田丸には真田信繁指揮下の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成、後藤又兵衛、長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。12月2日、徳川家康は茶臼山陣城(大塚城)に出向き巡検を行い、徳川秀忠も出向いた後帰陣した(合戦後に家康は茶臼山へ、秀忠は岡山へ本陣を移した)。家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示した。
真田丸の前方には篠山と呼ばれる丘があり、真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害した。12月3日、大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚したため、南条は城内で切腹させられた。
しかし豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いた。12月4日、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。
前田勢の先鋒・本多政重、山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。
夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発した。
前田勢は挑発に乗り、真田丸に突撃。
真田勢は前田勢が城壁に十分近づいた所に火縄銃で射撃を行う。
前田利常は、将達が命令なく攻撃して軍が損害を被ったと怒り、兵を撤収させようとした。前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。
この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。
豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。これらの惨状を知った家康は退却を命じた。
しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、15時をすぎようやく完了した。退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。
この戦いで徳川方は数千人が討ち取られたという。 -
若江の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月6日
大阪府八尾市幸町一帯
道明寺で徳川軍を迎え撃つ後藤又兵衛・真田信繁・毛利勝永らを援護するため、木村重成は長宗我部盛親と共に大坂城を打って出て、河内若江に布陣しました。この時敵に悟られないようにするため、提灯一つのみを頼りに進軍したという。
先鋒を3手に分け、右翼は南の藤堂隊に備え、左翼は北の奈良街道へと備え、本隊は若江の南端で敵に備えた。
その右手に藤堂勢の右先鋒である藤堂良勝・藤堂良重が攻撃をかける形で開戦します。
結果藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝・良重は戦死した。勢いづいた木村隊右翼の部将である長屋平太夫・佐久間正頼は藤堂隊の追撃をしようとするが重成は兵の疲労が多かったためこれを制します。
重成は負傷者を本隊に収拾すると次の戦闘に備える。藤堂勢を退却させた木村重成は、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃するため玉串川西側堤上に鉄砲隊360人を配置します。
午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。
井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。
木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。
堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。
川手はさらに突進したが戦死した。
そこに庵原も加わって激しい乱戦となった。
木村重成は自身も槍を取って戦ったが安藤重勝に首を取られ討死、豊臣方は総崩れとなり山口弘定・内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅してしまった。それまで戦闘を傍観していた徳川軍の榊原康勝、丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手の木村宗明へ攻めかかった。
宗明は本隊が敗れたため大坂城へ撤退しました。 -
岡山口の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月7日
大阪府大阪市生野区勝山北・南一帯
徳川秀忠 (36)前田利常 (22)本多康俊 (46)本多康紀 (36)片桐且元 (59)井伊直孝 (25)藤堂高虎 (59)細川忠興 (52)黒田長政 (47)加藤嘉明 (52)立花宗茂 (48)土井利勝 (42)本多正信 (77)三枝昌貞 (78)本多忠純 (29)WIN
大野治房 (43)LOSE
5月7日、ついに徳川家康は大坂城に総攻撃をかける。
このとき家康は子の秀忠を岡山口の総大将としました。
先鋒は大将を前田利常とし本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。
二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢の計7,500と細川忠興隊。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。
一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明が参陣していたといわれる。徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃を開始。
このとき立花宗茂は秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手の井伊直孝、藤堂高虎勢が動く。
この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。そのため秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするが、本多正信は「大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はない」と諫め止めたという。
黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花宗茂は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。
旗奉行の三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。この間、後詰の大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康・秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。
体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。
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