武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
戸川秀安(とがわひでやす)
戸川秀安(とがわひでやす)
戸川秀安 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
54 (1168 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
60 (854 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
75 (280 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
72 (355 位) | ||||
合計 | 261 (389 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1533年 | 宇喜多家臣。宇喜多三老の1人。明禅寺合戦や児島八浜合戦など多くの合戦に従軍し、主君・直家の創業を助けた。のちに筆頭家老を務め、国政にも参画した。 | |||||||||
死亡年 | 1592年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
海神 | 水上での攻撃上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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混乱 | 敵部隊に混乱付与 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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農産拡張 | 兵糧収入増加 災害被害回避率低下 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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軍師心得 | 八陣の法が発令可能、すでに発令可能なら維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 21 | 岡山城 | ||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 28 | 岡山城 | ||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 35 | 岡山城 | ||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 38 | 岡山城 | ||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 40 | 岡山城 | ||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 50 | 高田城 | ||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | 高田城 | ||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 死亡 | |||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 死亡 |
戸川秀安が登場する合戦
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常山城の戦い [備中兵乱]
1575年5月24日
岡山県岡山市南区灘崎町迫川
毛利・宇喜多勢の攻撃により、三村方の諸城は次々と落城し、残るは常山城と松山城だけとなった。
連合軍は両城を分断して攻め、松山城が陥落し、三村元親が自害したため三村氏は滅亡した。
常山城は孤立無援となり、家臣たちは四国に落ち延びることを進言したが、元親の妹婿にあたる上野高徳は「元親に毛利氏からの離反を勧めたのは自分であり、元親やその一族が滅びたというのにおめおめと生き永らえることができようか」とこれを受け入れず抗戦を決意し、城内にはわずか100人ほどの兵が残った。
天正3年(1575年)5月24日、小早川隆景率いる毛利勢は宇喜多直家とともに常山城を攻撃する。
この小早川勢には三村親成・親宣父子も4,300ほどの軍勢を率いて従軍している。
激しい攻防戦の末、城方は敵を翻弄し抗戦したが最終的に城は陥落し、隆徳は一族と共に自害した。
常山城は滅亡し、毛利氏による備中国制圧が達成された。
翌年、常山城は毛利氏から宇喜多氏に渡り、戸川秀安が城主となった。
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辛川の戦い [織田信長の中国平定]
1580年3月13日
岡山県岡山市北区西辛川
宇喜多直家に属城の美作祝山城を包囲された毛利輝元は、自ら祝山城の救援に向かったが、宇喜多勢に阻まれて祝山城まで到達することができないでいた。
そのため輝元は、小早川隆景率いる15000の軍勢に直家の本領である備前に侵攻させたのである。
このとき病床にあった直家に代わり、弟で富山城主の宇喜多忠家が総大将ととなり、宇喜多家の宿老で辛川城の戸川秀安・達安らとともに備前・備中国境に近い備前辛川で小早川勢を迎え撃つ。
辛川城に近い一宮から富山城近くの矢坂まで、七段の陣を立てて防戦を張り、辛川村の北にある山陰には当時13歳で初陣であった戸川達安率いる一隊を忍ばせた。
天正8年(1580年)3月13日、備中高松城から加茂城を経て辛川城近くへと進んだ毛利勢は、真正面に陣取る宇喜多勢めがけて襲いかかります。
激しいぶつかり合いとなるも、宇喜多勢はこの間を見て退却を開始。
小早川軍は深追いし辛川村を通り過ぎたあたりで、山陰に潜んでいた戸川達安隊が飛び出し、毛利軍を挟み撃ちにした。
総崩れとなった小早川軍は、備前から兵を退領き領国へと退却していった。
この毛利軍の大敗は「辛川崩れ」と呼ばれる。
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高城の戦い [織田信長の中国平定]
1580年4月28日
岡山県岡山市北区建部町和田南
天正8年(1580年)3月、宇喜多直家は家臣の戸川秀安・達安らに命じて、毛利輝元と結んで宇喜多氏に抵抗を続ける竹内為能が守る美作高城を攻撃させた。
これに対し、竹内為能の要請を受けた輝元が援軍を高城に送ったため、宇喜多勢は攻めあぐねる。
4月28日には、直家が自ら兵を率いて高城に攻め寄せたが高城は堅城であり為能らが防戦に努めたため、落とすことはできなかった。
しかし、陣替えの隙を突いて再度侵攻してきた宇喜多氏に攻められ、高城二ノ丸の守将である岸氏勝が宇喜多氏に寝返ったこともあり落城。
竹内為能は籾村口に落ち延びた所を宇喜多勢に討ち取られた。
戸川秀安が登場する記事一覧
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