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  • ● 1580年 羽柴(豊臣)秀吉が弟・秀長に但馬平定を命じる
  • ● 1583年 北ノ庄城に追い詰められた柴田勝家が城に放火してお市と共に自刃
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この人誰?

水野信元

備中兵乱

1565年5月

宇喜多直家と三村家親

目次[非表示]

三星城の戦い(みつぼしじょうのたたかい)

1565年5月24日

岡山県美作市明見

出雲の尼子氏に属していた備中松山城主の三村家親は、尼子氏が衰退していったため、安芸の毛利氏を頼るようになり勢力拡大をおこなった。

永禄8年(1565年)5月、三村家親毛利元就の支援を受けて、浦上宗景配下の後藤勝基の美作三星城を攻めた。

しかし後藤勝基の叔父にあたる宇喜多直家が後詰を送ったため、三村家親は三星城の攻略を諦め退却した。

高田城の戦い(たかだじょうのたたかい)

1565年12月

岡山県真庭市勝山

興禅寺の変(こうぜんじのへん)

1566年2月5日

岡山県真庭市久世

沼表の戦い(ぬまおもてのたたかい)

1566年5月10日

岡山県岡山市東区矢津一帯

三村五郎兵衛

LOSE

明善寺城の戦い(みょうぜんじじょうのたたかい)

1567年7月

岡山県岡山市中区沢田

荘元祐

LOSE

佐井田表の戦い(さいだおもてのたたかい)

1571年9月4日

岡山県真庭市下中津井

明善寺城の戦いに敗れて三村氏の求心力が低下すると、備中にも浦上宗景の勢力がおよぶ。

元亀2年(1571年)9月、毛利輝元の支援を得た三村元親は前年に引き続き兄・庄元祐や叔父・三村親成と共に、宗景の属城となっていた備中佐井田城を攻撃する。

これに対し宗景は、家臣の岡本秀広や宇喜多直家配下の伊賀久隆岡家利花房職秀らに命じて備前・美作・播磨の軍勢を率いて赴援させる。

9月4日、三村勢と宇喜多勢が佐井田城外で衝突し、三村元親が敗れ元親の兄・庄元祐が討死した。

この時、岡本秀広は敵の首を挙げており、浦上宗景より「比類なき働き」と賞賛され、宗景と赤松満政の2人から感状を賜っている。

しかし輝元からの援軍が到着すると三村勢は佐井田城を攻撃し、城主の植木秀資は敗れた。

国吉城の戦い(くによしじょうのたたかい)

1574年12月25日 ~ 1575年1月1日

岡山県高梁市川上町七地

口羽春吉

WIN

三村政親

LOSE

浦上宗景毛利輝元の和睦により、宇喜多直家も毛利氏に従い、直家と対立していた三村元親織田信長に接触し、輝元に対して反乱を起こす。

天正2年(1574年)12月25日、小早川隆景輝元の命を受けて元親の一族である三村政親のいる備中国吉城を2万の軍勢で攻撃する。

政親は5日間城を守った後、夜間に脱出し、翌年正月元日に国吉城は陥落した。

城内にいた兵士たちは見せしめとして全員斬首された。

兵乱後、毛利氏家臣の口羽春吉が入城した。

杠城の戦い(ゆずりはじょうのたたかい)

1575年1月8日

岡山県新見市上市

荒平山城の戦い(あらひらやまじょうのたたかい)

1575年1月17日 ~ 30日

岡山県総社市秦

川西之秀

LOSE

鬼身城の戦い(きのみじょうのたたかい)

1575年1月23日 ~ 29日

岡山県総社市山田

上田実親

LOSE

荒平山城を包囲しながら、毛利輝元方の小早川隆景は、天正3年(1575年)正月23日、毛利氏に通じた三村一族の成羽城主の三村親成らを先導にして、三村元親の実弟で上田氏の養子となっていた上田実親が居る鬼身城を攻撃する。

鬼身城は、備中南部を扼す要衝であった。

毛利氏の大軍に包囲された上田実親は、城兵の命と引き替えに同月29日に20歳という若さで自刃した。

落城した鬼身城は、翌天正4年(1576年)から、輝元の家臣の宍戸隆家が入城した。

松山城の戦い(まつやまじょうのたたかい)

1575年4月4日 ~ 5月22日

岡山県高梁市内山下

常山城の戦い(つねやまじょうのたたかい)

1575年5月24日

岡山県岡山市南区灘崎町迫川

毛利・宇喜多勢の攻撃により、三村方の諸城は次々と落城し、残るは常山城と松山城だけとなった。

連合軍は両城を分断して攻め、松山城が陥落し、三村元親が自害したため三村氏は滅亡した。

常山城は孤立無援となり、家臣たちは四国に落ち延びることを進言したが、元親の妹婿にあたる上野高徳は「元親に毛利氏からの離反を勧めたのは自分であり、元親やその一族が滅びたというのにおめおめと生き永らえることができようか」とこれを受け入れず抗戦を決意し、城内にはわずか100人ほどの兵が残った。

天正3年(1575年)5月24日、小早川隆景率いる毛利勢は宇喜多直家とともに常山城を攻撃する。

この小早川勢には三村親成・親宣父子も4,300ほどの軍勢を率いて従軍している。

激しい攻防戦の末、城方は敵を翻弄し抗戦したが最終的に城は陥落し、隆徳は一族と共に自害した。

常山城は滅亡し、毛利氏による備中国制圧が達成された。

翌年、常山城は毛利氏から宇喜多氏に渡り、戸川秀安が城主となった。

天神山城の戦い(てんじんやまじょうのたたかい)

1577年2月 ~ 1578年

岡山県和気郡和気町

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬