備中兵乱
備中兵乱
1565年5月
宇喜多直家と三村家親
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三星城の戦い(みつぼしじょうのたたかい)
1565年5月24日
岡山県美作市明見
出雲の尼子氏に属していた備中松山城主の三村家親は、尼子氏が衰退していったため、安芸の毛利氏を頼るようになり勢力拡大をおこなった。
永禄8年(1565年)5月、三村家親は毛利元就の支援を受けて、浦上宗景配下の後藤勝基の美作三星城を攻めた。
しかし後藤勝基の叔父にあたる宇喜多直家が後詰を送ったため、三村家親は三星城の攻略を諦め退却した。
高田城の戦い(たかだじょうのたたかい)
1565年12月
岡山県真庭市勝山
興禅寺の変(こうぜんじのへん)
1566年2月5日
岡山県真庭市久世
沼表の戦い(ぬまおもてのたたかい)
1566年5月10日
岡山県岡山市東区矢津一帯
明善寺城の戦い(みょうぜんじじょうのたたかい)
1567年7月
岡山県岡山市中区沢田
佐井田表の戦い(さいだおもてのたたかい)
1571年9月4日
岡山県真庭市下中津井
明善寺城の戦いに敗れて三村氏の求心力が低下すると、備中にも浦上宗景の勢力がおよぶ。
元亀2年(1571年)9月、毛利輝元の支援を得た三村元親は前年に引き続き兄・庄元祐や叔父・三村親成と共に、宗景の属城となっていた備中佐井田城を攻撃する。
これに対し宗景は、家臣の岡本秀広や宇喜多直家配下の伊賀久隆・岡家利・花房職秀らに命じて備前・美作・播磨の軍勢を率いて赴援させる。
9月4日、三村勢と宇喜多勢が佐井田城外で衝突し、三村元親が敗れ元親の兄・庄元祐が討死した。
この時、岡本秀広は敵の首を挙げており、浦上宗景より「比類なき働き」と賞賛され、宗景と赤松満政の2人から感状を賜っている。
しかし輝元からの援軍が到着すると三村勢は佐井田城を攻撃し、城主の植木秀資は敗れた。
国吉城の戦い(くによしじょうのたたかい)
1574年12月25日 ~ 1575年1月1日
岡山県高梁市川上町七地
浦上宗景と毛利輝元の和睦により、宇喜多直家も毛利氏に従い、直家と対立していた三村元親は織田信長に接触し、輝元に対して反乱を起こす。
天正2年(1574年)12月25日、小早川隆景は輝元の命を受けて元親の一族である三村政親のいる備中国吉城を2万の軍勢で攻撃する。
政親は5日間城を守った後、夜間に脱出し、翌年正月元日に国吉城は陥落した。
城内にいた兵士たちは見せしめとして全員斬首された。
兵乱後、毛利氏家臣の口羽春吉が入城した。
杠城の戦い(ゆずりはじょうのたたかい)
1575年1月8日
岡山県新見市上市
荒平山城の戦い(あらひらやまじょうのたたかい)
1575年1月17日 ~ 30日
岡山県総社市秦
鬼身城の戦い(きのみじょうのたたかい)
1575年1月23日 ~ 29日
岡山県総社市山田
荒平山城を包囲しながら、毛利輝元方の小早川隆景は、天正3年(1575年)正月23日、毛利氏に通じた三村一族の成羽城主の三村親成らを先導にして、三村元親の実弟で上田氏の養子となっていた上田実親が居る鬼身城を攻撃する。
鬼身城は、備中南部を扼す要衝であった。
毛利氏の大軍に包囲された上田実親は、城兵の命と引き替えに同月29日に20歳という若さで自刃した。
落城した鬼身城は、翌天正4年(1576年)から、輝元の家臣の宍戸隆家が入城した。
松山城の戦い(まつやまじょうのたたかい)
1575年4月4日 ~ 5月22日
岡山県高梁市内山下
常山城の戦い(つねやまじょうのたたかい)
1575年5月24日
岡山県岡山市南区灘崎町迫川
毛利・宇喜多勢の攻撃により、三村方の諸城は次々と落城し、残るは常山城と松山城だけとなった。
連合軍は両城を分断して攻め、松山城が陥落し、三村元親が自害したため三村氏は滅亡した。
常山城は孤立無援となり、家臣たちは四国に落ち延びることを進言したが、元親の妹婿にあたる上野高徳は「元親に毛利氏からの離反を勧めたのは自分であり、元親やその一族が滅びたというのにおめおめと生き永らえることができようか」とこれを受け入れず抗戦を決意し、城内にはわずか100人ほどの兵が残った。
天正3年(1575年)5月24日、小早川隆景率いる毛利勢は宇喜多直家とともに常山城を攻撃する。
この小早川勢には三村親成・親宣父子も4,300ほどの軍勢を率いて従軍している。
激しい攻防戦の末、城方は敵を翻弄し抗戦したが最終的に城は陥落し、隆徳は一族と共に自害した。
常山城は滅亡し、毛利氏による備中国制圧が達成された。
翌年、常山城は毛利氏から宇喜多氏に渡り、戸川秀安が城主となった。
天神山城の戦い(てんじんやまじょうのたたかい)
1577年2月 ~ 1578年
岡山県和気郡和気町
この合戦に登場する武将
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三村家親 (みむらいえちか)
備中の豪族。鶴首城主。周辺の豪族を切り従え、備中最大の勢力となる。備前・美作への進出を企み、宇喜多直家と抗争を展開するが、直家により暗殺された。
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後藤勝元 (ごとうかつもと)
美作の豪族。三星城主。勝国の子。近隣豪族を支配下に置き、また尼子家や浦上家と友好を結んで、後藤家を隆盛に導いた。のち宇喜多直家に敗れて自害した。
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三浦貞勝 (みうらさだかつ)
美作の豪族。高田城主。貞久の嫡男。旧臣を糾合し、父の死により尼子家に奪われた高田城を奪還した。しかし、のちに三村家親の攻撃を受け敗北、自害した。
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宇喜多直家 (うきたなおいえ)
浦上家臣。乙子城主。権謀術数の限りを尽くして敵を葬り去り、家中最大の勢力を築き上げる。最後は主君・宗景を追放して備前国を掌握した稀代の謀将。
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宇喜多忠家 (うきたただいえ)
宇喜多家臣。興家の子。兄・直家の創業に大いに貢献した。兄の死後は甥・秀家の後見人となる。朝鮮派兵の際は、豊臣軍総督を務める秀家に従って渡海した。
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三村元親 (みむらもとちか)
備中の豪族。家親の子。父の死後家督を継ぐ。毛利家に属して勢力回復を企むが父の敵・宇喜多直家が毛利家と結んだため毛利家から離反、攻められ自害した。
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石川久智 (いしかわひさとも)
備中の豪族。高山城主。三村元親に従って明禅寺合戦に従軍するが、宇喜多直家の軍勢に敗れて負傷、死去した。石川家は吉備津神社社務代を基礎とした豪族。
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三村元祐 (みむらもとすけ)
備中の豪族。三村家親の長男。庄為資の養子となった。明禅寺合戦では父に従って出陣し、延原景能・宇喜多忠家の軍と戦うが負傷し、忠家の軍勢に討たれた。
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三村親成 (みむらちかしげ)
三村家臣。家親の弟。甥・元親が勢力回復を目指して織田信長に通じた際、反対して追放される。のちに毛利軍を案内して元親を討ち、戦後鶴首城主となった。
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植木秀資 (うえきひですけ)
備中の豪族。佐井田城主。下総守と称した。父・秀長と同様に毛利・宇喜多両家の間で離合集散を繰り返す。一時尼子家に居城を奪われるが、のちに奪回した。
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伊賀久隆 (いがひさたか)
備前の豪族。虎倉城主。宇喜多直家に臣従して頭角を現し、直家が織田につくと毛利を迎え撃って大勝。しかし久隆の勢いを警戒する何者かにより謀殺された。
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岡家利 (おかいえとし)
宇喜多家臣。利勝の子。主家の内乱により出奔、徳川家康に仕える。しかし、大坂の陣において子・平内が大坂方に属したため、家康の勘気を蒙り、自害した。
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花房職秀 (はなぶさもとひで)
宇喜多家臣。一番槍や一番乗りの功を多数立てた武勇の士。のち主君・秀家に諫言して勘気を蒙り出奔。関ヶ原合戦では東軍に属し、備中高松で8千石を得た。
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小早川隆景 (こばやかわたかかげ)
毛利元就の三男。安芸の豪族・小早川家を継ぎ、山陽地方の攻略にあたる。本能寺の変後は毛利家の存続をはかって豊臣秀吉に接近し、五大老の1人となった。
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三村元範 (みむらもとのり)
三村家臣。杠(こう)城主。家親の子。兄・元親が毛利家から離反したため、毛利家の大軍に居城を攻められ衆寡敵せず戦死した。長刀の達人であったという。
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宍戸隆家 (ししどたかいえ)
安芸の豪族。毛利元就と争うが、のちに元就の娘・五龍を娶って和睦し、毛利家の一門衆となる。吉川元春と軍事行動をともにし、各地の合戦で活躍した。
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天野隆重 (あまのたかしげ)
大内家臣。主家滅亡後は毛利家に属す。尼子家滅亡後、出雲月山富田城代となり山中幸盛の軍を撃退した。のちに元就の五男・元秋を補佐して出雲を支配した。
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戸川秀安 (とがわひでやす)
宇喜多家臣。宇喜多三老の1人。明禅寺合戦や児島八浜合戦など多くの合戦に従軍し、主君・直家の創業を助けた。のちに筆頭家老を務め、国政にも参画した。
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上野隆徳 (うえのたかのり)
三村家臣。常山城主。主君・家親の娘を娶った。義兄・元親の死後も居城に籠城して毛利家に抵抗したため、小早川隆景率いる毛利軍の攻撃を受け、玉砕した。
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長船貞親 (おさふねさだちか)
宇喜多家臣。宇喜多三老の1人。明禅寺合戦など各地の合戦に従軍し、主君・直家の創業を助けた。戸川秀安の隠退後は国政を担当する。のち妹婿に殺された。
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浦上宗景 (うらがみむねかげ)
備前の戦国大名。室津城主を務める兄・政宗と争う一方で、備前に勢力を拡大した。しかし、のちに台頭した家臣・宇喜多直家の攻撃を受けて居城を追われた。