武将名鑑【信長の野望 新生】
板垣信方(いたがきのぶかた)
板垣信方(いたがきのぶかた)
板垣信方 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
83 (84 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
58 (903 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
81 (133 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
74 (289 位) | ||||
合計 | 296 (154 位)2201人中 |
板垣信方 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 信形 | ||||
父 | 板垣信泰 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1489年 | 武田家臣。主君・信虎の追放に関わる。以後は信虎の子・信玄に仕え、各地の合戦で活躍した。上田原合戦で先鋒を務め村上義清軍と戦い、激闘の末戦死した。 | |||||||||
死亡年 | 1548年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
自衛 | 自勢力内では自部隊の防御上昇 | ||||||||||
城乗 | 敵城への耐久ダメージ増加 | ||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
撹乱 | 敵部隊の体力低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 58 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 死亡 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 死亡 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
板垣信方が登場する合戦
-
桑原城の戦い [武田晴信の美濃平定]
1542年7月3日 ~ 4日
長野県諏訪市四賀桑原
天文11年(1542年)6月29日、武田晴信(信玄)は御射山に本陣を構えた。
これに対して諏訪軍は7月1日に矢崎原で武田軍と対峙した。
諏訪軍は騎馬150、歩兵700から800人と兵力的な余裕がなく、武田・高遠軍と対峙するだけの力はなかったため、頼重は自らの居城である上原城を焼き捨てて、支城の桑原城へ後退した。
兵力や権力、軍費において武田軍が優位であり、頼重は苦境に立たされていた。
7月3日、晴信は桑原城に逃れた諏訪頼重を包囲すると、翌4日には頼重が一命を助けられるという条件で和睦に応じ、降伏開城した。
しかし、7月21日、晴信は約束を破り、頼重を甲斐府中(甲府)に連行して幽閉すると、東光寺で頼重と弟の頼高を自刃させた。
これにより諏訪惣領家は実質的に滅亡した。
-
宮川の戦い [武田晴信の美濃平定]
1542年9月25日
長野県茅野市宮川安国寺
天文11年(1542年)7月、諏訪庶家の高遠頼継とともに桑原城の戦いで諏訪惣領家の諏訪頼重を滅ぼした武田晴信(信玄)は、頼重の遺領である諏訪郡を頼継と折半した。
これにより諏訪領は宮川以西を高遠領、以東を武田領となったが、諏訪惣領家の家督を継いで諏訪郡一円を支配下におこうとする頼継はこれに不満を抱き、晴信に反旗を翻す。
9月10日、高遠頼継は武田領に侵攻して上原城を攻め落とし、さらに諏訪上社の矢島満清、有賀遠江守、伊那郡箕輪の福与城主・藤沢頼親や土豪の春近衆を味方につけた。
これに対して9月11日、下諏訪衆、諏訪満隆、安国寺竺渓ら武田方の武将を後詰するため、晴信は板垣信方に軍を預けて向かわせた。
さらに9月19日に晴信は、自己の正当性を主張するため頼重の遺児の寅王丸を擁して出陣し、9月25日に信濃宮川を挟んで頼継と衝突した。
この戦いで高遠勢は頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら700余人が討ち取られたという。
-
福与城の戦い [武田晴信の美濃平定]
1545年4月20日 ~ 6月11日
長野県上伊那郡箕輪町
武田晴信(信玄)は高遠城の戦いで高遠頼継を破った後、藤沢頼親の福与城を攻撃した。
頼親は、高遠氏と同じ諏訪氏の一族で、高遠頼継と結んで晴信に抵抗し続けていたからである。
晴信は天文14年(1545年)4月20日から福与城を攻囲をし始めるも、小笠原軍の後詰が到着し、4月29日には武田側の鎌田長門守が戦死するなど苦戦している。
また、5月21日からは竜ヶ崎砦を小山田信有ら郡内衆に攻めさせたが、こちらも困難な戦いであった。
しかし、5月22日には同盟国の今川義元の援軍も到着し、6月に入ってからは板垣信方の攻撃により竜ヶ崎砦は陥落した。
砦の陥落により、福与城で武田軍の攻撃に耐えていた藤沢頼親は意気消沈し、穴山信友や小山田信有を通じて晴信との和睦を模索し始めました。
攻囲を始めてから50以上経った6月10日、頼親に降伏を勧告する。
翌11日、頼親の実弟の権次郎が人質として穴山信友に引き渡され、降伏を受け入れた頼親が城を明け渡して戦いは終わり、晴信は福与城を焼いたうえで帰陣した。
この勝利により、晴信は伊那郡を制圧した。
-
小田井原の戦い [武田晴信の美濃平定]
1547年8月6日
長野県佐久市小田井
大井一族が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田氏に制圧されたが、関東管領の上杉憲政の支援を受けて志賀城の笠原清繁は抵抗を続けていた。
天文16年(1547年)閏7月24日、信濃佐久の志賀城主の笠原清繁が甲斐の武田晴信に攻囲されると、清繁を支援してきた上野平井城の関東管領である上杉憲政は志賀城に後詰を送る。
前年の河越夜戦での敗戦で大打撃を受けた関東管領家だが、依然としてその勢力は大きく、相当な兵力を動員可能だった。
8月5日、憲政の家臣の金井秀景が率いる援軍3000余は、碓氷峠を越えて信濃に入ると志賀城に向かう。
志賀城を包囲中の晴信は重臣の板垣信方・甘利虎泰・横田高松らに別動隊を編成させて迎撃に向かわせた。
8月6日、武田勢に信濃小田井原で奇襲され、上杉勢は一方的に撃破され3000余を討ち取られたという。
-
上田原の戦い [武田晴信の美濃平定]
1548年2月14日
長野県上田市上田原
おすすめ記事一覧
-
歴史イベント
【新解釈】本能寺の変の真実!光秀が謀反を決意した真の動機とは?
-
ランキング
戦国武将のかっこいい異名・あだ名ランキングTOP10
-
ランキング
障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!
-
ランキング
織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
-
戦国時代の逸話
豊臣秀吉の指は6本あった?その真相に迫る【戦国時代の逸話】
-
どうする家康
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
-
ランキング
戦国武将の変な名前ランキング!!
-
戦国時代の逸話
直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】
-
戦国時代の暮らし
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】
-
どうする家康
なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
-
どうする家康
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】
-
どうする家康
家康につかなかったため滅ぼされた三河武士、鵜殿長照(うどのながてる)とは?【マイナー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はなぜ松平から徳川に改姓したのか?【メジャー武将列伝】
-
戦国時代の女性
徳川家を苦しめた妖刀「村正」【戦国時代の逸話】
-
マイナー武将列伝
鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
-
蟹江七本槍
大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】