武将名鑑【信長の野望 新生】
津軽為信(つがるためのぶ)
津軽為信(つがるためのぶ)
津軽為信 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
86 (49 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
75 (224 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
91 (25 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
87 (45 位) | ||||
合計 | 339 (36 位)2201人中 |
津軽為信 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 大浦為信 | ||||
幼名 | 扇 | ||||
仮名・通称 | 大浦弥四郎 | ||||
法号・戒名 | 瑞祥院殿天室源棟大居士 | ||||
父 | 大浦守信 | ||||
養父 | 大浦為則 | ||||
配偶者・正室 | 阿保良(大浦為則の娘) | ||||
側室1 | 栄源院 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1550年 | 弘前藩初代藩主。大浦為則の娘を娶る。主家・南部家から独立し、17年かけて津軽を統一した。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、正式に津軽の領主となった。 | |||||||||
死亡年 | 1607年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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城乗 | 敵城への耐久ダメージ増加 | ||||||||||
策謀 | 特殊な調略具申が可能 | ||||||||||
竜騎兵 | 自部隊の騎馬LV・鉄砲LVが上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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同討 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 21 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 33 |
津軽為信が登場する合戦
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石川城の戦い [大浦(津軽)為信の津軽平定]
1571年5月5日
青森県弘前市石川
元亀2年(1571年)5月5日、陸奥大浦城主・大浦為信は、自身の支城である堀越城の修復をしたいと南部氏の津軽郡代である石川高信に申し出た。
この堀越城は石川高信の居城である陸奥石川城から2キロメートルほどの近さで、為信は工事を装いながら戦の準備を整えていた。
戦準備が整ったところで、堀越城修理の完了の宴を行うことを高信に伝え、高信側の家臣をもてなし、その隙にわずか八十余騎の兵を率いて石川城を奇襲して落としたと伝わっている。
城の本丸にいた高信は必死に防戦するも敵わず、妻子共々自害した。
そのため8月、南部信直は父の仇を討つため、自ら兵を率いて津軽に向かうも、その途中で南部一族の九戸政実が蜂起したとの報せを受けて、南部に帰陣している。
為信は石川城に家臣・板垣将兼を入れて守らせた。
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大光寺城の戦い [大浦(津軽)為信の津軽平定]
1575年8月13日
青森県平川市大光寺
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浪岡城の戦い [大浦(津軽)為信の津軽平定]
1578年7月20日
青森県青森市浪岡
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油川城の戦い [大浦(津軽)為信の津軽平定]
1585年3月27日
青森県青森市西田沢浜田
天正13年(1585年)3月、大浦為信は外ヶ浜(青森市・東津軽郡)の攻略に乗り出すと、3月27日に南部家臣として津軽の要所を支配していた奥瀬善九郎が守る陸奥油川城を攻撃する。
この奥瀬氏は、為信によって滅ぼされた浪岡城主の北畠氏の縁戚であったという。
為信に急襲された善九郎は一戦も交えずに、少人数の部下とわずかな軍資金をもって田名部方面へ逃れた。
これをみた外ヶ浜の国衆らは、抵抗することなく為信に降伏した。
『津軽一統志』には善九郎について「天然ノ質大臆病(大臆病な性格だ)」と書かれている。
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田舎館城の戦い [大浦(津軽)為信の津軽平定]
1585年5月20日
青森県南津軽郡田舎館村田舎舘
天正13年(1585年)5月20日、大浦為信は浅瀬石城主の千徳政氏とともに、第5代田舎館城主の千徳政武を攻撃した。
政武は、政氏の庶流にあたるが、嫡流の政氏とは立場を異にして、為信に抵抗を続けていたからである。
5月20日、政武は戦で敗れる直前に自害し、田舎館城は落城した。
ヤマコに在るサイカチの大樹は、この落城の際、330余名の城兵を埋葬した時の供養樹と伝承されている。
落城に際し、正室の於市の方は落延び、嫡子・武丸は鬼沢村の棟方左衛門の養子となったのち、その後棟方氏は11代続いた。
この戦いで為信と戦った千徳政氏の子・政康が、その後為信と対立したため、慶長2年(1597年)2月、浅瀬石城主の千徳氏も為信によって滅亡に追い込まれている。
津軽為信が登場する記事一覧
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