武将名鑑【信長の野望 新生】
熊谷信直(くまがいのぶなお)
熊谷信直(くまがいのぶなお)
熊谷信直 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
70 (389 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
73 (290 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
50 (1482 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
38 (1859 位) | ||||
合計 | 231 (815 位)2201人中 |
熊谷信直 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
幼名 | 熊谷千代寿丸 | ||||
仮名・通称 | 次郎三郎 | ||||
法号・戒名 | きさんせうけん | ||||
父 | 熊谷元直 | ||||
母 | 宮光信の娘 | ||||
配偶者・正室 | 伴好清の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1507年 | 安芸武田家臣。のちに主家と対立し、毛利家に属す。娘が元就の次男・吉川元春に嫁いでからは一門衆として重用され、吉川軍の先鋒を務めて各地で奮戦した。 | |||||||||
死亡年 | 1593年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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鉄壁 | 所属城の耐久ダメージ減少 | ||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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用心 | 自部隊の防御上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 40 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 47 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 54 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 64 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 76 |
熊谷信直が登場する合戦
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銀山城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1524年7月10日
広島県広島市安佐南区祇園町
鏡山城などを奪われた大内義興・義隆父子は、大永4年(1524年)に反撃に転じ、尼子経久が伯耆国に出陣している間を狙って、5月下旬に25,000の軍勢で安芸に侵入し、厳島に本陣を構えた。武田光和と桜尾城主・友田興藤の率いる軍勢は、友田方の大野弾正が籠もる門山城の後詰として大野女滝に出陣するが、大野弾正が大内方に内応して城に火を放ったために、武田・友田軍は敗北する。
大内軍の追撃で武田軍は70〜80人が討ち取られた(大野女滝の戦い)。大内軍は、本陣を門山城に移すと、義興の率いる本隊10,000が桜尾城を、嫡子の大内義隆を大将とする別働隊15,000が光和の居城である佐東銀山城を包囲した。
義隆はこの戦いが初陣であり、大内氏の重臣である陶興房らが加わっている。陰徳太平記によると、大内軍が佐東銀山城付近に布陣していた頃、熊谷信直や香川吉景などの武田方国人衆1,000騎余は”坂の上”と呼ばれるところに陣を置いて、大内軍の様子を見ていた。
興房は、国人衆が尾根伝いに城内に入るなら国人らの領地を先に攻めれば良く、そうしないとしても少数なので各個撃破できると判断していたが、杉氏と問田氏は6月27日の早朝に手勢を率いて坂の上を勝手に襲撃しようとした。
しかし、杉・問田勢1,500騎の朝駆けは熊谷・香川勢に見抜かれてしまい、伏兵により返り討ちにされている。7月3日、城兵3,000と共に籠城していた光和は、城外に出て大内の大軍と戦った。
武田軍は少数であったが奮戦し、日暮れまで勝敗は決しなかった。
この戦いでは、怪力で知られる光和自身が兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っている。一方、毛利元就からの急使により大内軍の安芸攻めを知った尼子経久は、銀山城を救援するため伯耆から出雲飯石郡赤穴まで引き返し、軍5,000を派遣。
尼子方に属していた毛利元就を初めとする安芸国人衆を引き連れ、大内軍と対峙した。
7月10日に大内軍と尼子軍の合戦が行われ、牛尾氏・亀井氏が率いていた尼子氏直属の軍勢が先陣として戦うが、義隆の初陣で士気の高い大内軍が第2陣(平賀氏・宍戸氏・三吉氏・宮氏の軍勢)まで撃ち破って勝利した。この時元就は、吉川・小早川・熊谷・香川・三須の手勢と共に尼子軍第3陣として控えていた。8月5日の夜、尼子軍は悪天候を突いて夜襲を行った。
この夜襲は、元就の提案により行われたもので、夜襲部隊は元就に加えて熊谷信直・香川光景・三須房清などの安芸国人衆を中心に編成されていた。
襲撃を受けた大内陣営は520余名が討たれた(毛利軍の被害は20余名とされる)ため、義隆の初陣に泥を塗らせないために、同月10日に大内軍は撤退した。尼子軍の救援により安芸武田氏は佐東銀山城を守りきったものの、友田氏の桜尾城は10月10日に大内方に降伏(二の丸まで大内軍に攻められてもなお抗戦を続けていたが、吉見頼興の仲介で講和に応じた)、大内軍の安芸侵攻は一定の成果を挙げた。
また、翌5年(1525年)3月には、毛利氏が尼子氏を離反して大内方についたため、安芸を巡る情勢は大内氏が優勢となった。
なお、享禄元年(1528年)にも大内義興・義隆の軍勢が再び安芸に出兵して佐東銀山城を包囲しているが、義興の病により城を落とせずに帰国している(義興は同年死去した)。 -
三入高松城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1533年8月10日
広島県広島市安佐北区可部町
天文2年(1533年)安芸武田氏から離反した重臣の熊谷信直は毛利元就と和議を結び、以後毛利氏の重臣となっていった。
同年、熊谷氏の旧主・安芸武田氏の武田光和による攻撃を受けたが三入高松城は落城せず、その防御能力の高さを見せ付けた。 -
赤穴城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1542年4月 ~ 7月27日
島根県飯石郡飯南町
大内義隆 (35)大内晴持
陶晴賢 (21)杉重矩 (44)内藤興盛 (47)毛利元就 (45)宍戸隆家 (24)平賀隆宗 (17)吉川興経 (34)小早川正平 (19)天野興定 (67)熊谷信直 (35)三吉広高 (-16)杉原理興 (34)多賀山通続 (36)山内隆通 (12)本城常光 (29)益田藤兼 (13)WIN
赤穴光清 (49)LOSE
天文9年(1540年)8月、尼子晴久(詮人)は、毛利元就の拠る安芸国郡山城を攻略するため出陣したが、大内義隆から派遣された陶晴賢の率いる援軍もあり敗北してしまった(郡山城の戦い)。
この敗北により、尼子方は多くの将兵を失い、尼子氏に従っていた国人領主らの多くが大内方へ離反した。
天文11年(1542年)正月11日、大内義隆はこの勢いに乗じて、ついに尼子氏を討つため出雲攻めの兵を興す。
義隆は嫡子・大内晴持や陶晴賢・杉重矩・内藤興盛ら直属の1万5000余の軍勢を率いて山口の築山館を出陣する。
安芸国を経由して、安芸国の毛利元就・宍戸隆家・平賀隆宗 ・吉川興経・小早川正平・天野興定・熊谷信直らの軍勢と、備後国の三吉広隆・山名(杉原)理興・多賀山通続・山内隆通らの将兵と合流し、3月には石見国でも本城常光・益田藤兼らの軍勢をも糾合し、総勢4万余の大軍に膨れ上がった。
4月、出雲・石見・ 備後と境を接し、尼子十旗のひとつである赤穴城に攻撃を開始する。
赤穴城は堅固な要害を備えていたことに加えて月山富田城からの援兵を得て兵力も増強させていたため、4万の軍勢の攻撃でも落ちる気配がなかった。
しかし、7月27日、城主の赤穴光清が不運にも流れ矢に当たって討死したため、城兵は光清の妻子の助命を条件として降伏した。
城兵3000余は、尼子氏の本城である出雲富田城に落ちていった。
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矢野城の戦い [毛利元就の周防・長門平定]
1555年4月11日
広島県広島市安芸区矢野町
天文24年(1555年)1月、野間隆実は大内義長・陶晴賢方の白井房胤・賢胤父子と共に仁保島城を攻撃し、毛利氏との敵対を明らかにした。
隆実は、大内義隆の偏諱を受けており、安芸国内でも有数の水軍を保持していた。
毛利元就はまさか隆実が毛利氏を裏切るとは思わず、これに激怒して野間隆実の居城である矢野城攻めを決意した。
4月、毛利軍の南下を知った晴賢は、山口より羽仁源七や小幡某に兵100余を預け、矢野城に入城させて防備を強化した。
毛利軍は出城のひとつを落とした後、矢野城を包囲し攻城戦を開始。
毛利軍の猛攻の前に城は落城寸前となった。
ここで隆実の舅・熊谷信直を通じて降伏し、矢野城は開城した。
野間隆実は熊谷信直の所領である安芸三入庄に移送されたのち謀殺され、その直後に家臣や城兵も矢野城下の真教寺に幽閉されて殺害された。
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