武将名鑑【信長の野望 新生】
冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)
冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)
冷泉隆豊 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
62 (701 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
73 (290 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
68 (518 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
66 (519 位) | ||||
合計 | 269 (324 位)2201人中 |
冷泉隆豊 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 隆祐 | ||||
幼名 | 五郎 | ||||
仮名・通称 | 五郎左衛門 大夫判官 | ||||
父 | 冷泉興豊 | ||||
配偶者・正室 | 平賀弘保の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1513年 | 大内家臣。安芸銀山城主を務めた。陶晴賢が謀叛すると主君・義隆に従って長門に逃亡し、義隆の介錯を行った。義隆の死後は陶軍と戦い、凄絶な死を遂げた。 | |||||||||
死亡年 | 1551年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
牢固 | 自部隊の防御上昇 | ||||||||||
堅陣 | 合戦で積極的に要所・退き口を防衛 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
急襲 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 34 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 死亡 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 死亡 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
冷泉隆豊が登場する合戦
-
第一次月山富田城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1543年3月 ~ 5月7日
島根県安来市広瀬町富田
大内義隆 (36)陶晴賢 (22)杉重矩 (45)内藤興盛 (48)冷泉隆豊 (30)弘中隆兼 (33)大内晴持
毛利元就 (46)小早川正平 (20)益田藤兼 (14)福島源三郎親弘
右田弥四郎
毛利隆元 (20)渡辺通 (32)LOSE
赤穴城を落とした大内義隆は勢いに乗じ、天文12年(1543年)3月、尼子晴久の居城である出雲の月山富田城に攻撃を開始する。
大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。
また、義隆の養嗣子の大内晴持も併せて出陣していた。
毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。
しかし、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に失敗したり、出陣して1年を過ぎていた大勢の士気は下がっていたり、城攻めは難航する。
そして4月末には、尼子方から大内方に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。
城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。
5月7日、劣勢が明白となった大内軍は撤退を開始し、出雲意宇郡出雲浦へ退いた。
尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。
このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。
義隆は宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月25日に山口に帰還する。
しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。
殿を命じられていた毛利軍は、沼田小早川正平らが討死するなど過酷を強いられながら安芸への撤退を続けるも、石見の山吹城から繰り出された尼子軍の追撃によって、石見国の大江坂七曲りで元就と嫡子の隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。
この時、毛利家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、内藤九郎右衛門元茂・波多野源兵衛・井上与三右衛門元有・井上源左衛門・三戸与五郎・三戸小三郎ら7人が囮役となり追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。
現在この毛利元就が九死に一生を得た場所は、七騎坂(島根県大田市温泉津町小浜)と呼ばれている。
吉田郡山城に無事帰還した元就は、渡辺通の献身に感動し、通の子・渡辺長を股肱の臣として重用している。
寵愛していた大内晴持が船の転覆により溺死したことで、義隆はそれ以降政治に対する意欲がなくなり、一方で尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ最盛期を迎える。
この遠征は1年4ヶ月にも及んだ挙句敗戦し、大内氏衰退の一因となった。
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