武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
三淵光行(みつぶちみつゆき)
三淵光行(みつぶちみつゆき)
三淵光行 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
64 (631 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
58 (921 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
61 (876 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
52 (1227 位) | ||||
合計 | 235 (760 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1571年 | 細川藤孝の甥。父・藤英の自害後、藤孝に養育される。関ヶ原合戦に際し、丹後田辺城に籠もり、西軍と戦う。功績を徳川家康に賞され、近江に所領を得た。 | |||||||||
死亡年 | 1623年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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自衛 | 自勢力内では自部隊の防御上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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同討 | 敵部隊の兵力減少 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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資糧整備 | 腰兵糧日数増加 兵糧収入減少 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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高家心得 | 高家の誉れが発令可能、すでに発令可能なら維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 未登場 | |||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 元服前 | |||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 元服前 | |||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | 建部山城 | ||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 30 | 田辺城 | ||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 44 | 中津城 |
三淵光行が登場する合戦
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田辺城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年7月19日 ~ 9月18日
京都府舞鶴市北田辺
小野木重次 (37)前田茂勝
織田信包 (57)小出吉政 (35)杉原長房 (26)谷衛友 (37)藤掛永勝
川勝秀氏
長谷川宗仁
赤松左兵衛佐
山名主殿頭
中川秀成 (30)毛利高政 (41)早川長敏
木下延俊 (23)竹中重利 (38)WIN
田辺城(舞鶴城)
慶長5年(1600年)6月16日に家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、畿内一帯が軍事的な空白地域になったことを好機と見て、大坂城に入り家康を討伐するために兵を挙げた。
石田三成は大坂城下にいる東軍方の大名の妻子を人質として取り込もうとしたが、その際、長岡(細川)忠興の正室であるガラシャが自死し、失敗に終わった。
その後、西軍は畿内近国の家康側諸勢力を制圧することに取り組んだ。
その中には丹後田辺城も含まれており、丹波福知山城主の小野木重次や亀岡城主の前田茂勝、織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら丹波・但馬の諸大名と、中川秀成・毛利高政・早川長敏・木下延俊・竹中重利ら豊後の諸大名も加わり、1万5000の兵力で田辺城を包囲した。
田辺城を守る側は、忠興が殆どの兵を連れて出ていたため、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎、さらに幽斎の甥である三淵光行が率いる500人ほどしかいなかった。
幸隆と幽斎らは抵抗するも、兵力の差が大きく、援軍の見込みもないため、月末には田辺城は落城寸前となった。
しかし、攻撃側には幽斎を文化人として尊敬する者も多く、積極的な攻撃ができていなかった。
幽斎は当時三条西実枝から古今伝授を受けており、幽斎の弟子である八条宮智仁親王やその兄の後陽成天皇らも、幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。
そのような状況下でついに天皇は、幽斎の弟子である三条西実条と中院通勝、中将烏丸光広を勅使として派遣し、講和を命じた。
勅命を受けた幸隆と幽斎は、9月13日に田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に移ることとなった。
この戦いは西軍の勝利となったが、丹波・但馬の西軍1万5000は田辺城に釘付けにされ、関ヶ原の本戦が行われる9月15日までに間に合わず、西軍の展開に大きな影響を及ぼした。
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