武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
武田光和(たけだみつかず)
武田光和(たけだみつかず)
武田光和 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
21 (2200 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
49 (1432 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
36 (2050 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
29 (2117 位) | ||||
合計 | 135 (2187 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1502年 | 安芸武田家10代当主。佐東銀山城主。尼子家に属した。たびたび大内家に攻められるが、家臣団の奮闘で城を守る。しかしのちに家臣団の離反を自ら招いた。 | |||||||||
死亡年 | 1540年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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反攻 | 城が強攻されたときに攻城部隊へのダメージ増加 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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威圧 | 敵部隊の攻撃低下 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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軍役増強 | 最大兵力増加 金銭収入減少 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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高家心得 | 高家の誉れが発令可能、すでに発令可能なら維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 死亡 | |||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 死亡 | |||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 死亡 | |||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 死亡 | |||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 死亡 | |||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 | |||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | |||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 死亡 | |||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 死亡 |
武田光和が登場する合戦
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銀山城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1524年7月10日
広島県広島市安佐南区祇園町
鏡山城などを奪われた大内義興・義隆父子は、大永4年(1524年)に反撃に転じ、尼子経久が伯耆国に出陣している間を狙って、5月下旬に25,000の軍勢で安芸に侵入し、厳島に本陣を構えた。武田光和と桜尾城主・友田興藤の率いる軍勢は、友田方の大野弾正が籠もる門山城の後詰として大野女滝に出陣するが、大野弾正が大内方に内応して城に火を放ったために、武田・友田軍は敗北する。
大内軍の追撃で武田軍は70〜80人が討ち取られた(大野女滝の戦い)。大内軍は、本陣を門山城に移すと、義興の率いる本隊10,000が桜尾城を、嫡子の大内義隆を大将とする別働隊15,000が光和の居城である佐東銀山城を包囲した。
義隆はこの戦いが初陣であり、大内氏の重臣である陶興房らが加わっている。陰徳太平記によると、大内軍が佐東銀山城付近に布陣していた頃、熊谷信直や香川吉景などの武田方国人衆1,000騎余は”坂の上”と呼ばれるところに陣を置いて、大内軍の様子を見ていた。
興房は、国人衆が尾根伝いに城内に入るなら国人らの領地を先に攻めれば良く、そうしないとしても少数なので各個撃破できると判断していたが、杉氏と問田氏は6月27日の早朝に手勢を率いて坂の上を勝手に襲撃しようとした。
しかし、杉・問田勢1,500騎の朝駆けは熊谷・香川勢に見抜かれてしまい、伏兵により返り討ちにされている。7月3日、城兵3,000と共に籠城していた光和は、城外に出て大内の大軍と戦った。
武田軍は少数であったが奮戦し、日暮れまで勝敗は決しなかった。
この戦いでは、怪力で知られる光和自身が兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っている。一方、毛利元就からの急使により大内軍の安芸攻めを知った尼子経久は、銀山城を救援するため伯耆から出雲飯石郡赤穴まで引き返し、軍5,000を派遣。
尼子方に属していた毛利元就を初めとする安芸国人衆を引き連れ、大内軍と対峙した。
7月10日に大内軍と尼子軍の合戦が行われ、牛尾氏・亀井氏が率いていた尼子氏直属の軍勢が先陣として戦うが、義隆の初陣で士気の高い大内軍が第2陣(平賀氏・宍戸氏・三吉氏・宮氏の軍勢)まで撃ち破って勝利した。この時元就は、吉川・小早川・熊谷・香川・三須の手勢と共に尼子軍第3陣として控えていた。8月5日の夜、尼子軍は悪天候を突いて夜襲を行った。
この夜襲は、元就の提案により行われたもので、夜襲部隊は元就に加えて熊谷信直・香川光景・三須房清などの安芸国人衆を中心に編成されていた。
襲撃を受けた大内陣営は520余名が討たれた(毛利軍の被害は20余名とされる)ため、義隆の初陣に泥を塗らせないために、同月10日に大内軍は撤退した。尼子軍の救援により安芸武田氏は佐東銀山城を守りきったものの、友田氏の桜尾城は10月10日に大内方に降伏(二の丸まで大内軍に攻められてもなお抗戦を続けていたが、吉見頼興の仲介で講和に応じた)、大内軍の安芸侵攻は一定の成果を挙げた。
また、翌5年(1525年)3月には、毛利氏が尼子氏を離反して大内方についたため、安芸を巡る情勢は大内氏が優勢となった。
なお、享禄元年(1528年)にも大内義興・義隆の軍勢が再び安芸に出兵して佐東銀山城を包囲しているが、義興の病により城を落とせずに帰国している(義興は同年死去した)。 -
三入高松城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1533年8月10日
広島県広島市安佐北区可部町
天文2年(1533年)安芸武田氏から離反した重臣の熊谷信直は毛利元就と和議を結び、以後毛利氏の重臣となっていった。
同年、熊谷氏の旧主・安芸武田氏の武田光和による攻撃を受けたが三入高松城は落城せず、その防御能力の高さを見せ付けた。
武田光和が登場する記事一覧
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