大友宗麟と島津義久
大友宗麟と島津義久
1578年3月
島津義久と大友宗麟
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土持表の戦い(つちもちおもてのたたかい)
1578年3月18日
宮崎県延岡市
天正5年(1577年)に日向の伊東義祐が大友宗麟を頼って豊後に落ちのびたあとも、日向門川城主であった米良四郎右衛門(祐次)らは、日向に進出してきた島津義久には服さず、大友氏に対して日向への出陣を要請していた。
そして天正6年(1578年)3月、米良四郎右衛門は単独で大友方から島津方についた縣の土持親成を攻めている。
この戦いでは米良四郎右衛門が敗れて大勢を変えることはできなかったが、こうした動きにおされて大友氏は日向への侵攻を決めたのである。
松尾城の戦い(まつおじょうのたたかい)
1578年4月10日
宮崎県延岡市松山町
高城河原の戦い(たかじょうがわらのたたかい)
1578年11月12日
宮崎県児湯郡木城町高城一帯
詫麻原の戦い(たくまばるのたたかい)
1580年3月4日
熊本県熊本市渡鹿一帯
大友氏が高城河原の戦いに敗れたので権威が失墜し、肥後などの周辺諸国との近江が崩れた。
大友氏に帰属していた肥後隈本城の城親賢は、島津義久に通じ天正8年(1580年)3月に反旗を翻した。
大友氏と結ぶ阿蘇惟将は、家臣の甲斐宗運に隈本城の攻撃を命じた。
このとき城から打って出てきた城勢と阿蘇勢が託麻原で衝突し、城勢が敗北し城に退却した。
鞍懸城の戦い(くらかけじょうのたたかい)
1580年3月 ~ 10月9日
大分県豊後高田市佐野
熊牟礼城の戦い(くまむれじょうのたたかい)
1580年4月13日
大分県由布市庄内町
大友一族の田原親貫が大友氏に反旗を翻すと、これに呼応して同じ大友一族の松牟礼城主・田北紹鉄が兵を挙げた。
居城の松牟礼城から熊牟礼城に移り籠城した紹鉄は、大友義統の命を受けた志賀親度・朽網鑑康・一萬田鑑実・戸次鎮連ら1万余の軍勢に包囲される。
抗戦の不利を悟った田北紹鉄は、再起を図るべく戦わずして城を脱出して筑前に向かったが、途中の豊後日田の大山村で大友勢に討ち取られた。
田北氏の家督は、紹鉄の養子・統員が継ぐ。
水俣城の戦い(みなまたじょうのたたかい)
1581年8月20日 ~ 9月27日
熊本県水俣市古城
響野原の戦い(ひびきのはらのたたかい)
1581年12月2日
熊本県宇城市豊野町
花の山城の戦い(はなのやまじょうのたたかい)
1585年8月10日
熊本県宇城市豊野町
阿蘇家重臣の甲斐宗運は島津氏との抗争激化をおそれて島津氏が阿蘇・甲斐氏を押さえるために築いていた花の山城への攻撃を控えていたが、天正13年(1585年)7月、宗運が没すると、宗運の子の甲斐宗立(親英)は花の山城を急襲し、城将の木脇祐昌・鎌田政虎らを討ち取った。
阿蘇氏が島津氏に対する敵対姿勢を明確にしたことで阿蘇合戦が始まり、その後敗れた阿蘇氏は島津氏に降伏している。
花の山城もほどなくして島津氏に奪還された。
隈庄城の戦い(くまのしょうじょうのたたかい)
1585年8月11日 ~ 15日
熊本県下益城郡城南町
堅志田城の戦い(かたしだじょうのたたかい)
1585年8月13日
熊本県下益城郡美里町
この合戦に登場する武将
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米良祐次 (めらすけつぐ)
伊東家臣。日向門川城主。主家の日向退去後、人質を出して島津家に属すが、大友家に通じて日向国内の情報を流した。耳川合戦では大友軍に属し、戦死した。
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土持親成 (つちもちちかなり)
県土持家16代当主。親佐の子。松尾城主。歴代当主の中でもまれにみる文武両道に優れた名将と評されていた。島津家と結ぶが、大友軍の攻撃に敗れ、自害。
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大友宗麟 (おおともそうりん)
大友家第21代当主。名は義鎮。義鑑の子。最盛期には九州6カ国を領したが、高城川合戦で島津軍に敗れて家臣を多数失い、以後は没落の一途をたどった。
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島津義久 (しまづよしひさ)
島津家16代当主。貴久の嫡男。優秀な弟たちの協力により領土を拡大、九州をほぼ手中に収めるが、豊臣秀吉の九州征伐軍に敗北し、薩摩1国を安堵された。
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甲斐宗運 (かいそううん)
阿蘇家臣。肥後御船城主。大友家と結んで龍造寺家や島津家と外交交渉を行い、阿蘇家の存続に努めた。島津家に属した相良義陽の攻撃を受けるが、撃退した。
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城親賢 (じょうちかかた)
大友家臣。肥後隈本城主。親冬の嫡男。主家没落後は島津家に属し、島津勢を城外に招いて国内経営に協力した。龍造寺勢力の南下に伴い、龍造寺家に従った。
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大友親家 (おおともちかいえ)
大友家臣。宗麟の次男。父の命で僧侶となるが、武術に励み、のちに還俗。島津義久に通じたため、所領を没収される。主家改易後は肥後細川家などに仕えた。
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志賀親度 (しがちかのり)
大友家臣。豊後岡城主。親守の子。肥後方分を務めた。主君・義統とたびたび対立する。のち島津義久の豊後侵攻軍に内応し、子・親次により自害させられた。
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一萬田鑑実 (いちまだあきざね)
大友家臣。豊後小牟礼城主。生涯のほとんどを軍陣で過ごした一方で、主君・宗麟を招いて観桜会を開いた風流人。一族から謀叛人が出た責を負い、自害した。
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立花道雪 (たちばなどうせつ)
大友家臣。立花城西城督。落雷で歩行不能となるが、輿に乗って常に大友軍の先陣を切り「鬼道雪」の異名をとった。生涯を軍陣で過ごした、家中随一の猛将。
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島津義弘 (しまづよしひろ)
島津家17代当主。貴久の次男。伊東・大友両家を粉砕し、島津家を隆盛に導いた家中随一の猛将。朝鮮派兵の際は明の大軍を破り「鬼石曼子」と恐れられた。
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犬童頼安 (いんどうよりやす)
相良家臣。武勇に優れ、各地で活躍。肥後水俣城攻防戦では敵将・新納忠元と連歌を応酬した。主君・義陽の死後は、深水長智とともに幼主・頼房を補佐した。
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相良義陽 (さがらよしひ)
肥後の戦国大名。人吉城主。晴広の子。祖父・上村頼興の後見を受ける。2度の内乱を乗り切って領国を拡大するが島津家に降り、阿蘇家との戦いで戦死した。
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甲斐親英 (かいちかひで)
阿蘇家臣。肥後御船城主。宗運の子。島津軍に敗れて和睦するが、大友家との連絡を警戒され、肥後八代に抑留された。国人一揆に加担し、敗走中に討たれた。
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阿蘇惟光 (あそこれみつ)
肥後の豪族。岩尾城主。惟種の子。わずか3歳で阿蘇大宮司となる。豊臣秀吉に降り、佐々成政に仕えるが、肥後国人一揆を扇動したとの讒言により殺された。