最上義光の南出羽平定
最上義光の南出羽平定
1577年3月
最上義光と大宝寺義興
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天童城の戦い(てんどうじょうのたたかい)
1577年3月17日
山形県天童市天童
天正5年(1577年)3月、最上義光は最上八楯との戦いを決意して天童頼貞・頼澄父子が守る天童城を攻めた。
しかし八楯の一家である延沢城の延沢満延らが天童城を救援したため攻撃は失敗する。
そこで天童頼貞の娘(天童御前)が義光の側室に入ることで終戦となった。
また義光は、娘を延沢満延の嫡男・康満に嫁がせた。
7年後の天正12年(1584年)に再度義光は天童城を急襲する。
延沢氏の裏切りなどがあったため天童氏は敗北し国分盛氏を頼って陸奥国宮城郡に落ちのびた。
東根城の戦い(ひがしねじょうのたたかい)
1581年5月
山形県東根市東根
天童城を落とした最上義光は、東根頼景が守る東根城を攻めた。
東根頼景は、天童頼貞の次男で天童頼澄の弟にあたる。
天童氏に属した有力国人達は次々と最上氏へ鞍替えしたが、頼景はその動きに同調せず最上氏への抵抗を続けていた。
天正9年(1581年)5月10日、義光は頼景の家臣・東根(里見)景佐の内応により東根城を総攻撃し、頼景は数十人の部下と共に自刃し非業の死を遂げた。
その後、東根城は東根景佐に与えられた。
鮭延城の戦い(さけのべじょうのたたかい)
1581年2月4日
山形県最上郡真室川町内町
義光は天正9年(1581年)2月、家老・氏家守棟に命じて鮭延秀綱が守る鮭延(真室)城を攻めさせた。
鮭延秀綱の父・貞綱は、もともと横手城の小野寺氏に属していたが、永禄6年(1563)の尾浦城主・大宝寺義氏との戦いに敗れ、大宝寺氏に帰服していた。
鮭延城に籠城した秀綱は、大宝寺氏からの援軍とともに防戦に努めたものの、氏家守棟の調略により内部の切り崩しを受けたため支えきれず降伏した。
その後秀綱は、本領を安堵され義光の家臣となる。
尾浦城の変(おうらじょうのへん)
1583年3月6日
山形県鶴岡市大山
尾浦城の戦い(おうらじょうのたたかい)
1587年10月5日
山形県鶴岡市大山
尾浦城の変で、大宝寺義氏が最上義光と結んだ家臣・東禅寺氏永によって謀殺されたあと、大宝寺氏の家督は義氏の弟・義興が継ぐ。
大宝寺義興は、上杉景勝配下の越後本庄城主・本庄繁長の次男・千勝丸を養子として義勝と名乗らせ、上杉氏の力を背景に勢力拡大を図った。
天正15年(1587年)、東禅寺筑前守の内通により、本庄繁長が新発田重家の乱に出陣している間隙をぬって、最上義光と東禅寺氏永が庄内の尾浦城を攻撃する。
一年の籠城による奮戦の末、尾浦城は陥落し義興は自刃した。
田川郡の清水城にいた義勝は越後との国境に近い小国城に逃れた。
十五里ヶ原の戦い(じゅうごりがはらのたたかい)
1588年8月
山形県鶴岡市大山
この合戦に登場する武将
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最上義光 (もがみよしあき)
最上家11代当主。義守の嫡男。父を隠居させ、弟を殺して当主となる。密約外交や敵重臣の暗殺など、権謀術数の限りを尽くし、最上家最大の版図を築いた。
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天童頼貞 (てんどうよりさだ)
最上家庶流。最上八楯盟主。頼長の弟。義光の義父。義守・義光の間で争いが起こると義守派として戦った。頼貞死後、延沢満延が裏切り、天童家は滅亡した。
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延沢満延 (のべさわみつのぶ)
最上家臣。はじめ天童家に仕えたが、嫡男・康満に最上義光の娘・松尾を迎える条件で和睦した。大力剛勇の武将で、義光は内心脅威を感じていたという。
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氏家守棟 (うじいえもりむね)
最上家臣。定直の子。知略に長け、天童家や白鳥家の討伐に貢献した。また伊達家への使者を務めたり、真室城の攻略で戦功を立てるなど、各方面で活躍した。
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鮭延秀綱 (さけのべひでつな)
小野寺家臣。鮭延城主。貞綱の子。最上義光との合戦に敗れ、家臣となる。仙北地方で起こった一揆の鎮圧や、最上領に侵入した上杉軍との戦いで功を立てた。
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東禅寺勝正 (とうぜんじかつまさ)
大宝寺家臣。義長の弟。主君・義氏の死後、兄から尾浦城代に任じられる。のちに十五里ヶ原で本庄繁長に敗れ、戦後、繁長の暗殺をはかるが失敗、討たれた。
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大宝寺義氏 (だいほうじよしうじ)
出羽の豪族。義増の子。合戦に明け暮れて領政を軽んじたため、領民から「悪屋形」と憎悪された。最上義光に通じた家臣・前森蔵人に謀叛され、自害した。
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大宝寺義興 (だいほうじうよしおき)
出羽の豪族。義増の子。兄・義氏の死後家督を継ぐ。上杉家臣・本庄繁長の次男を養子に迎え、上杉家との関係強化をはかるが、最上義光に攻められ自害した。
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本庄繁長 (ほんじょうしげなが)
上杉家臣。村上城主。叔父・小川長資を討って居城を奪回、家督を継ぐ。武田信玄と結んで謀叛を起こすが、許されて帰参する。以後は各地の合戦で活躍した。