今日は何の日?

  • ● 1559年 長尾景虎(上杉謙信)が上洛し将軍・足利義輝に拝謁
  • ● 1570年 越前討伐中の織田軍に浅井長政離反の報が伝わり、全軍撤廃を開始
  • ● 1625年 毛利輝元が死去。享年73歳
  • ● 1559年 長尾景虎(上杉謙信)が上洛し将軍・足利義輝に拝謁
  • ● 1570年 越前討伐中の織田軍に浅井長政離反の報が伝わり、全軍撤廃を開始
  • ● 1625年 毛利輝元が死去。享年73歳

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この人誰?

酒井豊数

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

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前田利常(まえだとしつね)

前田利常 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

27 (2142 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

45 (1611 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

73 (315 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

79 (140 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

81 (106 位)
合計 305 (625 位)2201人中
前田利常のグラフィック画像
前田利常 の基礎データ
性別
別名 利光
幼名 猿千代 犬千代
仮名・通称 松平筑前守 小松中納言
法号・戒名 微妙院殿一峯克巌大居士
前田利家
養父 前田利長
東丸殿
配偶者・正室 珠姫(徳川秀忠の娘)
側室1 古和
側室2
側室3 五条局、京極方、寺尾氏
前田利常の自画像
その他のデータ 列伝
誕生年 1593年 加賀金沢藩主。利家の四男。兄・利長の跡を継ぐ。大坂の陣に参陣して功を立てた。藩の存続に努め、江戸幕府の警戒を欺くために愚鈍を装っていたともいう。
死亡年 1658年
気質 家名
野心 6
領地保全 りょうちほぜん
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 逆撫で 消費ゲージ 4
効果 前方範囲内の敵を挑発
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 囮挑発戦法
読み おとりちょうはつせんぽう
条件 海(湖)以外
消費軍議 30 必要部隊 2
効果 囮隊の速度が小上昇、防御が上昇し、周囲の敵を挑発
補佐
地利 地形が森のとき移動速度と視界を小上昇

前田利常が登場する合戦

  • 真田丸の戦いさなだまるのたたかい [大坂冬の陣]

    1614年12月4日

    大阪府大阪市天王寺区真田山

    豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などの河川堀の役目をし守られていたが、地続きとなる南方だけは空堀のみであった。
    そのため豊臣方は、手薄である南面を防御するため、惣構の外に出丸を築いていた。
    真田信繁(幸村)によって築かれたので、この出丸を俗に真田丸という。

    豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、徳川幕府軍は大坂城を包囲した。
    真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直松倉重政榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。
    真田丸には真田信繁指揮下の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成後藤又兵衛長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。

    12月2日、徳川家康は茶臼山陣城(大塚城)に出向き巡検を行い、徳川秀忠も出向いた後帰陣した(合戦後に家康は茶臼山へ、秀忠は岡山へ本陣を移した)。家康前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示した。
    真田丸の前方には篠山と呼ばれる丘があり、真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害した。

    12月3日、大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚したため、南条は城内で切腹させられた。
    しかし豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いた。

    12月4日、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。
    前田勢の先鋒・本多政重山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。
    夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発した。
    前田勢は挑発に乗り、真田丸に突撃。
    真田勢は前田勢が城壁に十分近づいた所に火縄銃で射撃を行う。
    前田利常は、将達が命令なく攻撃して軍が損害を被ったと怒り、兵を撤収させようとした。

    前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。
    この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。
    豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。

    これらの惨状を知った家康は退却を命じた。
    しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、15時をすぎようやく完了した。

    退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。
    この戦いで徳川方は数千人が討ち取られたという。

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  • 岡山口の戦い おかやまぐちのたたかい [大坂夏の陣]

    1615年5月7日

    大阪府大阪市生野区勝山北・南一帯

    5月7日、ついに徳川家康は大坂城に総攻撃をかける。

    このとき家康は子の秀忠を岡山口の総大将としました。
    先鋒は大将を前田利常とし本多康俊本多康紀片桐且元ら計20,000。
    二番手は井伊直孝藤堂高虎勢の計7,500と細川忠興隊。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。
    一説には一番手と二番手の間に黒田長政加藤嘉明が参陣していたといわれる。

    徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃を開始。
    このとき立花宗茂秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。

    戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手の井伊直孝藤堂高虎勢が動く。
    この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。

    そのため秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするが、本多正信は「大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はない」と諫め止めたという。

    黒田長政加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花宗茂は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。
    旗奉行の三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。

    この間、後詰の大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。
    体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬