views : 9782
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
NHK大河ドラマ「どうする家康」の第二話「兎と狼」が2023年1月15日に放映されました。
その中で印象的な人物は、東京03の角田さんが演じられていた松平昌久、の方もおられるかもしれませんが、やはり大樹寺にいた小平太(後の榊原康政)ですね。
ということで今回紹介するのは、徳川氏の家臣である榊原康政(さかきばらやすまさ)です。
後に徳川四天王になる彼は一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
大河ドラマ「どうする家康」での榊原康政
杉野遥亮(榊原康政)
大河ドラマ「どうする家康」では杉野遥亮さんが榊原康政を演じられています。
第二話で初登場し、そこでは榊原康政が家康の小姓になる前の13歳の頃の役だったので知恵はあるが幼くなんとも頼りない感じでした。
これから徳川四天王になって凄みを帯びて成長していくのが楽しみですね。
NHKの公式サイトでは以下のように紹介されています。
文武に優れた若き武将。名門榊原家の生まれだが、次男のため自由気ままに好きに生きていたところを、家康にその才能を見いだされる。マイペースで、ちょっとひねくれた性格。
それでは実際の康政の人生を見ていきましょう。
榊原康政の生まれ
榊原康政は天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれます。
本多忠勝と同い年で、家康の6歳下ですね。
榊原氏は松平氏の譜代である酒井氏に仕えていた、つまり陪臣(又者)なので、そこまで家中で有力な存在でありませんでした。
しかも康政は次男だったので、はりきって生きるぞ!という感じではなかったことでしょう。
幼い頃から勉学を学び(武士しか文字は学べない)、字がうまかったようです。
そんな康政を松平元康(後の家康)は見つけ出し小姓として取り立てます。
この時康政は13歳の時でした。
家康の元で徐々に才覚を表していく
榊原康政
家康三大危機の一つである三河一向一揆の鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。
病弱な兄・清政の陣代となる事が多かったので榊原家の家督を康政が継いでいます。
永禄9年(1566年)、19歳で元服します。
本多忠勝・本多広孝・鳥居元忠らと同じく、自身の護衛のみではなく、積極的に戦闘に投入することを目的とした旗本先手役に抜擢され、50騎を与えられます。
元亀元年(1570年)の姉川の戦い、家康三大危機の一つである元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正9年(1581年)の高天神城の戦いなどで多大な武功を立て、最後の家康三大危機の一つで伊賀越えにも同行しています。
家康の側近として、いつも間近で活躍しているんですね。相当信頼されていたことでしょう。
康政は晩年「大御所(家康)の御心中を知るものは、(井伊)直政と我計りなり」と言っているので、自分が一番家康の心中を知って側で支えてきた自負があるのでしょう。
小牧・長久手の戦いで無双
本能寺の変で信長が横死すると、織田家中で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が頭角を現していきます。
羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いで織田家家老の柴田勝家を屠った後、今度は織田信長の次男である織田信雄・徳川連合と対立します。
康政はこの合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可、池田恒興を討ち死にさせました。
この戦いで康政は織田家を乗っ取ろうとしている羽柴秀吉を痛烈に批判しました。
しかもこの時秀吉が一番コンプレックスを抱いていた卑しい身分についての批判もあったので、秀吉は大激怒し周囲の武将に康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したという。
小牧・長久手の戦いは最終的に両者和解し終焉します。
秀吉の人心掌握術の素晴らしいところが、家康と秀吉が和平した後最初の使者として秀吉から康政が指名し、対面したときに
「小牧にて立札を立てた私の首を一目見たかろうと思って呼んだが、和睦した今になってみればその方の志はあっぱれである。それを言うためにここに呼んだ。儂もお主を小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下・式部大輔の官位を贈ろう。」
と言い、自分を卑下した康政を従五位下・式部大輔に叙任させ、豊臣姓を下賜しています。
徳川家臣の中では康政が初めてのことでした。
康政の最後
家康が関東に移封されると関東総奉行として本多正信らを監督、本多忠勝と並んで家中第2位の10万石を与えらています。
慶長11年(1606年)5月6日に毛嚢炎を煩い、14日館林にて死去します。享年59。
家督は康勝が継いだ。
信長の野望での榊原康政
ゲーム信長の野望での榊原康政のパラメーターを見てみましょう。
統率 84 (71 位)
武勇 83 (83 位)
知略 82 (108 位)
内政 49 (1375 位)
外政 61 (734 位)
合計 359 (194 位)
2200人中の順位です。
さすが徳川四天王だけあって総合的に高いパラメーターです。
能筆家で行政能力に長けていたので、内政パラメーターが低いのはちょっと不服ですね。
『武備神木抄』では、「康政は武勇では本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り、井伊直政に匹敵する」とされている。同書では「衆(部隊)をよく使い、軍慮見切り等は忠勝、両将(康政・直政)におよばず」と記載されています。
それではゲーム内での3人を見比べてみましょう。
榊原康政 | 本多忠勝 | 井伊直政 | |
---|---|---|---|
統率 | 84 (71 位) | 84 (71 位) | 88 (39 位) |
武勇 | 83 (83 位) | 99 (2 位) | 91 (21 位) |
知略 | 82 (108 位) | 78 (177 位) | 84 (80 位) |
内政 | 49 (1375 位) | 59 (835 位) | 80 (122 位) |
外政 | 61 (734 位) | 67 (467 位) | 86 (55 位) |
合計 | 359 (194 位) | 387 (103 位) | 429 (29 位) |
検証すると
康政は武勇では本多忠勝に劣る → ○
部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り → △
井伊直政に匹敵する → ×
というか榊原康政は井伊直政に勝っている能力値がないではないか…
まとめ
いかがでしたか?
さすが徳川四天王と呼ばれるだけあって、活躍が1記事では収まらないです。
大河ドラマ「どうする家康」での今後の活躍がマジで楽しみです!
期待しましょう!
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。