武将名鑑【信長の野望 新生】
豊臣秀吉(とよとみひでよし)
豊臣秀吉(とよとみひでよし)
豊臣秀吉 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
96 (6 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
81 (121 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
98 (5 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
97 (4 位) | ||||
合計 | 372 (6 位)2201人中 |
豊臣秀吉 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 木下藤吉郎 木下秀吉 羽柴秀吉 平秀吉 藤原秀吉 | ||||
幼名 | 日吉丸 | ||||
渾名 | 木綿藤吉 豊太閤 猿 禿げ鼠 | ||||
法号・戒名 | 国泰寺殿霊山俊龍大居士 | ||||
父 | 竹阿弥 | ||||
母 | 大政所(天瑞院) | ||||
配偶者・正室 | ねね | ||||
側室1 | 淀殿 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1537年 | 戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。 | |||||||||
死亡年 | 1598年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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人たらし | 配下武将の忠誠上昇、最高位の能力上昇 | ||||||||||
立身出世 | 自身の勲功の獲得値増加 | ||||||||||
城乗 | 敵城への耐久ダメージ増加 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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千成瓢箪 | 自部隊の体力回復 自部隊の機動上昇 | ||||||||||
固有政策 | |||||||||||
検地・刀狩 | 農村の石高 + X% 一揆の自然発生率 - X% 軍備日数 + X% |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 17 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 24 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 34 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 46 |
豊臣秀吉が登場する合戦
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箕作城の戦い [織田信長の上洛戦]
1568年9月12日
滋賀県東近江市五個荘山本町
建部秀明
吉田重光
狛修理亮
吉田新助
LOSE
佐和山城から見た琵琶湖
永禄11年(1568年)8月7日、織田信長は近江小谷城の支城である佐和山城に赴き、ここで上洛途上に位置する観音寺城の六角承禎・義治父子に対し、入洛を助け道をあけるよう、足利義昭の近臣であった和田惟政ら家臣3名の使者を送って申し出た。
しかし、六角父子はこれを拒絶する。
信長は再度使者を送って入洛を助けるよう要請するも、病気を理由に使者に会わず追い返されてしまった。
7日間佐和山城にいた信長は、開戦もやむを得ないと考え岐阜城に戻った。
9月7日、六角氏征伐のため尾張・美濃・伊勢の大軍を率いて岐阜を出陣した。
8日には佐和山城近くの高宮に本陣をおき、義弟にあたる浅井長政隊と合流する。
さらに、松平信一率いる徳川家康からの援軍も加わり、織田・浅井・徳川連合軍の軍勢は5万 ~ 6万に膨れ上がった。
対して六角勢は、居城の観音寺城に馬廻り衆1000騎を、支城の箕作城に建部秀明・吉田重光・狛修理亮・吉田新助ら3000の兵を、和田山城には田中治部大輔ら主力6000を、その他支城18城に被官衆を置いて、各城が連繫しながら織田・浅井・徳川勢を挟撃する作戦にでる。
9月12日早朝、連合軍は愛知川を渡河すると3隊に分かれ、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉・佐久間信盛らの第3隊が箕作城に向かっていた。
織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測していたため、六角氏は和田山城に主力を置いていたが、戦端は箕作城でひらかれた。
まず木下隊2300が北の口から、丹羽隊3000が東の口から攻撃を開始した。
しかし箕作城は急坂や大木が覆う堅城で合ったため、午後五時には逆に追い崩されてしまう。
その夜、木下秀吉は夜襲を決行する。
3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に攻撃した。
7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城してしまった。
200以上の首級が上がった。
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大河内城の戦い [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
織田信長 (35)森可成 (46)坂井政尚
蜂屋頼隆 (35)佐久間信盛 (42)豊臣秀吉 (32)氏家卜全 (56)安藤守就 (46)織田信包 (26)滝川一益 (44)丹羽長秀 (34)稲葉一鉄 (54)池田恒興 (33)織田信雄 (11)WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
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天筒山城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年4月25日
福井県敦賀市天筒町
元亀元年(1570年)4月25日、越前に入った織田信長は敦賀の妙顕寺に着陣すると、金ヶ崎城とその支城である天筒山城の攻略にとりかかった。
天筒山城は要害の地で、朝倉義景家臣の寺田采女正ら1500余の兵が籠城していたが、柴田勝家ら織田勢は樫曲に回り込み、湿地帯から攻め上がることで城内侵入した。
正攻法の突撃となったので、信長軍は森可成の嫡男・可隆が討死するなど多大の犠牲が出たものの、当日に落城した。
朝倉方の城兵は1300余が討死しており、ほとんど全滅だった。
天筒山城を落とした織田勢は、勢いに乗じて金ヶ崎城に向かった。
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金ヶ崎城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年4月26日
福井県敦賀市金ヶ崎町
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姉川の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年6月28日
滋賀県長浜市野村町・三田町
姉川古戦場
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御牧城の戦い [織田信長と三好三人衆]
1570年10月22日
京都府久世郡久御山町
元亀元年(1570年)10月、野田・福島砦の戦いに勝利をおさめた三好三人衆は、勢いに乗じて京都に向けて軍勢を進め、織田信長方の山城御牧城を攻略する。
さらに河内高屋城や河内烏帽子形城なども諸城を一斉に攻撃し始めた。
そのため信長は、配下の木下秀吉(豊臣秀吉)や勝龍寺城主の細川藤孝、高槻城主の和田惟政らに御牧城の奪還を命じたのである。
10月22日、織田勢の猛攻により、御牧城を守っていた三好方の御牧氏らが降伏開城し奪還に成功した。
高屋城・烏帽子形城は三好軍の攻撃を守りきり、朝倉・浅井軍と三好軍との挟撃策は不発に終わってしまう。
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鎌刃城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1571年5月6日
滋賀県米原市番場
元亀2年(1571年)5月6日小谷城を打って出た浅井長政は、織田方の木下秀吉が守る横山城近くに布陣すると、家臣の浅井井規に命じ、織田方に寝返った堀秀村の守る箕浦城とその家老である樋口直房の守る鎌刃城を攻めさせた。
兵力は本願寺法主・顕如の檄を受けて信長を共通の敵とする江北の一向一揆勢も加えて約5000人であった。
横山城の南方7kmほどに位置する鎌刃城は、横山城の背後を固める織田方の重要な拠点であったが、浅井勢の本隊に横山城を牽制されているため救援のために割く兵力は限られていた。
秀吉は蜂須賀政勝・前野長康らと共に130の手勢を率いて鎌刃城の救援に赴く。
鎌刃城の救援に成功すると、鎌刃城の城兵とともに箕浦に向かった。
その後樋口直房は横山城を任され、織田家にかなりの重きに扱われることになる。
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箕浦の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1571年5月6日
滋賀県米原氏箕浦
鎌刃城の救援に成功した木下秀吉は、堀秀村とその家老の樋口直房らとともに、箕浦におかれていた浅井方の陣を襲撃する。
浅井方が湖北一向一揆の加勢を得て5000余の大軍を擁していたのに対し、横山城に主力をおいてきた織田方は鎌刃城の兵と合わせても500余だったという。
しかし果敢に浅井井規隊を切り崩し、ついに浅井勢を敗走させた。
琵琶湖の湖岸伝いで逃れた浅井井規隊は八幡の辺りで一旦は持ちこたえて反撃を試みたが、秀吉隊の猛追に再び崩れ、小谷城に逃ちていった。
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小谷城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1572年7月21日 ~ 9月16日
滋賀県長浜市湖北町伊部
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淀城の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年8月2日
京都府京都市伏見区納所北城堀
幕臣であった勝竜寺城の細川藤孝は、将軍・足利義昭が追放されると、姓を長岡と改めて織田信長に従う。
そして天正元年(1573年)8月、信長の命により足利義昭に味方した三好三人衆の一人である岩成友通が籠城する山城淀城を攻めた。
木下秀吉が淀城を包囲すると計略を用いて、番頭義元と諏訪盛直らを内応させます。防御に適している城だったので、内応している番頭義元と諏訪盛直らは岩成友通に淀古城から打って出ることを進言した。
進言通り打って出るも、番頭義元と諏訪盛直らは動かず、友通は細川藤孝の家臣・下津権内に討ち取られ、近江・高島にいた織田信長の元に首が届けられた。
友通の死により、三好三人衆も没落していくことになった。
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刀禰坂の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月13日
福井県敦賀市刀根
天正元年(1573年)織田信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。
朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。
織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。
余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。
朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興や河合吉統、山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。 -
小谷城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月27日 ~ 9月1日
滋賀県湖北市伊部
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龍門寺城の戦い [織田信長の越前一向一揆鎮圧]
1575年8月15日
福井県越前市本町
木ノ芽峠城や鉢伏城の戦いに敗れて越前府中に敗走した一向一揆勢は、すでに海路から府中に入っていた羽柴秀吉・明智光秀らに討ち取られてしまう。
8月15日の夜、織田勢は一揆勢の大将・三宅権之丞が守る府中の龍門寺城を奇襲して占拠すると、ここを信長の本陣とした。
こののち数万人の一向一揆勢が虐殺されたといい、信長自身が書状において「府中は死がい計にて、一円あき所なく」と報告している。 -
雑賀川の戦い [織田信長の紀伊平定]
1577年3月2日 ~ 15日
和歌山県和歌山市小雑賀一帯
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岩洲城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1577年11月
兵庫県朝来市山口
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竹田城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1577年11月
兵庫県朝来市和田山町竹田
雲海の上に聳える天空の城・竹田城
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上月城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1577年11月29日 ~ 12月3日
兵庫県佐用郡佐用町上月
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三木城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1578年3月29日 ~ 1580年1月17日
兵庫県三木市上の丸町
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野口城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1578年4月3日 ~ 6日
兵庫県加古川市野口町野口
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上月城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1578年4月18日 ~ 7月5日
兵庫県佐用郡佐用町上月
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志方城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1578年7月 ~ 8月10日
兵庫県加古川市志方町志方町
神吉城を落とした織田勢はそのまま北西に位置する志方城を攻めた。
織田家の軍隊は次男・織田信雄を大将に細川藤孝・羽柴秀吉ら約8,000。
別所氏の一族である志方城主の櫛橋祐貞は、わずか1,000の兵で籠城を続ける。
城から打って出るなど織田勢に攻撃を仕掛けるなどするも、8月10日に不利を悟った祐貞は降伏開城した。
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祝山城の戦い [織田信長の中国平定]
1579年10月 ~ 1580年12月
岡山県津山市吉見
天正7年(1579年)10月、織田信長と結んだ宇喜多直家は、織田家臣の羽柴秀吉とともに、毛利輝元の属城である美作祝山城(医王山城)を攻撃した。
祝山城には毛利輝元から在番衆として湯原春綱が送り込まれ、福田盛雅・塩谷元真らとともに籠城していた。
翌天正8年(1581年)1月、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の三者は連名で湯原春綱に対して医王山城在番への労をねぎらい、4月にはさらに小川元政を派遣して、春綱と共同して敵に当たるよう命じています。
6月、秀吉を通じて織田信長は、湯原春綱に「出雲一国を与える」という条件で寝返ることを求めたが、春綱はこの誘いを輝元に報告して忠節を示している。
宇喜多・織田勢の攻撃が激化し、在番衆は輝元に後詰を要請する。
これを受けて自ら出陣した輝元は、攻略した備中忍山城を拠点に美作へ向かった。
しかし、毛利勢は宇喜多勢に阻まれて祝山城まで到達できず、12月に春綱らはついに降伏開城した。
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英賀城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1580年4月1日 ~ 24日
兵庫県姫路市飾磨区英賀
三木城を落とした羽柴秀吉は天正8年(1580年)閏3月29日に英賀城の周囲に付城を構築し、4月1日より攻撃を開始。
北に沼沢があり東西を川に挟まれ南は海に面する英賀城は天険の要害であったため、秀吉は海上から奇襲をかけた。
これにより4月24日に英賀城は落城し、城主の三木通秋は、夜陰に乗じて城を脱出すると、九州に落ちていったという。
落城の際、城のみならず町全体が火の海となり、一夜にしてすべてが焼失したといわれている。
英賀神社には、失われた英賀城の土塁が今も残されている。 -
長水城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1580年5月9日 ~ 10日
兵庫県宍粟市山崎町宇野
英賀城を落とした羽柴秀吉は天正8年(1580年)4月24日に、依然として織田方に抵抗を続ける宇野政頼・祐清父子を討つことにした。
まず支城の篠の丸城を攻め落とす。
天険の要害である長水山城を力攻めをせず、麓を焼き払い要所に砦を築くいて完全包囲した。
蜂須賀小六らの兵を残して秀吉は三木氏攻略のために姫路に引き返している。
城兵の疲労をまっていた秀吉軍は、5月9日に至り総攻撃を開始、翌10日に城内の内通者によって、長水城は火を発し落城した。
城主の宇野政頼・祐清父子は、ひそかに城を脱出して鷹ノ巣を越えて千草に到着したが、おりからの雨で千種川は洪水で渡ることが出来ず、 秀吉軍の蜂須賀正勝・荒木平大夫・神子田半左衛門らの軍勢に追われ、宇野一族をはじめ長水勢はことごとく討死した。
これにより播磨は秀吉によって平定されたのである。
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鳥取城の戦い [織田信長の中国平定]
1580年9月21日
鳥取県鳥取市東町
鳥取城
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鳥取城の戦い [織田信長の中国平定]
1581年7月12日 ~ 10月25日
鳥取県鳥取市東町
鳥取城から見る鳥取市街
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馬山の陣 [織田信長の中国平定]
1581年10月27日 ~ 28日
鳥取県東伯郡湯梨浜町橋津・上橋津
因幡鳥取城の救援のため伯耆に入った吉川元春の5000の軍勢は、天正9年(1581年)10月25日に馬山(茶臼山城)に陣をおくが、この日鳥取城は開城してしまう。
しかし元春は、毛利方の攻勢にさらされている羽衣石城や岩倉城を救援するため、秀吉が伯耆に侵入するとふんだ。秀吉の軍勢は3万~6万と約10倍以上の兵力差があったとされるが、弔い合戦に臨む毛利方の士気は高く、更に吉川元春は橋津川に架かる全ての橋を落とし、日本海上の兵船を全て陸に揚げ、櫓も全て折り捨て芸州(或いは出雲)への退路を断ったことで背水の陣を敷いている。
吉川元春の陣中では大雪の中で炉を焚き、諸将達と鮭を肴に粕酒をすすりながら談笑し、高いびきをかいて寝ていたという。
吉川元春の陣容、陣内での振舞い、大雪による遠征側の不利を察知した羽柴秀吉は戦を始めても味方の被害が甚大になるだけと考え、吉川元春と交戦せずに11月8日に播州へ磨姫路城に戻った。
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冠山城の戦い [織田信長の中国平定]
1582年4月14日 ~ 25日
岡山県岡山市北区下足守
天正10年(1582年)3月、播磨姫路城を出陣して備前岡山城に着陣した羽柴秀吉は、備中高校城の清水宗治を勧降するが拒否されてしまう。
これにより高松城攻めを決めた秀吉は、秀吉率いる織田勢2万と宇喜多忠家率いる宇喜多勢1万で、4月14日、高松城の支城である備中冠山城を包囲した。
このとき城主・林重真は、清水宗治の娘を娶っており、備中半国を与えるという恩賞の約束を断ったという。4月25日、城内から出火し、たちまち燃え広がって冠山城は混乱に陥り、織田・宇喜多勢の総攻撃もあり落城。
一番乗りを果たしたのは当時21歳の加藤清正で、毛利方の竹井将監を討ち取り、藤堂高虎も竹本幸之助を討ち取っている。城主・林重真が自刃し、城兵300余が討死した。
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宮地山城の戦い [織田信長の中国平定]
1582年4月14日 ~ 5月2日
岡山県岡山市北区足守
備中高松城主・清水宗治の攻略を決めた羽柴秀吉は、峰須賀正勝と黒田官兵衛らに高松城の支城にあたる備中宮地山城の乃美元信を誘降するよう命じるが、小早川隆景への忠義は揺らがず失敗する。
そのため秀吉は、4月14日から冠山城とともに宮地山城を包囲した。
4月25日に冠山城が落ちると、宇喜多直家の家臣・信原内蔵允が宮地山城の船木藤左衛門の内応に成功し、使者として宮路山城に入り和睦交渉が行われた。そして5月2日、水の手を断たれていたこともあり元信は降伏し宮地山城を退去した。
これにより残る高松城の支城は鴨(加茂)城のみとなった。
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鴨城の戦い [織田信長の中国平定]
1582年5月2日
岡山県岡山市北区加茂
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高松城の戦い [織田信長の中国平定]
1582年5月7日 ~ 6月4日
岡山県岡山市北区高松
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山﨑の戦い [本能寺の変]
1582年6月13日
京都府乙訓郡大山崎町
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勝龍寺城の戦い [本能寺の変]
1582年6月13日 ~ 14日
京都府長岡京市勝竜寺
山崎の戦いで総崩れになり敗走した明智光秀は、勝竜寺城に入り陣容を立て直そうとした。
しかし追撃してきた神戸信孝らの大軍に勝龍寺城を囲まれてしまう。
不利を悟った明智光秀は近臣とともに夜陰に乗じて城を脱出し、居城の坂本城を目指す。
しかしその途中の小来栖で落武者狩り遭い、明智光秀は落命したと伝わっている。6月14日の朝、主君を失った勝竜寺城は降伏開城した。
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長浜城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1582年12月11日 ~ 15日
滋賀県長浜市公園町
天正10年(1582年)12月11日、 羽柴秀吉は丹羽長秀・筒井順慶・長岡 (細川) 忠興・池田恒興・ 蜂屋頼隆ら5万余の軍勢を率いて、長浜城の柴田勝豊を包囲した。
勝豊は越前北庄城主・柴田勝家の養子であったが、勝家の実子の勝敏が誕生したため勝豊は嗣子としての資格を失い、勝家に疎んじられるようになっていたという。さらに同じ甥の立場であった佐久間盛政が勝家に重用されることに対しても不満があった。
雪に阻まれている勝家からの後詰も期待できないなか、勝豊はさしたる抵抗もなく本領安堵の条件を容れて、12月15日秀吉に降伏し長浜城を明け渡した。
すでに勝豊は病んでいた様子で、開城後すぐに京都で療養した。 -
岐阜城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1582年12月20日 ~ 29日
岐阜県岐阜市大宮町
岐阜城
三法師は安土城へ移ることが清洲会議で決定していたが、羽柴秀吉と対立する信孝は三法師を岐阜城から離さず、12月2日に1万人余の兵を擁して岐阜城で挙兵した。
これを謀反の口実として、秀吉は2万余の軍勢でただちに出陣。
丹羽長秀、池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢した。信孝と結ぶ越前北庄城の柴田勝家は積雪のため援軍を送ることができないまま、秀吉は長浜城の柴田勝豊を降し、信孝の岐阜城を包囲した。
依然として美濃を掌握しきれていなかった信孝は伊勢の滝川一益の勧めに従い、12月20日に三法師を秀吉に渡すとや母の坂氏や乳母・娘らを人質として秀吉に降伏した。
秀吉は12月29日に包囲を解く。この結果、東美濃で独立的行動をとっていた森長可・稲葉一鉄や与力の氏家行広らも信孝側を離れ、家老の岡本良勝・斎藤利堯も秀吉側に寝返った。
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長島城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月12日 ~ 7月
三重県桑名市長島町西外面
天正11年(1583年)2月10日、羽柴秀吉は7万5000余の軍勢で柴田勝家や神戸信孝側についた滝川一益を攻略するため北伊勢に出陣した。
羽柴勢は北伊勢にある長島・峰・亀山などの諸城を攻略していった。
一益の居城である長島城へは、秀吉自ら3万余の大軍を率いて攻撃。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗北し、神戸信孝も秀吉に降伏している中、一益は長島城に籠城して羽柴勢の攻撃を凌いだが、7月になって降伏開城した。
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亀山城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月16日 ~ 3月3日
三重県亀山市本丸町
WIN
滝川益氏
LOSE
本能寺の変後に織田信孝方から羽柴秀吉方となっていた伊勢亀山城主の関盛信は、天正11年(1583年)正月に秀吉へ年賀の挨拶をするため子の一政ととも姫路城を訪れた。
その城を留守にした隙に、滝川一益は亀山城を奪取し、腹心の滝川益氏を入れた。
2月に秀吉は兵20,000を率いて伊勢の滝川一益領へ侵攻。
羽柴秀吉・羽柴秀長・羽柴秀次・織田信雄・掘秀政・山内一豊・高山右近・蒲生氏郷らが長島城、桑名城、亀山城を攻撃した。 -
賤ヶ岳の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年4月20日 ~ 21日
滋賀県伊香郡余呉町柳ヶ瀬
賤ヶ岳から見下ろす余呉湖
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北庄城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1583年4月23日 ~ 24日
福井県福井市中央
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小牧の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年3月28日
愛知県小牧市小牧
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加賀井城の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年5月1日 ~ 6日
岐阜県羽島市下中町加賀野井
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竹ケ鼻城の戦い [小牧・長久手の戦い]
1584年5月10日 ~ 6月10日
岐阜県羽島市竹鼻町
4月9日の長久手の戦いで家康に敗北を喫した羽柴秀吉は、伊勢長島城の信雄を脅かし、家康を誘い出そうと図った。
まず加賀井城を攻め落とし、次に不破広綱が守る竹ヶ鼻城を5月10日から攻囲する。
この不破広綱は長年信長に仕え、秀吉とも昵懇の間柄だったため城内で大評定のすえ信雄方につくことを決めていた。
竹ヶ鼻城は、木曾川とその支流逆川に挟まれているうえに、三重四重の堀で囲まれた水城であったため秀吉軍は攻めあぐねた。
そこで城の北から西、南へかけても、半円形に約3kmに及ぶ堤防を築き、水攻めすることにした。
5月11日より、将兵のみならず付近一帯の住民もかり集め、突貫工事を行った。
この堤は「一夜堤」と呼ばれるが、実際には5、6日は要したと見られている。城側は信雄や家康に救援を要請する使者を送るも、本多忠勝や織田長益・滝川雄利による援軍は、秀吉側に阻まれて途中から引き返してしまった。
そのため6月10日に城主以下全員の命を助ける条件で不破広綱は勧告に応じ開城した。
こののち秀吉は、一柳直末を竹ヶ鼻城の城番としている。 -
根来寺の戦い [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月23日
和歌山県岩出市
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太田城の戦い [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月24日 ~ 4月22日
和歌山県和歌山市太田
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富山城の戦い [羽柴秀吉の越中平定]
1585年8月22日 ~ 29日
富山県富山市呉羽町
富山市役所から見た富山城
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岩石城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1587年4月1日
福岡県田川郡添田町
天正15年(1587年)3月28日、豊臣秀吉は関門海峡を渡ってついに九州に上陸した。
この日のうちに豊前小城城に入った秀吉は、29日に馬ヶ岳城に移り、ここを本陣として筑前古処山城主・秋月種実の属城である岩石城を攻撃した。
天険の要害で秋月家の属城で最も堅牢な岩石城を守る熊井越中守久重ら3000の兵は防戦に努めたものの、羽柴秀勝を大将とする蒲生氏郷・前田利勝(利長)らの猛攻を受け、わずか1日で落城し熊井久重は討死している。
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古処山城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1587年4月2日 ~ 3日
福岡県朝倉市秋月野鳥
古処山城
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小田原城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年4月3日 ~ 7月5日
神奈川県小田原市城内
小田原城
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