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  • ● 1570年 永禄から元亀に改元される
  • ● 1583年 羽柴(豊臣)秀吉が柴田勝家の籠る越前北ノ庄城を包囲する
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この人誰?

六郷政乗

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

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陶興房(すえおきふさ)

陶興房 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

80 (120 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

78 (160 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

79 (157 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

79 (140 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

79 (136 位)
合計 395 (87 位)2201人中
陶興房のグラフィック画像
陶興房 の基礎データ
性別
仮名・通称 次郎
法号・戒名 道麒 道鱗 大幻院殿透麟道麒大居士
陶弘護
配偶者・正室 右田弘詮の娘
その他のデータ 列伝
誕生年 1479年 大内家臣。周防守護代を務める。主君・義興に従い上洛したほか、安芸や九州に出陣するなど、各地で活躍した。和歌・連歌に優れ、文化人とも交流を持った。
死亡年 1539年
気質 家名
野心 3
領地保全 りょうちほぜん
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 激励 消費ゲージ 5
効果 周囲の味方の攻撃力を小上昇
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 神出鬼没
読み しんしゅつきぼつ
条件 山、森、湿地、川、商圏
消費軍議 40 必要部隊 3
効果 強襲隊の速度が小上昇、奇襲時戦法ゲージが増加し敵の兵数と士気を低下
補佐
伏兵 開戦時に潜伏状態になり、敵と接触したら必ず奇襲をし効果終了

陶興房が登場する合戦

  • 銀山城の戦いぎんやまじょうのたたかい [大内義興・義隆の興亡]

    1524年7月10日

    広島県広島市安佐南区祇園町

    大野弾正

    DRAW

    香川吉景

    三須房清

    DRAW


    鏡山城などを奪われた大内義興義隆父子は、大永4年(1524年)に反撃に転じ、尼子経久が伯耆国に出陣している間を狙って、5月下旬に25,000の軍勢で安芸に侵入し、厳島に本陣を構えた。

    武田光和と桜尾城主・友田興藤の率いる軍勢は、友田方の大野弾正が籠もる門山城の後詰として大野女滝に出陣するが、大野弾正が大内方に内応して城に火を放ったために、武田・友田軍は敗北する。
    大内軍の追撃で武田軍は70〜80人が討ち取られた(大野女滝の戦い)。

    大内軍は、本陣を門山城に移すと、義興の率いる本隊10,000が桜尾城を、嫡子の大内義隆を大将とする別働隊15,000が光和の居城である佐東銀山城を包囲した。
    義隆はこの戦いが初陣であり、大内氏の重臣である陶興房らが加わっている。

    陰徳太平記によると、大内軍が佐東銀山城付近に布陣していた頃、熊谷信直や香川吉景などの武田方国人衆1,000騎余は”坂の上”と呼ばれるところに陣を置いて、大内軍の様子を見ていた。
    興房は、国人衆が尾根伝いに城内に入るなら国人らの領地を先に攻めれば良く、そうしないとしても少数なので各個撃破できると判断していたが、杉氏と問田氏は6月27日の早朝に手勢を率いて坂の上を勝手に襲撃しようとした。
    しかし、杉・問田勢1,500騎の朝駆けは熊谷・香川勢に見抜かれてしまい、伏兵により返り討ちにされている。

    7月3日、城兵3,000と共に籠城していた光和は、城外に出て大内の大軍と戦った。
    武田軍は少数であったが奮戦し、日暮れまで勝敗は決しなかった。
    この戦いでは、怪力で知られる光和自身が兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っている。

    一方、毛利元就からの急使により大内軍の安芸攻めを知った尼子経久は、銀山城を救援するため伯耆から出雲飯石郡赤穴まで引き返し、軍5,000を派遣。
    尼子方に属していた毛利元就を初めとする安芸国人衆を引き連れ、大内軍と対峙した。
    7月10日に大内軍と尼子軍の合戦が行われ、牛尾氏・亀井氏が率いていた尼子氏直属の軍勢が先陣として戦うが、義隆の初陣で士気の高い大内軍が第2陣(平賀氏・宍戸氏・三吉氏・宮氏の軍勢)まで撃ち破って勝利した。この時元就は、吉川・小早川・熊谷・香川・三須の手勢と共に尼子軍第3陣として控えていた。

    8月5日の夜、尼子軍は悪天候を突いて夜襲を行った。
    この夜襲は、元就の提案により行われたもので、夜襲部隊は元就に加えて熊谷信直・香川光景・三須房清などの安芸国人衆を中心に編成されていた。
    襲撃を受けた大内陣営は520余名が討たれた(毛利軍の被害は20余名とされる)ため、義隆の初陣に泥を塗らせないために、同月10日に大内軍は撤退した。

    尼子軍の救援により安芸武田氏は佐東銀山城を守りきったものの、友田氏の桜尾城は10月10日に大内方に降伏(二の丸まで大内軍に攻められてもなお抗戦を続けていたが、吉見頼興の仲介で講和に応じた)、大内軍の安芸侵攻は一定の成果を挙げた。
    また、翌5年(1525年)3月には、毛利氏が尼子氏を離反して大内方についたため、安芸を巡る情勢は大内氏が優勢となった。
    なお、享禄元年(1528年)にも大内義興・義隆の軍勢が再び安芸に出兵して佐東銀山城を包囲しているが、義興の病により城を落とせずに帰国している(義興は同年死去した)。

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  • 米山城の戦いこめやまじょうのたたかい [大内義興・義隆の興亡]

    1525年6月26日

    広島県東広島市志和町志和東

    WIN

    LOSE

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  • 細沢山の戦いほそさわやまのたたかい [大内義興・義隆の興亡]

    1527年8月9日

    広島県三次市和知町

    LOSE

    WIN

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  • 勢場ヶ原の戦いせいばがはるのたたかい [大内氏の九州進出と少弐氏]

    1534年4月6日

    大分県杵築市山香町勢場

    杉重信

    LOSE

    田北鑑生

    木付親実

    WIN

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  • 三津山の戦いみつやまのたたかい [大内氏の九州進出と少弐氏]

    1534年7月15日

    佐賀県神崎郡吉野ヶ里町三津

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  • 勢福寺城の戦いせいふくじじょうのたたかい [大内氏の九州進出と少弐氏]

    1534年10月30日

    佐賀県神埼市神崎町

    三津山の戦いで敗北した大内義隆は、陶興房を先陣とした3万余の大軍で出陣し福岡の太宰府に陣を構えた。

    これに対し少弐資元冬尚父子は、当時居城にしていた肥前勢福寺城に籠城し寡兵ながら防御を固めた。

    天文3年(1534年)10月30日、大内義隆は少弐氏配下の龍造寺家兼を介して少弐氏に和睦を勧告した。
    少弐資元はこれを受け入れ、勢福寺城を明け渡した。

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  • 梶峰城の戦いかじみねじょうのたたかい [大内氏の九州進出と少弐氏]

    1536年9月4日

    佐賀県多久市多久町

    WIN

    LOSE

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  • 郡山城の戦いこおりやまじょうのたたかい [大内義興・義隆の興亡]

    1540年9月5日 ~ 1541年1月13日

    広島県安芸高田市吉田町

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬