大坂夏の陣
大坂夏の陣
1615年4月
豊臣秀頼と徳川家康
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郡山城の戦い(こおりやまじょうのたたかい)
1615年4月27日
奈良県大和郡山市城内町
大和郡山城
大坂に向けて進軍する徳川家康の動きをみて、豊臣方の大野治長の弟・大野治房が後藤又兵衛ら2,000余の兵を率いて暗峠を越えて大和に侵入し、大和郡山城を攻撃します。
この郡山城主は以前筒井順慶の居城であった城で、このときは徳川方の順慶の養子である筒井定慶が1,000余の兵で守っていました。
しかし豊臣方による突然の夜襲に驚き、城兵の逃亡が相継ぐ。
抵抗の不利を悟った定慶は、城を捨てて落ちのびていきます。
ほどなく家康の家臣・水野勝成の軍勢が大和に入ったため、治房も郡山城を放棄して大坂城に撤収している。
この合戦が戦端となり大坂夏の陣が始まりました。
岸和田城の戦い (きしわだじょうのたたかい)
1615年4月28日
大阪府岸和田市岸城町
岸和田城
大野治房の大和郡山城攻めに連動して、大野治長は弟の大野治胤や塙団右衛門・岡部町綱・御宿勘兵衛ら3,000余の兵を率いて大坂城を出陣し、紀伊(和歌山県)に向かいました。
豊臣方は、大阪城の南に位置する浅野長晟の和歌山城を攻略しようとしたのである。
4月28日、塙団右衛門・岡部則綱らの先陣が岸和田城を攻撃したが、徳川方の岸和田城主である小出吉英、弟の小出吉親や親族の金森可重・伊東治明らに阻まれて落とすことはできなかった。
このため大野勢は岸和田城攻略を諦め、大野治胤ら一手を残して和歌山城を目指し南下していきました。
堺の戦い (さかいのたたかい)
1615年4月28日
大阪府堺市堺区一帯
大阪府堺市の街並み
紀伊に向かう豊臣方の先陣である塙団右衛門・岡部則綱らが和泉岸和田城を攻撃するころ、本隊を率いる大野治胤らは和泉界に入ります。
近隣の村々に放火し、28日には大野治胤らは手勢2,000を率いて徳川方が兵器の供給や修理などを行う基地だった堺を焼き討ちにしました(堺焼き討ち)。
海上で警固していた徳川方の水軍である九鬼守隆・向井忠勝・小浜光隆・千賀信親らは、堺の豊臣方に攻撃を加えるも日没により戦いは自然と中止になった。
なお大坂落城後に捕らえられた治胤は、捕縛を知った堺衆に引き渡され堺で火あぶりにされている。
火あぶりにされ全身焼かれて炭になったはずの治胤が、いきなり起き上がり周囲の徳川方武士に脇差で斬りかかり一太刀浴びせた後そのまま灰となって崩れ落ちた、という逸話が残っている。
樫井の戦い(かしいのたたかい)
1615年4月29日
大阪府泉佐野市南中樫井
大野治長率いる豊臣勢が2万余の大軍となって紀伊に向かうなか、紀伊和歌山城主の浅野長晟は出陣を決心します。
国内で一揆の兆候(紀州一揆)があったことから出陣を見合わせていたが、4月28日に5,000余の兵を率いて出陣し、和泉樫井で豊臣勢を迎え撃ちます。
29日早朝、豊臣方の岡部則綱・塙団右衛門・淡輪重政ら兵3,000の先鋒が浅野勢に攻撃を仕掛ける。
浅野家臣の亀田高綱は遅滞戦術を展開し、豊臣軍を樫井まで誘引します。
樫井では亀田隊に浅野氏重、上田重安らが加わり豊臣軍と激戦になりました。
塙団右衛門と岡部則綱は先鋒を争う形で突出したため後続が追いつかず、やがて岡部は敗走、塙団右衛門・淡輪重政が討死してししまった。
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豊臣勢は総崩れとなり、和泉貝塚に本陣をおいていた大野治長らは大坂城に退却した。
紀伊の一揆は留守居の熊谷治部、寺沢半兵衛らの計略により鎮圧された。
この戦いで豊臣勢はますます劣勢になっていったのであった。
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道明寺の戦い(どうみょうじのたたかい)
1615年5月6日
大阪府藤井寺市道明寺一帯
二条城に入った徳川家康は、全軍を二手に分けると一手を河内から摂津に向かわせ、もう一手を大和から河内を経て摂津に向かわせました。
大坂城南東に位置する道明寺あたりで合流させようとしたのである。
大和ルートの水野勝成・伊達政宗・松平忠輝らは奈良で陣容を整えると、5月5日に3万余の大軍で道明寺に向かいます。
大阪城の堀を埋められ野戦でしか勝機がない豊臣方は、狭隘な道明寺付近で徳川方を迎え撃つことを決め、後藤又兵衛・薄田兼相・真田信繁(幸村)・毛利勝永らは進軍します。
5月6日午前0時、後藤又兵衛指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着しました。
そして幕府軍が既に国分に展開していることを知る。
しかし真田信繁・毛利勝永らの軍勢が濃霧に阻まれて遅延したため、後藤又兵衛は単独で徳川方の大軍と当たることを余儀なくされる。
作戦が既に破綻していること認めた後藤は、石川を渡り小松山(現在の柏原市立玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。
徳川軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。
午前4時、後藤は松倉重政・奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けました。
奥田は戦死し、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成・堀直寄が来援してかろうじて助かった。
小松山を包囲した幕府軍の伊達政宗・松平忠明らは銃撃を加え、小松山にとりつこうとします。
後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したがそれにも限界があった。
後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り隊に二手に分け幕府軍に最後の突撃を敢行した。
いくつか敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達政宗の軍勢に銃撃され後藤が被弾。
正午頃、約8時間の戦闘の末、後藤は戦死し後藤隊も壊滅してしまう。
このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し後藤を援護します。
薄田兼相は大坂冬の陣における博労淵砦の戦いで、留守にしている隙に砦を奪われる失態をおかしていたので、その汚名を雪ぐべく奮戦して討死した。
敗北した豊臣方は、西の誉田まで兵を退いていく。
誉田の戦い (こんだのたたかい)
1615年5月6日
大阪府羽曳野市誉田一帯
後隊の真田信繁・毛利勝永の軍勢が道明寺に着陣したのは、5月6日の正午頃で、すでに後藤又兵衛の軍勢は壊滅していた。
後退してきた豊臣方の兵を収容し誉田村付近に着陣した。
伊達勢は豊臣勢の後方を衝こうとしたため、伊達政宗配下の片倉重長は真田勢を見るとこれに攻め寄せます。
片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃。
これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃ちました。
片倉>自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を800m後方の道明寺辺りまで押し込みます。
しかし伊達政宗の女婿にあたる松平忠輝の加勢を得て伊達勢も持ち直す。
真田信繁は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流します。
徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し膠着状態になった。
午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報を受け豊臣勢は退陣します。
豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始。
徳川軍の水野勝成は追撃を主張するも、伊達政宗は兵の疲労を理由に応じなかった。
若江の戦い (わかえのたたかい)
1615年5月6日
大阪府八尾市幸町一帯
道明寺で徳川軍を迎え撃つ後藤又兵衛・真田信繁・毛利勝永らを援護するため、木村重成は長宗我部盛親と共に大坂城を打って出て、河内若江に布陣しました。この時敵に悟られないようにするため、提灯一つのみを頼りに進軍したという。
先鋒を3手に分け、右翼は南の藤堂隊に備え、左翼は北の奈良街道へと備え、本隊は若江の南端で敵に備えた。
その右手に藤堂勢の右先鋒である藤堂良勝・藤堂良重が攻撃をかける形で開戦します。
結果藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝・良重は戦死した。
勢いづいた木村隊右翼の部将である長屋平太夫・佐久間正頼は藤堂隊の追撃をしようとするが重成は兵の疲労が多かったためこれを制します。
重成は負傷者を本隊に収拾すると次の戦闘に備える。
藤堂勢を退却させた木村重成は、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃するため玉串川西側堤上に鉄砲隊360人を配置します。
午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。
井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。
木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。
堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。
川手はさらに突進したが戦死した。
そこに庵原も加わって激しい乱戦となった。
木村重成は自身も槍を取って戦ったが安藤重勝に首を取られ討死、豊臣方は総崩れとなり山口弘定・内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅してしまった。
それまで戦闘を傍観していた徳川軍の榊原康勝、丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手の木村宗明へ攻めかかった。
宗明は本隊が敗れたため大坂城へ撤退しました。
八尾の戦い(やおのたたかい)
1615年5月6日
大阪府八尾市一帯
南下する徳川本隊を攻撃するべく木村重成とともに大坂城を打って出た長宗我部盛親は、八尾に布陣しました。
徳川方の先鋒である藤堂高虎は、一隊で若江の木村重成を牽制しつつ、主力をもって長宗我部隊を攻撃します。
藤堂勢の中備を務める藤堂高吉は萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒・吉田重親を攻撃します。
吉田は本隊に対し攻撃を受けている旨を伝令し、応戦したが壊滅し吉田は討死。
藤堂勢の左先鋒の藤堂高刑・桑名吉成らは道明寺へ向かう先頭にあったが、転進して玉串川を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫ります。
藤堂高虎の旗本の藤堂氏勝もそれに続きます。
吉田の知らせをうけた長宗我部盛親は、騎馬武者もすべて下馬させ、槍を持たせて長瀬川の堤防の上に伏せさせ迎撃の体勢を取った。
藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせたため藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑・桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は致命傷を負い退却中に死亡します。
藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され撃退。
旧主と戦った中内源兵衛も討死し、260余を討ち取られた藤堂勢は窮地に陥る。
正午頃まで戦闘は続くも、若江の木村重成の敗報が届いたため長宗我部勢は孤立を避けるため坂城へ撤退を始めます。
藤堂勢は追撃し、殿を務めていた増田盛次を討ち取った。
岡山口の戦い (おかやまぐちのたたかい)
1615年5月7日
大阪府大阪市生野区勝山北・南一帯
WIN
LOSE
5月7日、ついに徳川家康は大坂城に総攻撃をかける。
このとき家康は子の秀忠を岡山口の総大将としました。
先鋒は大将を前田利常とし本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。
二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢の計7,500と細川忠興隊。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。
一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明が参陣していたといわれる。
徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃を開始。
このとき立花宗茂は秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。
戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手の井伊直孝、藤堂高虎勢が動く。
この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。
そのため秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするが、本多正信は「大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はない」と諫め止めたという。
黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花宗茂は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。
旗奉行の三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。
この間、後詰の大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康・秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。
体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。
天王寺口の戦い (てんのうじぐちのたたかい)
1615年5月7日
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町一帯
松下重綱
植村泰勝
松平成重
松平信吉
小笠原忠脩
丹羽秀重
諏訪忠澄
西尾宗次
WIN
大阪の陣の最終決戦となった天王寺口の戦い。
大阪城への総攻撃を決定した徳川家康は、本多忠勝の次男・本多忠朝を先鋒の大将に命じ、秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら計5,500を置く。
二番手には榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光、丹羽長重ら計5,400。
三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、水谷勝隆、稲垣重綱、六郷政乗ら計5,300。
その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。
さらに徳川義直15,000、徳川頼宣が本陣後備として布陣し天王寺口から大坂城を攻める。
これに対し豊臣方は、真田信繁・大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。
それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。
これにより毛利勝永は息子の毛利勝家・樫井昌孝・山本公雄・竹田永翁・浅井長房ら4,000などが天王寺口を固めていた。
正午頃、豊臣方大将の毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方先鋒大将・本多忠朝勢を銃撃します。
これをきっかけに合戦が始まると、戦場は混乱に陥った。
毛利勢は正面から突入してきた忠朝を討ち取り、幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。
本多忠朝は大坂冬の陣で、酒を飲んでいたために不覚をとってしまったため、汚名返上のため戦功が欲しかったのでしょう。
本多勢の救援をしようと小笠原秀政、小笠原忠脩、諏訪忠恒らが駆けつけるも、勢いづく毛利勢に追随する木村重成残兵である木村宗明や湯浅正寿らの備による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。
続いて木村宗明らの備はその後、丹羽長重隊に突撃した。
丹羽長重隊の老兵丹羽秀重の備は「先の戦(大阪夏の陣における若江の戦い)で因縁のある」木村宗明の備に全身全霊の怒涛の突撃を見せたが、秀重は討ち死にし毛利勢に突破される。
その後も丹羽長重隊は秀重の亡骸を守る為、先鋒を務めたが、先鋒に残っていた先鋒備は丹羽長重隊などの数少ない隊備の手勢のみであった。
二番手大将・榊原康勝以下、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの毛利勢に先鋒大将・本多忠朝を打ち取られ木村宗明備に小笠原忠脩を打ち取られたうえに丹羽長重隊が突破された混乱に巻き込まれ壊乱。
毛利勝永は、敗兵が雪崩込んだ三番手大将・酒井家次の部隊も撃破し、遂には家康の本陣に突入するという活躍を見せた。
真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の先鋒大将・松平忠直勢と交戦していたが、天王寺口・茶臼山の一番手総大将・水野勝成勢の救援に気づかずに松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。
さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回にわたって突撃を繰り返した。
これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。
家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来2度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。
倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる(一説には平野方面に逃げたともいわれる)家康自身も自刃を覚悟するも、文殊院勢誉に制止されたという(実際には勢誉はこの2年前に死去しているので俗説)。
しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。
水野勝成の性格を知る徳川家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じていたが、戦況を重く見た一番手総大将・水野勝成大和路勢は勝成が自ら一番槍を取った、彼の救援に天王寺口・茶臼山の一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。
大野治長は秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。
しかしこの時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。
真村信繁も3度の突撃の後、13の傷を受け疲労のため動けず、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、松平忠直配下の鉄砲組頭である西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。
豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勝永や大野治房も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり大阪城内に撤退した。
別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると天王寺口・茶臼山の水野勝成勢に突撃した後姿を消した。
勝ちに乗した徳川勢が城内への侵入を果たし、大坂城は落城することになった。
翌5月8日、豊足秀頼は毛利勝永の介錯で自刃し、秀頼の子で8歳の国松丸は、京都六条河原で斬首されている。
大坂の陣をもって150年ほどに渡って続いてきた戦乱の時代が終わり、江戸幕府は元号を元和と改めた。
これを元和偃武という。
偃武とは武器を武器庫に収めることを指しており、すなわち平和になったという意味である。
この合戦に登場する武将
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大野治房 (おおのはるふさ)
豊臣家臣。治長の弟。大坂の陣の際は、主戦派の中心人物の一人となる。大坂落城後、国松丸(主君・秀頼の子)を擁して脱出するが、捕らわれて斬首された。
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後藤又兵衛 (ごとうまたべえ)
黒田家臣。侍大将を務めるが、謀叛の嫌疑により浪人。のち豊臣秀頼に招かれ、大坂城に入る。人望を集め、徳川軍相手に奮戦するが、大坂夏の陣で戦死した。
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筒井定慶 (つついじょうけい)
豊臣家臣。福須美順弘の子。叔父・順慶の養子となる。従兄弟・定次の改易後、家督を継いだ。大坂夏の陣で城方に居城を落とされて逃亡し、のちに自害した。
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大野治長 (おおのはるなが)
豊臣家臣。片桐且元が大坂城を退去した後、大坂城内を取りまとめる。大坂の陣では豊臣方の指導者的役割を果たした。大坂城落城の際、主君・秀頼に殉じた。
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大野治胤 (おおのはるたね)
豊臣家臣。治長の弟。道犬斎と称した。大坂夏の陣の際は堺を焼き討ちした。大坂城が落城すると脱出を図り、逃走するが捕らえられ、堺で斬首された。
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御宿勘兵衛 (みしゅくかんべえ)
北条家臣。初名は綱秀、別名に政友。今川・武田家に仕えたあと、結城秀康に仕官。秀康の子・忠直の代に出奔して大坂城に入城、大坂夏の陣にて戦死した。
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塙団右衛門 (ばんだんえもん)
加藤家臣。鉄砲大将を務めたが、関ヶ原合戦の際に主君・嘉明と対立して出奔、浪人となる。のちに大坂城に入城、大坂夏の陣で浅野長晟軍と戦い、戦死した。
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小出吉英 (こいでよしひで)
吉政の嫡男。但馬出石6万石を領し、新たに出石城を築城、有子山城より居城を移した。出石出身の沢庵宗彭に帰依し、その薫陶を受けた。
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小出吉親 (こいでよしちか)
吉政の次男。兄・吉英に譲られ但馬出石城主となったが、後に兄が出石に再封されたため、新たに丹波園部2万8千石を領した。園部城を築城している。
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金森可重 (かなもりよししげ)
織田家臣。長屋景重の子で、長近の養子となる。養父の死後、家督を相続。大坂の陣に従軍し、功を立てた。養父と同じく茶の湯を好み、茶会記に名を残した。
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向井忠勝 (むかいただかつ)
徳川家臣。正綱の子。通称将監。父同様水軍を率い、大坂の陣で活躍。大坂湾の制海権を確保する。幕府の船手頭として水軍を管轄。造船の名手だった。
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九鬼守隆 (くきもりたか)
志摩鳥羽藩主。嘉隆の子。関ヶ原合戦では東軍に属し、西軍の父と戦う。戦後、自らの行賞と引き替えに父の助命を乞うが、父はすでに自害した後だった。
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小浜光隆 (おはまみつたか)
徳川家臣。景隆の子。船手頭を務め、相模・上総両国で3千石を領した。大坂冬の陣に出陣し、大野治長の関船、早船をそれぞれ2隻ずつ乗っ取る功を立てて。
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浅野長晟 (あさのながあきら)
徳川家臣。長政の次男。兄・幸長の死後紀伊和歌山藩主となる。大坂夏の陣では塙直之を討ち取るなど活躍した。福島家の改易後、安芸広島42万石を領した。
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亀田高綱 (かめだたかつな)
浅野家臣。関ヶ原合戦などで軍功多く、大坂夏の陣の樫井の戦いでは塙団右衛門を討ち取るが、その功を他人のものとされた。のち上田重安と争い、下野した。
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浅野長重 (あさのながしげ)
長政の三男。徳川秀忠に仕え、大坂の陣で功を立てる。後に常陸笠間5万3千石に加増転封された。吉良上野介を松の廊下で斬った浅野内匠頭は長重の曾孫。
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上田重安 (うえだしげやす)
豊臣家臣。九州征伐、小田原征伐などに従軍した。関ヶ原合戦では西軍に属し、戦後改易される。のち浅野家に仕え、大坂の陣に出陣した。茶人としても著名。
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薄田兼相 (すすきだかねすけ)
豊臣家臣。大坂冬の陣で博労ヶ淵砦の守備に失敗し、「橙武者」と嘲られた。大坂夏の陣で勇戦し、戦死した。ヒヒ退治の豪傑・岩見重太郎と同一人物という。
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明石全登 (あかしてるずみ)
宇喜多家臣。景親の子。主家内乱の後は国政を執る。関ヶ原合戦では宇喜多軍の先鋒を務めた。のち大坂城に入り、大坂の陣では切支丹武士を率いて奮戦した。
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松平忠輝 (まつだいらただてる)
徳川家康の六男。容貌の醜さから父に疎まれて育つ。成人後は越後高田75万石を領すが、大坂夏の陣への遅参が豊臣家への内通疑惑を招き、戦後改易された。
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水野勝成 (みずのかつなり)
徳川家臣。遠江高天神城攻めなど多くの合戦に従軍した。一時は豊臣秀吉などに仕えたが、のちに帰参し、備中福山10万石を領す。島原の乱にも参陣した。
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伊達政宗 (だてまさむね)
伊達家17代当主。輝宗の嫡男。瞬く間に周辺諸国を切り従えて24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。
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松倉重政 (まつくらしげまさ)
筒井家臣。重信の子。主家の改易後は徳川家に属す。大坂の陣後、肥前島原城主となるが、重税や切支丹弾圧などの圧政を行い、島原の乱の原因を作った。
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堀直寄 (ほりなおより)
堀家臣。直政の子。兄と家督を争い、これが元で堀家は改易。徳川家に仕える。豊臣秀吉が器量人と讃え徳川家康が信頼した才でついには村上10万石を得た。
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松平忠明 (まつだいらただあきら)
奥平信昌の四男。徳川家康の養子となり松平姓を名乗る。大坂の陣で美濃衆を率い、戦後、道頓堀開削など大坂の復興に努めた。のち幕閣の元老的存在となる。
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真田幸村 (さなだゆきむら)
昌幸の次男。蟄居先の紀伊九度山から大坂城に入り、大坂の陣で寡兵ながらも徳川の大軍を相手に奮戦した。その戦いぶりは「真田日本一の兵」と称賛された。
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毛利勝永 (もうりかつなが)
豊臣家臣。関ヶ原合戦で西軍に属して土佐に配流されるが、脱走して大坂城に入る。真田幸村に次ぐ人望を得て大坂夏の陣で活躍したが、落城に伴い自害した。
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片倉重長 (かたくらしげなが)
伊達家臣。景綱の子。大坂夏の陣で後藤基次らを討ち取るなど活躍し、徳川家康から「鬼」と評された。この時に真田幸村の娘・梅を保護し、のちに妻とした。
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渡辺糺 (わたなべただす)
豊臣家臣。槍の名手として作られる。母の正栄尼は秀頼の乳母を務めた。大坂の陣の主戦派で、大坂夏の陣では真田幸村とともに奮戦。城中で自害した。
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木村重成 (きむらしげなり)
豊臣家臣。定光の子という。主君・秀頼の乳兄弟で、小姓を務めた。徳川家との和睦の際は豊臣家の使者を務めた。大坂夏の陣で井伊直孝軍と戦い、戦死した。
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山口弘定 (やまぐちひろさだ)
豊臣家臣。宗永の次男。大坂の陣で豊臣家に味方し籠城。妻の兄・木村重成に属して戦い、夏の陣・若江の戦いで重成とともに井伊直孝隊に討たれた。
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井伊直孝 (いいなおたか)
徳川家臣。直政の次男。病弱だった兄・直継に代わって家督を継ぎ、近江彦根藩主となった。大坂夏の陣に参陣し、長宗我部盛親・木村重成の両軍を撃破した。
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榊原康勝 (さかきばらやすかつ)
徳川家臣。康政の三男。長兄・忠政は他家の養子、次兄・忠長は早世のため、父の死後上野館林10万石を継いだ。大坂冬の陣では佐竹軍の窮地を救っている。
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丹羽長重 (にわながしげ)
豊臣家臣。長秀の嫡男。越前北庄120万石を継ぐが、次第に減封され、関ヶ原合戦後は所領を失う。大坂の陣に従軍して活躍、陸奥白河10万石を領した。
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長宗我部盛親 (ちょうそかべもりちか)
元親の四男。関ヶ原合戦で西軍に属して改易され、京で寺子屋を開く。のち大坂城に入り、藤堂高虎軍を壊滅させるなど活躍したが、大坂落城後、斬首された。
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増田盛次 (ましたもりつぐ)
長盛の子。関ヶ原合戦で父が改易された後は尾張徳川家に仕えていたが、大坂夏の陣直前に大坂城へ入場。長宗我部盛親軍に属し、藤堂勢との戦いで戦死した。
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藤堂高虎 (とうどうたかとら)
徳川家康ほか7人の主君に仕え、主君を変える度に知行を増やし、伊勢安濃津32万石を領す。合戦では常に先鋒を務め奮戦、また多くの城の普請を担当した。
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藤堂高吉 (とうどうたかよし)
高虎の養子。実父は丹羽長秀。様々な戦で活躍するが、高虎に実子・高次が生まれると家を出て家臣となり、伊勢名張に領地を得る。高次には疎まれたという。
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藤堂高刑 (とうどうたかのり)
藤堂家臣。高虎の甥。関ヶ原合戦で大谷吉継の家臣・湯浅五助を討ち取る活躍を見せる。大坂の陣にも出陣するが、長宗我部盛親隊の猛攻を受けて討死。
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桑名吉成 (くわなよしなり)
長宗我部家臣。土佐中村城代を務める。戸次川合戦、浦戸一揆鎮圧などで活躍した。主家改易後は藤堂家に属す。大坂夏の陣の際に旧主・盛親と戦い戦死した。
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徳川秀忠 (とくがわひでただ)
家康の三男。関ヶ原合戦の際、中山道からの進軍を真田昌幸に阻まれ、父の不興を買う。しかし、凡庸篤実な人柄を父に見込まれ、江戸幕府2代将軍となった。
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前田利常 (まえだとしつね)
加賀金沢藩主。利家の四男。兄・利長の跡を継ぐ。大坂の陣に参陣して功を立てた。藩の存続に努め、江戸幕府の警戒を欺くために愚鈍を装っていたともいう。
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本多康俊 (ほんだやすとし)
徳川家臣。酒井忠次の次男。母は徳川家康のおば・碓井姫。本多忠次の養子となり、後を継ぐ。大坂の陣で活躍。近江膳所3万石を与えられた。
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本多康紀 (ほんだやすのり)
徳川家臣。康重の長男。父の死により、三河岡崎藩を継ぐ。大坂の陣で、堀埋め立てや石垣破壊に活躍した。のちに岡崎城の修築に努め、天守閣を再建した。
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片桐且元 (かたぎりかつもと)
豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。主君・秀頼の傅役として主家存続のため奔走するが、徳川家康への内通疑惑により大坂城を退去した。以後は徳川家に属した。
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細川忠興 (ほそかわただおき)
織田家臣。藤孝の子。明智光秀の娘を娶るが、本能寺の変後は豊臣家に属した。関ヶ原合戦では東軍に属し、豊前中津39万6千石を領した。利休七哲の1人。
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黒田長政 (くろだながまさ)
豊臣家臣。官兵衛孝高の嫡男。九州征伐などで活躍した。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後筑前福岡52万石を領す。以後は徳川幕府への恭順の姿勢を貫いた。
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加藤嘉明 (かとうよしあきら)
豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。「沈勇の士」と評された。豊臣水軍の主力として各地の合戦で活躍。関ヶ原合戦では東軍に属し、伊予松山20万石を領した。
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立花宗茂 (たちばなむねしげ)
大友家臣。高橋紹運の子。立花道雪の娘を娶る。豊臣秀吉に「忠義と剛勇は鎮西一」と評された。関ヶ原合戦で西軍に属して改易されるが、のち旧領に復した。
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土井利勝 (どいとしかつ)
徳川家臣。水野信元の子。徳川家康の落胤という説もある。秀忠・家光と将軍2代に仕えて老中・大老などを歴任。江戸幕府の基盤安定に多大な功績を残した。
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本多正信 (ほんだまさのぶ)
徳川家臣。三河一向一揆に身を投じて主家を離反、諸国を放浪したのちに帰参。行政と謀略に優れた手腕を発揮した。主君・家康には「友」と呼ばれたという。
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三枝昌貞 (さえぐさまささだ)
武田家臣。駿河の花沢城攻めで一番槍の功名を立て、信玄から感状を受けた。のちに山県昌景の猶子となる。長篠の合戦で織田軍の奇襲を受け、戦死した。
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本多忠純 (ほんだただずみ)
徳川家臣。正信の三男。大坂の陣で活躍するも、毛利勝永と戦い敗走している。粗暴で家臣を虐待し、ささいなことで殺したため、ついには家臣に暗殺された。
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徳川家康 (とくがわいえやす)
江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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本多忠朝 (ほんだただとも)
徳川家臣。忠勝の次男。関ヶ原合戦に従軍し、戦後、上総大多喜5万石を領す。大坂夏の陣では天王寺口の先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入、戦死した。
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秋田実季 (あきたさねすえ)
檜山安東家9代当主。愛季の嫡男。父の死後、家督を継ぐ。南部家や戸沢家と抗争し、所領を守り抜くが、関ヶ原の合戦での不手際により、秋田領を追われた。
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真田信吉 (さなだのぶよし)
信之の長男。大坂の陣に参加し、毛利勝永と戦うが敗れる。戦後上野沼田3万石を領すが父に先立ち病死。遺領は弟の信政と信吉の次男・信利に分割された。
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六郷政乗 (ろくごうまさのり)
出羽の豪族。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、所領安堵。朝鮮出兵の際は肥前名護屋城を守る。のち関ヶ原合戦、大坂の陣に参加し、出羽本庄2万石を領した。
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小笠原秀政 (おがさわらひでまさ)
徳川家臣。貞慶の嫡男。石川康長の改易後、旧領の信濃松本6万石を領す。大坂夏の陣で戦死した。主君・家康に「信濃は…」と言い残して絶命したという。
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仙石忠政 (せんごくただまさ)
秀久の嫡男。関ヶ原合戦では信濃上田城攻めに参加。父の死後家督を継ぎ、信濃小諸5万石を領す。大坂の陣で功を立て後に信濃上田へ加増転封された。
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諏訪忠恒 (すわただつね)
徳川家臣。頼水の長男。大坂夏の陣に出馬し、榊原康勝に属して若江の戦い、天王寺での戦いで活躍。父の隠居により信濃諏訪藩を継ぎ、新田開発に努めた。
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保科正光 (ほしなまさみつ)
保科正直の子。徳川家康の臣。信濃国高遠城主。家康が関東に移封されると、下総に転封された。関ヶ原後、旧領を回復徳川家光の弟・正之が家督を継いだ。
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酒井家次 (さかいいえつぐ)
徳川家臣。忠次の嫡男。主君・家康の偏諱を受ける。家康の関東入国の際に臼井城主となった。大坂夏の陣で活躍し、その功により越後高田10万石を領した。
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松平康長 (まつだいらやすなが)
徳川家臣。旧姓戸田。家康より松平姓を許される。高天神城攻めに初陣して以来各地で功を立てた。関ヶ原合戦では大垣城を攻略。後に信濃松本7万石を領す。
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松平忠良 (まつだいらただよし)
徳川家臣。徳川家康の異父弟・松平康元の長男。姉妹に津軽信枚の妻・満天姫がいる。関ヶ原合戦に従軍。大坂の陣で功を上げ、美濃大垣5万石に加増された。
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内藤忠興 (ないとうただおき)
徳川家臣。政長の長男。血気盛んで、大坂の陣で留守居を命じられたが、本多正信に参陣を頼み込み、徳川家康に喜ばれた。新田開発や検地で税収を強化した。
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水谷勝隆 (みずのやかつたか)
常陸下館2代藩主。のち備中成羽を経て備中松山藩主となり、交通路と水路の整備、玉島新田開発、製鉄業振興を行う。また幕府の信頼も厚かった。
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稲垣重綱 (いながきしげつな)
徳川家臣。関ヶ原合戦では徳川秀忠に属し、上田城攻めに加わった。大坂の陣では酒井家次に属し戦った。のち、大坂城代を務め、三河刈谷藩初代藩主となる。
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徳川義直 (とくがわよしなお)
家康の九男。徳川御三家の一・尾張藩の藩祖で「剛」と評された。学問を好んで儒教を奨励。産業振興、税制整備、治水などを行い、藩政の基礎を固めた。
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徳川頼宣 (とくがわよりのぶ)
家康の十男。徳川御三家の一・紀州藩の藩祖。血気盛んで「勇」と評された。大坂の陣で後方の陣に置かれたことを、涙を流して悔しがったという。
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松平忠直 (まつだいらただなお)
結城秀康の嫡男。父の死後家督を継ぐ。大坂の陣では真田幸村軍の突撃を阻止するなど活躍。のちに幾多の不行跡を起こしたため、改易され配流処分となった。
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大谷吉治 (おおたによしはる)
豊臣家臣。吉継の長男。関ヶ原合戦では父とともに西軍に属して戦った。戦後、浪人となるが、豊臣秀頼に招かれ大坂城に入る。天王寺口の戦いで戦死した。