今日は何の日?

  • ● 1559年 長尾景虎(上杉謙信)が上洛し将軍・足利義輝に拝謁
  • ● 1570年 越前討伐中の織田軍に浅井長政離反の報が伝わり、全軍撤廃を開始
  • ● 1625年 毛利輝元が死去。享年73歳
  • ● 1559年 長尾景虎(上杉謙信)が上洛し将軍・足利義輝に拝謁
  • ● 1570年 越前討伐中の織田軍に浅井長政離反の報が伝わり、全軍撤廃を開始
  • ● 1625年 毛利輝元が死去。享年73歳

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この人誰?

戸川達安

大坂夏の陣

1615年4月

豊臣秀頼と徳川家康

目次[非表示]

郡山城の戦い(こおりやまじょうのたたかい)

1615年4月27日

奈良県大和郡山市城内町

大和郡山城

大坂に向けて進軍する徳川家康の動きをみて、豊臣方の大野治長の弟・大野治房後藤又兵衛ら2,000余の兵を率いて暗峠を越えて大和に侵入し、大和郡山城を攻撃します。
この郡山城主は以前筒井順慶の居城であった城で、このときは徳川方の順慶の養子である筒井定慶が1,000余の兵で守っていました。
しかし豊臣方による突然の夜襲に驚き、城兵の逃亡が相継ぐ。

抵抗の不利を悟った定慶は、城を捨てて落ちのびていきます。

ほどなく家康の家臣・水野勝成の軍勢が大和に入ったため、治房も郡山城を放棄して大坂城に撤収している。

この合戦が戦端となり大坂夏の陣が始まりました。

岸和田城の戦い (きしわだじょうのたたかい)

1615年4月28日

大阪府岸和田市岸城町

岸和田城

大野治房の大和郡山城攻めに連動して、大野治長は弟の大野治胤塙団右衛門・岡部町綱・御宿勘兵衛ら3,000余の兵を率いて大坂城を出陣し、紀伊(和歌山県)に向かいました。
豊臣方は、大阪城の南に位置する浅野長晟の和歌山城を攻略しようとしたのである。
4月28日、塙団右衛門・岡部則綱らの先陣が岸和田城を攻撃したが、徳川方の岸和田城主である小出吉英、弟の小出吉親や親族の金森可重・伊東治明らに阻まれて落とすことはできなかった。

このため大野勢は岸和田城攻略を諦め、大野治胤ら一手を残して和歌山城を目指し南下していきました。

堺の戦い (さかいのたたかい)

1615年4月28日

大阪府堺市堺区一帯

大阪府堺市の街並み

大阪府堺市の街並み

紀伊に向かう豊臣方の先陣である塙団右衛門・岡部則綱らが和泉岸和田城を攻撃するころ、本隊を率いる大野治胤らは和泉界に入ります。
近隣の村々に放火し、28日には大野治胤らは手勢2,000を率いて徳川方が兵器の供給や修理などを行う基地だった堺を焼き討ちにしました(堺焼き討ち)。

海上で警固していた徳川方の水軍である九鬼守隆向井忠勝小浜光隆・千賀信親らは、堺の豊臣方に攻撃を加えるも日没により戦いは自然と中止になった。

なお大坂落城後に捕らえられた治胤は、捕縛を知った堺衆に引き渡され堺で火あぶりにされている。
火あぶりにされ全身焼かれて炭になったはずの治胤が、いきなり起き上がり周囲の徳川方武士に脇差で斬りかかり一太刀浴びせた後そのまま灰となって崩れ落ちた、という逸話が残っている。

樫井の戦い(かしいのたたかい)

1615年4月29日

大阪府泉佐野市南中樫井

岡部則綱

淡輪重政

LOSE

大野治長率いる豊臣勢が2万余の大軍となって紀伊に向かうなか、紀伊和歌山城主の浅野長晟は出陣を決心します。

国内で一揆の兆候(紀州一揆)があったことから出陣を見合わせていたが、4月28日に5,000余の兵を率いて出陣し、和泉樫井で豊臣勢を迎え撃ちます。

29日早朝、豊臣方の岡部則綱・塙団右衛門・淡輪重政ら兵3,000の先鋒が浅野勢に攻撃を仕掛ける。
浅野家臣の亀田高綱は遅滞戦術を展開し、豊臣軍を樫井まで誘引します。

樫井では亀田隊に浅野氏重上田重安らが加わり豊臣軍と激戦になりました。

塙団右衛門と岡部則綱は先鋒を争う形で突出したため後続が追いつかず、やがて岡部は敗走、塙団右衛門・淡輪重政が討死してししまった。

塙団右衛門

太平記三十六番相撲:第三十二之番「塙直行」(落合芳幾作)

豊臣勢は総崩れとなり、和泉貝塚に本陣をおいていた大野治長らは大坂城に退却した。

紀伊の一揆は留守居の熊谷治部、寺沢半兵衛らの計略により鎮圧された。

この戦いで豊臣勢はますます劣勢になっていったのであった。

塙団右衛門を討ち取った亀田高綱(かめだたかつな)とは?【マイナー武将列伝】

道明寺の戦い(どうみょうじのたたかい)

1615年5月6日

大阪府藤井寺市道明寺一帯

二条城に入った徳川家康は、全軍を二手に分けると一手を河内から摂津に向かわせ、もう一手を大和から河内を経て摂津に向かわせました。
大坂城南東に位置する道明寺あたりで合流させようとしたのである。

大和ルートの水野勝成伊達政宗松平忠輝らは奈良で陣容を整えると、5月5日に3万余の大軍で道明寺に向かいます。

大阪城の堀を埋められ野戦でしか勝機がない豊臣方は、狭隘な道明寺付近で徳川方を迎え撃つことを決め、後藤又兵衛薄田兼相真田信繁(幸村)・毛利勝永らは進軍します。

5月6日午前0時、後藤又兵衛指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着しました。
そして幕府軍が既に国分に展開していることを知る。
しかし真田信繁毛利勝永らの軍勢が濃霧に阻まれて遅延したため、後藤又兵衛は単独で徳川方の大軍と当たることを余儀なくされる。

作戦が既に破綻していること認めた後藤は、石川を渡り小松山(現在の柏原市立玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。
徳川軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。

午前4時、後藤松倉重政・奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けました。
奥田は戦死し、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成堀直寄が来援してかろうじて助かった。

小松山を包囲した幕府軍の伊達政宗松平忠明らは銃撃を加え、小松山にとりつこうとします。
後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したがそれにも限界があった。

後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り隊に二手に分け幕府軍に最後の突撃を敢行した。

いくつか敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達政宗の軍勢に銃撃され後藤が被弾。

正午頃、約8時間の戦闘の末、後藤は戦死し後藤隊も壊滅してしまう。

このころになって前隊の残り、薄田兼相明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し後藤を援護します。

薄田兼相は大坂冬の陣における博労淵砦の戦いで、留守にしている隙に砦を奪われる失態をおかしていたので、その汚名を雪ぐべく奮戦して討死した。
敗北した豊臣方は、西の誉田まで兵を退いていく。

誉田の戦い (こんだのたたかい)

1615年5月6日

大阪府羽曳野市誉田一帯

誉田の戦い

後隊の真田信繁毛利勝永の軍勢が道明寺に着陣したのは、5月6日の正午頃で、すでに後藤又兵衛の軍勢は壊滅していた。
後退してきた豊臣方の兵を収容し誉田村付近に着陣した。

伊達勢は豊臣勢の後方を衝こうとしたため、伊達政宗配下の片倉重長は真田勢を見るとこれに攻め寄せます。

片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃。
これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃ちました。

片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を800m後方の道明寺辺りまで押し込みます。
しかし伊達政宗の女婿にあたる松平忠輝の加勢を得て伊達勢も持ち直す。

真田信繁は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流します。

徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し膠着状態になった。

午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報を受け豊臣勢は退陣します。
豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始。
徳川軍の水野勝成は追撃を主張するも、伊達政宗は兵の疲労を理由に応じなかった。

若江の戦い (わかえのたたかい)

1615年5月6日

大阪府八尾市幸町一帯

長屋平太夫

佐久間正頼

内藤長秋

LOSE

藤堂良勝

藤堂良重

庵原朝昌

川手良列

WIN

若江の戦い

道明寺で徳川軍を迎え撃つ後藤又兵衛真田信繁毛利勝永らを援護するため、木村重成長宗我部盛親と共に大坂城を打って出て、河内若江に布陣しました。この時敵に悟られないようにするため、提灯一つのみを頼りに進軍したという。
先鋒を3手に分け、右翼は南の藤堂隊に備え、左翼は北の奈良街道へと備え、本隊は若江の南端で敵に備えた。
その右手に藤堂勢の右先鋒である藤堂良勝・藤堂良重が攻撃をかける形で開戦します。
結果藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝・良重は戦死した。

勢いづいた木村隊右翼の部将である長屋平太夫・佐久間正頼は藤堂隊の追撃をしようとするが重成は兵の疲労が多かったためこれを制します。
重成は負傷者を本隊に収拾すると次の戦闘に備える。

藤堂勢を退却させた木村重成は、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃するため玉串川西側堤上に鉄砲隊360人を配置します。

午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。
井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。
木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。
堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。
川手はさらに突進したが戦死した。
そこに庵原も加わって激しい乱戦となった。
木村重成は自身も槍を取って戦ったが安藤重勝に首を取られ討死、豊臣方は総崩れとなり山口弘定・内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅してしまった。

それまで戦闘を傍観していた徳川軍の榊原康勝丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手の木村宗明へ攻めかかった。
宗明は本隊が敗れたため大坂城へ撤退しました。

八尾の戦い(やおのたたかい)

1615年5月6日

大阪府八尾市一帯

LOSE

藤堂氏勝

中内源兵衛

WIN

八尾の戦い

南下する徳川本隊を攻撃するべく木村重成とともに大坂城を打って出た長宗我部盛親は、八尾に布陣しました。

徳川方の先鋒である藤堂高虎は、一隊で若江の木村重成を牽制しつつ、主力をもって長宗我部隊を攻撃します。
藤堂勢の中備を務める藤堂高吉は萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒・吉田重親を攻撃します。

吉田は本隊に対し攻撃を受けている旨を伝令し、応戦したが壊滅し吉田は討死。

藤堂勢の左先鋒の藤堂高刑桑名吉成らは道明寺へ向かう先頭にあったが、転進して玉串川を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫ります。
藤堂高虎の旗本の藤堂氏勝もそれに続きます。

吉田の知らせをうけた長宗我部盛親は、騎馬武者もすべて下馬させ、槍を持たせて長瀬川の堤防の上に伏せさせ迎撃の体勢を取った。

藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせたため藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は致命傷を負い退却中に死亡します。

藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され撃退。
旧主と戦った中内源兵衛も討死し、260余を討ち取られた藤堂勢は窮地に陥る。

正午頃まで戦闘は続くも、若江の木村重成の敗報が届いたため長宗我部勢は孤立を避けるため坂城へ撤退を始めます。

藤堂勢は追撃し、殿を務めていた増田盛次を討ち取った。

岡山口の戦い (おかやまぐちのたたかい)

1615年5月7日

大阪府大阪市生野区勝山北・南一帯

5月7日、ついに徳川家康は大坂城に総攻撃をかける。

このとき家康は子の秀忠を岡山口の総大将としました。
先鋒は大将を前田利常とし本多康俊本多康紀片桐且元ら計20,000。
二番手は井伊直孝藤堂高虎勢の計7,500と細川忠興隊。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。
一説には一番手と二番手の間に黒田長政加藤嘉明が参陣していたといわれる。

徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃を開始。
このとき立花宗茂秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。

戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手の井伊直孝藤堂高虎勢が動く。
この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。

そのため秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするが、本多正信は「大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はない」と諫め止めたという。

黒田長政加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花宗茂は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。
旗奉行の三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。

この間、後詰の大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。
体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。

天王寺口の戦い (てんのうじぐちのたたかい)

1615年5月7日

大阪府大阪市天王寺区茶臼山町一帯

毛利勝家

樫井昌孝

山本公雄

竹田永翁

浅井長房

木村宗明

湯浅正寿

LOSE

大阪の陣の最終決戦となった天王寺口の戦い。

大阪城への総攻撃を決定した徳川家康は、本多忠勝の次男・本多忠朝を先鋒の大将に命じ、秋田実季浅野長重、松下重綱、真田信吉六郷政乗、植村泰勝ら計5,500を置く。

二番手には榊原康勝を大将とし、小笠原秀政仙石忠政諏訪忠恒保科正光丹羽長重ら計5,400。

三番手に酒井家次を大将とし、松平康長松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興水谷勝隆稲垣重綱六郷政乗ら計5,300。
その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。

さらに徳川義直15,000、徳川頼宣が本陣後備として布陣し天王寺口から大坂城を攻める。

これに対し豊臣方は、真田信繁大野治房明石全登毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。
それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。

これにより毛利勝永は息子の毛利勝家・樫井昌孝・山本公雄・竹田永翁・浅井長房ら4,000などが天王寺口を固めていた。

正午頃、豊臣方大将の毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方先鋒大将・本多忠朝勢を銃撃します。
これをきっかけに合戦が始まると、戦場は混乱に陥った。

毛利勢は正面から突入してきた忠朝を討ち取り、幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。

本多忠朝は大坂冬の陣で、酒を飲んでいたために不覚をとってしまったため、汚名返上のため戦功が欲しかったのでしょう。

本多勢の救援をしようと小笠原秀政、小笠原忠脩、諏訪忠恒らが駆けつけるも、勢いづく毛利勢に追随する木村重成残兵である木村宗明や湯浅正寿らの備による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。
続いて木村宗明らの備はその後、丹羽長重隊に突撃した。
丹羽長重隊の老兵丹羽秀重の備は「先の戦(大阪夏の陣における若江の戦い)で因縁のある」木村宗明の備に全身全霊の怒涛の突撃を見せたが、秀重は討ち死にし毛利勢に突破される。
その後も丹羽長重隊は秀重の亡骸を守る為、先鋒を務めたが、先鋒に残っていた先鋒備は丹羽長重隊などの数少ない隊備の手勢のみであった。

二番手大将・榊原康勝以下、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの毛利勢に先鋒大将・本多忠朝を打ち取られ木村宗明備に小笠原忠脩を打ち取られたうえに丹羽長重隊が突破された混乱に巻き込まれ壊乱。
毛利勝永は、敗兵が雪崩込んだ三番手大将・酒井家次の部隊も撃破し、遂には家康の本陣に突入するという活躍を見せた。

真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の先鋒大将・松平忠直勢と交戦していたが、天王寺口・茶臼山の一番手総大将・水野勝成勢の救援に気づかずに松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。
さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回にわたって突撃を繰り返した。

これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。

家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来2度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。

倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる(一説には平野方面に逃げたともいわれる)家康自身も自刃を覚悟するも、文殊院勢誉に制止されたという(実際には勢誉はこの2年前に死去しているので俗説)。
しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。
水野勝成の性格を知る徳川家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じていたが、戦況を重く見た一番手総大将・水野勝成大和路勢は勝成が自ら一番槍を取った、彼の救援に天王寺口・茶臼山の一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。

大野治長秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。
しかしこの時、治長秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。

真村信繁も3度の突撃の後、13の傷を受け疲労のため動けず、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、松平忠直配下の鉄砲組頭である西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。

豊臣方の大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷を負った。

豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勝永大野治房も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり大阪城内に撤退した。

別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると天王寺口・茶臼山の水野勝成勢に突撃した後姿を消した。

勝ちに乗した徳川勢が城内への侵入を果たし、大坂城は落城することになった。
翌5月8日、豊足秀頼毛利勝永の介錯で自刃し、秀頼の子で8歳の国松丸は、京都六条河原で斬首されている。

大坂の陣をもって150年ほどに渡って続いてきた戦乱の時代が終わり、江戸幕府は元号を元和と改めた。
これを元和偃武という。

偃武とは武器を武器庫に収めることを指しており、すなわち平和になったという意味である。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬