今日は何の日?

  • ● 1571年 武田信玄、勝頼父子が徳川方の三河足助城を攻略
  • ● 1606年 柳生新陰流の祖・柳生宗厳が死去。享年78歳
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  • ● 1606年 柳生新陰流の祖・柳生宗厳が死去。享年78歳

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この人誰?

増田盛次

武将名鑑【信長の野望 大志(パワーアップキット)】

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上杉景勝(うえすぎかげかつ)

上杉景勝 の能力値
統率

高いほど、決戦での移動速度が上がったり、籠城戦で城を奪われにくくなったりする。
また高いほど、評定で意見を出したとき、軍事の施策力を獲得しやすい。

81 (106 位)
武勇

高いほど、決戦で敵部隊に与えるダメージが増える。

76 (202 位)
知略

高いほど、決戦で敵部隊から受けるダメージが減る。
また高いほど、評定で意見を出したとき、論議の施策力を獲得しやすい。

78 (178 位)
内政

高いほど、評定で意見を出したとき、
農業・商業の施策力を獲得しやすい。

78 (158 位)
外政

「外交」で奏者に任命した際、高いと心証が上がりやすくなる。

76 (193 位)
合計 389 (99 位)2201人中
上杉景勝のグラフィック画像1
上杉景勝のグラフィック画像2
上杉景勝 の基礎データ
性別
別名 顕景
幼名 長尾卯松
仮名・通称 喜平次
法号・戒名 宗心 覚上院殿法印権大僧都宗心
長尾政景
養父 上杉謙信
仙桃院
配偶者・正室 菊姫
側室1 桂岩院(四辻公遠の娘)
上杉景勝の自画像
その他のデータ 列伝
誕生年 1555年 出羽米沢藩主。長尾政景の子。上杉謙信の養子となった。謙信の死後、御館の乱に勝利して家督を継いだ。関ヶ原合戦では西軍に属し、最上・伊達軍と戦った。
死亡年 1623年
気質
野心 0
烈戦 れっせん
戦法

決戦で武将から献策があると実行できる。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

戦法名 采配 消費ゲージ 6
効果 周囲の味方の攻撃力と防御力を小上昇
作戦

決戦開始時に決める。
作戦によって様々な効果がある。
青く表示されている戦法は自動で発動する。

作戦名 神出鬼没
読み しんしゅつきぼつ
条件 山、森、湿地、川、商圏
消費軍議 40 必要部隊 3
効果 強襲隊の速度が小上昇、奇襲時戦法ゲージが増加し敵の兵数と士気を低下
補佐
疾走 味方の作戦効果中に移動速度を小上昇

上杉景勝が登場する合戦

  • 御館の戦いおたてのたたかい [御館の乱]

    1579年2月1日 ~ 3月18日

    新潟県上越市五智

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  • 鮫ヶ尾城の戦いさめがおじょうのたたかい [御館の乱]

    1579年3月24日

    新潟県妙高市宮内

    堀江宗親

    WIN

    LOSE

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  • 栃尾城の戦いとちおじょうのたたかい [御館の乱]

    1580年4月22日

    新潟県長岡市栃尾町

    本庄秀綱

    LOSE

    天正8年(1580年)4月に上杉景勝は春日山城を出立し、御館の乱で上杉景虎方につき景虎の死後も抵抗を続けていた本庄秀綱が守る越後栃尾城を攻めた。

    かつて上杉謙信が一時在城していた栃尾城は堅城で知られており、秀綱は防戦に努めるも、4月22日に景勝方の総攻撃により落城した。

    本庄秀綱は栃尾城を棄て、会津に落ち延びた。

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  • 三条城の戦いさんじょうじょうのたたかい [御館の乱]

    1580年7月7日

    新潟県三条市

    神余親綱

    LOSE

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  • 天神山の陣てんじんやまのじん [織田信長の北陸平定]

    1582年5月19日 ~ 27日

    富山県魚津市小川寺

    DRAW

    DRAW

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  • 松井田城の戦いまついだじょうのたたかい [豊臣秀吉の関東平定]

    1590年3月28日 ~ 4月20日

    群馬県安中市松井田町松井田・新堀

    3月28日、前田利家上杉景勝真田昌幸信幸父子の北国勢らが率いる豊臣勢3万5000余の大軍が上野松井田城を包囲する。

    北条氏の重臣である大道寺政繁が守る松井田城は、信濃と上野の国境に位置する要衝である碓氷峠を扼していた。

    政繁は勧告を拒絶して抗戦を続けたが、周囲にある北条方の国峰城や厩橋城が次々と落とされると、4月20日に政繁は人質として長男の直重を出して、降伏開城した。

    松井田城の開城後、真田昌幸らの北国勢は上野国の要の城である箕輪城の攻略を進めた。

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  • 国峰城の戦いくにみねじょうのたたかい [豊臣秀吉の関東平定]

    1590年4月17日

    群馬県甘楽郡甘楽町国峰

    小幡信氏

    LOSE

    前田利家上杉景勝金森長近らの主力が上野松井田城を包囲するなか、上杉氏の先鋒を務める藤田信吉は上野国峰城の攻略に向かう。

    国峰城の小幡氏はもともと上野守護上杉氏に従っていたが、その後、武田氏・織田氏に従い、このころは北条氏に臣従していた。

    当主の小幡信定は小田原城に参陣していたため、留守を子の小幡信氏が守っていた。

    信氏は宮崎城(現・富岡市)を守備していたが、事前に織田信雄家臣の岡田利世を通じて内通していたようであり、豊臣勢の北陸軍が侵攻すると降伏して前田軍に投降した。
    その後信氏は小幡氏本拠の国峯城攻略の先兵となり、城を守備していた叔父の小幡信秀夫妻を殺害した。

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  • 箕輪城の戦いみのわじょうのたたかい [豊臣秀吉の関東平定]

    1590年4月24日

    群馬県高崎市箕郷町西明屋

    垪和信濃守

    LOSE

    箕輪城

    箕輪城

    上野松井田城を落とした前田利家上杉景勝真田昌幸らは、西牧城・国峰城・厩橋城を落として大導寺政繁の案内で上野箕輪城に向かう。

    このとき箕輪城を守っていたのは、武蔵鉢形城主・北条氏邦の家臣の垪和信濃守である。
    氏邦は、豊臣勢の襲来を予期して箕輪城を改修補強させていたが、城兵は一戦も交えず、4月24日に降伏開城した。
    こののち信濃高遠城主・保科正直が城の請け取りにあたり、前田利家に引き渡している。

    徳川家康の関東に入封に際し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられている。

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  • 鉢形城の戦いはちがたじょうのたたかい [豊臣秀吉の関東平定]

    1590年5月19日 ~ 14日

    埼玉県大里郡寄居町鉢形

    鉢形城 曲輪

    鉢形城 曲輪

    5月19日、前田利家利長父子、上杉景勝真田昌幸の北国勢と、浅野長政本多忠勝・島田利正・鳥居元忠ら徳川勢の連合軍は、3万5000余の軍勢で武蔵鉢形城を包囲する。

    城主の北条氏邦は、小田原城で籠城している北条氏政の弟であった。

    鉢形城は稀に見る頑強な要害であったため、1ヶ月近く籠城を続けたものの、抗戦の不利を悟って降伏開城する。

    このとき自刃するため菩提寺正龍寺に入った氏邦は、利家によって一命を助けられ、のち利家とともに金沢に移った。

    徳川家康の関東討入にともない、鉢形城は成瀬正一・日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。

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  • 八王子城の戦いはちおうじじょうのたたかい [豊臣秀吉の関東平定]

    1590年6月22日 ~ 23日

    東京都八王子市元八王子町

    横地吉信

    狩野一庵

    近藤綱秀

    LOSE

    天正18年(1590)鉢形城を攻略した前田利家上杉景勝真田昌幸信幸父子ら北国勢は、後北条氏の副都心ともいえる武蔵八王子城を包囲する。

    八王子城主は北条氏政の弟である北条氏照で、城代の横地吉信のほか、狩野一庵・中山家範・近藤綱秀ら1000余で守っていた。

    豊臣勢は翌6月23日に総攻撃を仕掛け、城代の吉信が城から脱出し城主・北条氏照を欠いたまま半日で落城した。

    小田原城に対する見せしめのために徹底した攻城が指示され、敵味方の相交える鉄砲の音は雷のようだったという。

    このとき氏照の正室をはじめとする女性たちは、滝に身を投げた。

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  • 河股城の戦いかわまたじょうのたたかい [東北の関ヶ原]

    1600年7月24日

    福島県伊達郡川俣町東福沢

    桜田元親

    WIN

    LOSE

    1600年7月24日、伊達政宗が白石城を攻撃したのとほぼ同じ頃、政宗配下の陸奥駒ヶ嶺城主・桜田元親は、上杉領の伊達郡に侵入して、上杉景勝の属城となっていた陸奥河股城を攻略する。
    桜田元親は、飯野、秋山、大波、小島を焼払い大舘に陣を取る。
    しかし上杉勢の援軍に攻撃されると、すぐに城を捨てて居城の駒ヶ嶺城に戻った。
    もともと河股城を占拠した元親は、上杉勢を釘打ちしておくための陽動作戦だったらしい。
    梁川、福島の上杉勢は元親に釘付けにされ白石救援に赴くことができず、政宗は白石城を手中に収めることができた。

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  • 今福・鴫野の戦いいまふく・しぎののたたかい [大坂冬の陣]

    1614年11月26日

    大阪府大阪市城東区今福・鴨野

    矢野正倫

    飯田家貞

    井上五郎右衛門

    小早川左兵衛

    竹田兵庫

    戸村義国

    井上頼次

    LOSE

    大坂城北東2kmほどの位置に、大和川(寝屋川)の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。
    この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田圃という地形だった。
    豊臣方は今福村に3カ所の堀切と4重の柵を設置し、矢野正倫および飯田家貞にそれぞれ兵300で守備させていた。
    鴫野砦では井上五郎右衛門・小早川左兵衛・竹田兵庫ら2,000の兵が守りを固めていた。

    徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両砦の奪取を命じます。

    今福砦へは佐竹義宣が兵1,500で、鴫野砦には上杉景勝・堀尾忠晴・丹羽長重が攻めいります。

    11月26日夜明け、戦いは佐竹隊による今福砦への急襲から始まった。佐竹麾下の渋江政光、戸村義国らにより第4柵まで占拠され、矢野と飯田は討死した。
    豊臣軍は木村重成が来援し、反撃に転じたため佐竹勢はやや後退したがその後膠着状態になった。
    その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は、後藤又兵衛に救援を命じた。

    大坂城から後藤又兵衛隊兵3,000が駆けつけ木村重成を支援しながら突撃を指揮し、佐竹勢を押し戻した。
    渋江政光は第1柵で防戦していたが、木村重成の指示で狙撃され討死したため佐竹勢先鋒隊が潰走、佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めた。

    鴫野砦では、砦の守備兵もよく守り、とくに秀頼の武術師範をも務めたともいう穴沢盛秀は大長刀を水車のように振り回して多くの敵をなぎ倒した。
    そこへ城中から繰り出した青木一重渡辺内蔵助らの率いる新手の兵が駆けつけてきたため、上杉隊も苦戦を強いられることとなった。

    上杉勢の安田能元須田長義らにより柵は占拠され、井上頼次は討ち死した。

    上杉勢一番手は第一の柵まで後退し、二番手の水原親憲らに崩れかかりそうになるところ親憲が大声で左右にどくよう指示し、そのあとを追いかけてきた豊臣軍に鉄砲隊の一斉射撃を加えた。

    上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加え、そこへ安田能元隊が槍を入れたため、徳川軍は苦戦しながらも両砦を陥落させ豊臣軍は撤退した。

    この戦いは大坂冬の陣最大の激戦とも言われ、双方ともに多数の死傷者を出した。大坂方の後藤又兵衛は退却の際に被弾して血まみれの姿になって帰城したといい、徳川勢ではとくに佐竹隊の損耗が激しく、翌日には佐竹隊に代えて本多忠朝以下、浅野長重真田信吉信政兄弟、仙石忠政秋田実季らに今福砦の守備が命じられたという。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬