武将名鑑【信長の野望 新生】
加藤嘉明(かとうよしあきら)
加藤嘉明(かとうよしあきら)
加藤嘉明 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
79 (155 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
75 (224 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
79 (172 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
55 (1051 位) | ||||
合計 | 288 (194 位)2201人中 |
加藤嘉明 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 茂勝 | ||||
仮名・通称 | 孫六 左馬助 | ||||
法号・戒名 | 松苑院殿拾遺釈道誉大禅定門 三明院道誉宣興 | ||||
父 | 加藤教明 | ||||
母 | 堀部氏 | ||||
配偶者・正室 | 堀部市右衛門の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1563年 | 豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。「沈勇の士」と評された。豊臣水軍の主力として各地の合戦で活躍。関ヶ原合戦では東軍に属し、伊予松山20万石を領した。 | |||||||||
死亡年 | 1631年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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海神 | 水上での攻撃上昇 | ||||||||||
地の利 | 合戦で積極的に要所を襲撃 | ||||||||||
修繕 | 所属城の耐久自然回復量上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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同討 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 20 |
加藤嘉明が登場する合戦
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下田城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年4月1日 ~ 23日
静岡県下田市三丁目
豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆半島における北条水軍最大の拠点であった伊豆下田城攻めが始まる。
豊臣水軍の脇坂安治の1300余・長宗我部元親の2500余・加藤嘉明隊・九鬼嘉隆の1500余らの大軍は、2月26日に駿河の清栄湊に寄港したあと、伊豆下田沖に向かい、4月1日に下田城を攻撃した。
城を守っていた伊豆衆筆頭の清水康英は、嫡子の政勝、弟の英吉や家臣の高橋丹波守らの城兵600余で籠城し、豊臣水軍1万4000余からの攻撃を50日余り凌いだが、4月23日に脇坂安治、安国寺恵瓊らと起請文を交わし、城を開けて降伏した。
降伏した康英は、一命を助けられて下田城を退去した。
-
竹ヶ鼻城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月22日
岐阜県羽島市竹鼻町
杉浦重勝
梶川三十郎
花村半左衛門
毛利広盛
LOSE
木曾川
8月20日、清須城で岐阜城攻めが決まると、東軍の福島正則・細川忠興・京極高知・黒田長政・加藤嘉明・藤堂高虎・田中吉政・井伊直政・本多忠勝ら16000の兵は木曾川下流から岐阜城に進軍することになった。
このとき岐阜城の織田秀信に呼応して西軍についていた竹ヶ鼻城主の杉浦重勝は、東軍を木曾川の起(おこし)の渡しで待ち受ける。
起の渡しでは、近隣の加賀野井城の主を失った加賀井重望の家臣らや秀信からの援軍梶川三十郎・花村半左衛門や三成からの援軍毛利広盛らと柵を作って鉄砲隊を布陣していた。鉄砲隊がいることや、砂地のため馬で渡河するのが困難だったため、木曾川での対決を避けた東軍は、迂回して下流の加賀野から船や筏で渡河した。
22日午前8時、杉浦重勝らは竹ヶ鼻城に退却し、渡河した東軍は9時に竹ヶ鼻城を急襲した。
福島正則の家臣らに負傷者が出たが、正則と旧知の間柄だった二の丸の梶川・花村・毛利らが勧告を受けて降伏し、二の丸に福島軍を呼び込んだ。
本丸に孤立した重勝はそれでも降伏勧告を拒絶し、残った手勢36名で抵抗を続けた。
正則の養子の福島正之の奮戦により本丸門が破られ、午後4時には重勝自ら打って出て大槍を駆使して奮戦したのち、槍を門に立てかけ、城に火を掛け自刃した。生き残っていた重勝の家臣7名も自刃していたと伝わる。
こののち東軍は、岐阜城に向かう。
-
岡山口の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月7日
大阪府大阪市生野区勝山北・南一帯
徳川秀忠 (36)前田利常 (22)本多康俊 (46)本多康紀 (36)片桐且元 (59)井伊直孝 (25)藤堂高虎 (59)細川忠興 (52)黒田長政 (47)加藤嘉明 (52)立花宗茂 (48)土井利勝 (42)本多正信 (77)三枝昌貞 (78)本多忠純 (29)WIN
大野治房 (43)LOSE
5月7日、ついに徳川家康は大坂城に総攻撃をかける。
このとき家康は子の秀忠を岡山口の総大将としました。
先鋒は大将を前田利常とし本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。
二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢の計7,500と細川忠興隊。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。
一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明が参陣していたといわれる。徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃を開始。
このとき立花宗茂は秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手の井伊直孝、藤堂高虎勢が動く。
この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。そのため秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするが、本多正信は「大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はない」と諫め止めたという。
黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花宗茂は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。
旗奉行の三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。この間、後詰の大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康・秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。
体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。
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