武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
細川忠興(ほそかわただおき)
細川忠興(ほそかわただおき)
細川忠興 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
78 (190 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
72 (328 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
71 (407 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
69 (427 位) | ||||
合計 | 290 (183 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1563年 | 織田家臣。藤孝の子。明智光秀の娘を娶るが、本能寺の変後は豊臣家に属した。関ヶ原合戦では東軍に属し、豊前中津39万6千石を領した。利休七哲の1人。 | |||||||||
死亡年 | 1645年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
血気 | 戦場で積極的に部隊攻撃を行う | ||||||||||
数寄 | 家宝をまれに入手 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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撹乱 | 敵部隊の体力減少 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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鬼神兵法 | 部隊の能力上昇 忠誠減少 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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治水奉行 | 灌漑整備の維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 元服前 | |||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 元服前 | |||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 20 | 勝龍寺城 | ||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | 建部山城 | ||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 38 | 田辺城 | ||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 52 | 小倉城 |
細川忠興が登場する合戦
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嶺山城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1579年7月 ~ 8月20日
京都府京丹後市峰山町赤坂
天正7年(1579年)6月に明智光秀が波多野秀治の居城八上城を落としと、波多野氏の一族や遺臣は丹後に逃れ、吉原西雲の居城である嶺山城に籠もった。
そのため光秀は翌7月に細川藤孝・忠興父子らに嶺山城を包囲させておき、黒井城が落城すると自ら主力を率いて丹後に向かった。
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長浜城の戦い [賤ヶ岳の戦い]
1582年12月11日 ~ 15日
滋賀県長浜市公園町
天正10年(1582年)12月11日、 羽柴秀吉は丹羽長秀・筒井順慶・長岡 (細川) 忠興・池田恒興・ 蜂屋頼隆ら5万余の軍勢を率いて、長浜城の柴田勝豊を包囲した。
勝豊は越前北庄城主・柴田勝家の養子であったが、勝家の実子の勝敏が誕生したため勝豊は嗣子としての資格を失い、勝家に疎んじられるようになっていたという。さらに同じ甥の立場であった佐久間盛政が勝家に重用されることに対しても不満があった。
雪に阻まれている勝家からの後詰も期待できないなか、勝豊はさしたる抵抗もなく本領安堵の条件を容れて、12月15日秀吉に降伏し長浜城を明け渡した。
すでに勝豊は病んでいた様子で、開城後すぐに京都で療養した。 -
積善寺城の戦い [羽柴秀吉の紀伊平定]
1585年3月21日 ~ 22日
大阪府貝塚市橋本
千石堀城を攻撃したのと同じ3月21日夕刻、羽柴勢は細川藤孝、細川忠興・蒲生氏郷・大谷吉継・稲葉典道・筒井定次・伊藤長弘・佐々行政らは地蔵堂丸山古墳に陣を置き、根来寺の出城である和泉積善寺城を攻めた。
根来寺衆徒が鉄砲などで反撃を試みたため、力攻めが得策でないと判断した秀吉は、貝塚御坊(願泉寺)のト半斎了珍に和睦を仲介させる。
これに根来衆が応じたため、翌22日に積善寺城は開城した。 -
韮山城の戦い [豊臣秀吉の関東平定]
1590年3月29日 ~ 6月24日
静岡県伊豆の国市韮山
LOSE
韮山城から見た城下
山中城の戦いが行われていた3月29日、織田信雄を中心とする長岡(細川)忠興・蒲生氏郷・蜂須賀家政・福島正則ら4万4000余の軍勢は、伊豆韮山城を包囲する。
韮山城には、北条氏政の弟の北条氏規や朝比奈泰栄・江川英吉・富永政家ら率いる3640余の兵が籠城していた。
守将の北条氏規は非開戦派であったが、伊豆国の要で北条氏の所縁深い韮山城を守ることとなった。
まず秀吉から開城交渉を命じられた徳川家康は、小笠原丹波を使者として交渉するも氏規はこれを拒否し徹底抗戦する。
小笠原丹波は包囲するだけの大軍に不甲斐なく思い、帰陣すると勝手に攻撃し、北条方の江川英吉に撃退され討死した。
氏規は3ヶ月近くにわたって籠城したが、徳川家康の斡旋により6月24日についに降伏開城した。
秀吉/a>は蜂須賀家政、福島正則、戸田勝隆、筒井定次らの最小限の兵力だけ残し韮山城の包囲を続けさせ、主力の織田信雄らを小田原城に向かわせた。
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竹ヶ鼻城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月22日
岐阜県羽島市竹鼻町
杉浦重勝
梶川三十郎
花村半左衛門
毛利広盛
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木曾川
8月20日、清須城で岐阜城攻めが決まると、東軍の福島正則・細川忠興・京極高知・黒田長政・加藤嘉明・藤堂高虎・田中吉政・井伊直政・本多忠勝ら16000の兵は木曾川下流から岐阜城に進軍することになった。
このとき岐阜城の織田秀信に呼応して西軍についていた竹ヶ鼻城主の杉浦重勝は、東軍を木曾川の起(おこし)の渡しで待ち受ける。
起の渡しでは、近隣の加賀野井城の主を失った加賀井重望の家臣らや秀信からの援軍梶川三十郎・花村半左衛門や三成からの援軍毛利広盛らと柵を作って鉄砲隊を布陣していた。鉄砲隊がいることや、砂地のため馬で渡河するのが困難だったため、木曾川での対決を避けた東軍は、迂回して下流の加賀野から船や筏で渡河した。
22日午前8時、杉浦重勝らは竹ヶ鼻城に退却し、渡河した東軍は9時に竹ヶ鼻城を急襲した。
福島正則の家臣らに負傷者が出たが、正則と旧知の間柄だった二の丸の梶川・花村・毛利らが勧告を受けて降伏し、二の丸に福島軍を呼び込んだ。
本丸に孤立した重勝はそれでも降伏勧告を拒絶し、残った手勢36名で抵抗を続けた。
正則の養子の福島正之の奮戦により本丸門が破られ、午後4時には重勝自ら打って出て大槍を駆使して奮戦したのち、槍を門に立てかけ、城に火を掛け自刃した。生き残っていた重勝の家臣7名も自刃していたと伝わる。
こののち東軍は、岐阜城に向かう。
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福知山城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年9月23日 ~ 11日
京都府福知山市内記
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岡山口の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月7日
大阪府大阪市生野区勝山北・南一帯
徳川秀忠 (36)前田利常 (22)本多康俊 (46)本多康紀 (36)片桐且元 (59)井伊直孝 (25)藤堂高虎 (59)細川忠興 (52)黒田長政 (47)加藤嘉明 (52)立花宗茂 (48)土井利勝 (42)本多正信 (77)三枝昌貞 (78)本多忠純 (29)WIN
大野治房 (43)LOSE
5月7日、ついに徳川家康は大坂城に総攻撃をかける。
このとき家康は子の秀忠を岡山口の総大将としました。
先鋒は大将を前田利常とし本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。
二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢の計7,500と細川忠興隊。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。
一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明が参陣していたといわれる。徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃を開始。
このとき立花宗茂は秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手の井伊直孝、藤堂高虎勢が動く。
この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。そのため秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするが、本多正信は「大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はない」と諫め止めたという。
黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花宗茂は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。
旗奉行の三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。この間、後詰の大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康・秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。
体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。
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