関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い
1600年7月
西軍の石田三成と東軍の徳川家康
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伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)
1600年7月19日 ~ 8月1日
京都府京都市伏見区桃山町
WIN
LOSE
伏見城
慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は大坂城を出て山城伏見城に移動し、6月18日には守将の鳥居元忠と別れの宴を行った後、上杉討伐のため会津に向かった。
一方、大坂城の前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は、7月17日に家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布する。
これに先立つ7月15日の時点で、伏見城では鳥居元忠らが籠城を始めており、西軍はこれに対する攻撃の準備を行う。
7月19日、西軍の宇喜多秀家の軍勢による攻撃が本格的に始まった。
伏見城は初めは反撃して前田玄以や長束正家の屋敷を焼き払うなどするが、その後は攻撃側からの大量の鉄砲攻撃にさらされ、29日には、石田三成の4万余の大軍で包囲されてしまう。
攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。
しかし、孤立した城は8月1日に落城する。
鳥居元忠は鉄砲頭の鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他にも内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。
この戦いは9月15日に行われる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城は落城するも、少数の兵で西軍の大軍を10日以上も足止めすることで、西軍の美濃・伊勢方面への展開が大きく遅れる原因となった。
また、島津義弘と小早川秀秋は元々東軍に味方するつもりであったが、城側に入城の意思を示したときに拒否され、結局西軍に参加して城攻めに加わっている。
田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)
1600年7月19日 ~ 9月18日
京都府舞鶴市北田辺
前田茂勝
藤掛永勝
川勝秀氏
長谷川宗仁
赤松左兵衛佐
山名主殿頭
早川長敏
WIN
田辺城(舞鶴城)
慶長5年(1600年)6月16日に家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、畿内一帯が軍事的な空白地域になったことを好機と見て、大坂城に入り家康を討伐するために兵を挙げた。
石田三成は大坂城下にいる東軍方の大名の妻子を人質として取り込もうとしたが、その際、長岡(細川)忠興の正室であるガラシャが自死し、失敗に終わった。
その後、西軍は畿内近国の家康側諸勢力を制圧することに取り組んだ。
その中には丹後田辺城も含まれており、丹波福知山城主の小野木重次や亀岡城主の前田茂勝、織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら丹波・但馬の諸大名と、中川秀成・毛利高政・早川長敏・木下延俊・竹中重利ら豊後の諸大名も加わり、1万5000の兵力で田辺城を包囲した。
田辺城を守る側は、忠興が殆どの兵を連れて出ていたため、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎、さらに幽斎の甥である三淵光行が率いる500人ほどしかいなかった。
幸隆と幽斎らは抵抗するも、兵力の差が大きく、援軍の見込みもないため、月末には田辺城は落城寸前となった。
しかし、攻撃側には幽斎を文化人として尊敬する者も多く、積極的な攻撃ができていなかった。
幽斎は当時三条西実枝から古今伝授を受けており、幽斎の弟子である八条宮智仁親王やその兄の後陽成天皇らも、幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。
そのような状況下でついに天皇は、幽斎の弟子である三条西実条と中院通勝、中将烏丸光広を勅使として派遣し、講和を命じた。
勅命を受けた幸隆と幽斎は、9月13日に田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に移ることとなった。
この戦いは西軍の勝利となったが、丹波・但馬の西軍1万5000は田辺城に釘付けにされ、関ヶ原の本戦が行われる9月15日までに間に合わず、西軍の展開に大きな影響を及ぼした。
また、幽斎の抵抗を通して家康の統治権代行の正当性が広く周知されることは、石田三成にとって大きな痛手となった。
大聖寺城の戦い(だいしょうじじょうのたたかい)
1600年8月3日
石川県加賀市大聖寺錦町
浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)
1600年8月9日
石川県小松市北浅井町・南浅井町
福束城の戦い(ふくつかじょうのたたかい)
1600年8月16日 ~ 17日
岐阜県安八郡輪之内町福束
福島正則公像
東軍の尾張清須城主である福島正則の誘いを退けて福束城の丸茂兼利は西軍に加わった。
福島正則は今尾城主の市橋長勝や高須城主の徳永寿昌らに福束城攻めを命じます。
慶長5年(1600年)8月16日、石田三成は大垣城主の伊東盛正・長松城主の武光棟忠ら3000余を援軍として福束城に送ったが、東軍に敗れてしまう。
城主兼利は、城を捨てて大垣城に落ちていった。
高須城の戦い(たかすじょうのたたかい)
1600年8月19日
岐阜県海津市海津町高須
福束城を落とした東軍の尾張清須城主の福島正則は、松ノ木城の徳永寿昌や市橋長勝らに高木盛兼の高須城を攻めさせた。
高木氏では、高須城の高木盛兼をはじめ駒野城主の高木帯刀や津屋城主の高木正家ら一族をあげて西軍についていたからである。
隣地の西軍に属した丸毛兼利の福束城が落城し、高木盛兼は戦力差を感じていたが、不戦敗では面目が立たないため空砲を撃って、空戦を演出した上で城を出て降伏したいと願い、東軍との話合いはまとまった。
慶長5年(1600年)8月19日、東軍1000余は空砲ではなく実弾を撃ってきたので、欺かれたと思い交戦するも城を支えきれず、寿昌の降伏をすすめる使者を受け入れると城を明け渡し、舟で縁者の高木正家が守る津屋城に落ちていった。
関ヶ原の戦い後、徳永寿昌に高須城5万石が与えられている。
竹ヶ鼻城の戦い(たけがはなじょうのたたかい)
1600年8月22日
岐阜県羽島市竹鼻町
杉浦重勝
梶川三十郎
花村半左衛門
毛利広盛
LOSE
木曾川
8月20日、清須城で岐阜城攻めが決まると、東軍の福島正則・細川忠興・京極高知・黒田長政・加藤嘉明・藤堂高虎・田中吉政・井伊直政・本多忠勝ら16000の兵は木曾川下流から岐阜城に進軍することになった。
このとき岐阜城の織田秀信に呼応して西軍についていた竹ヶ鼻城主の杉浦重勝は、東軍を木曾川の起(おこし)の渡しで待ち受ける。
起の渡しでは、近隣の加賀野井城の主を失った加賀井重望の家臣らや秀信からの援軍梶川三十郎・花村半左衛門や三成からの援軍毛利広盛らと柵を作って鉄砲隊を布陣していた。
鉄砲隊がいることや、砂地のため馬で渡河するのが困難だったため、木曾川での対決を避けた東軍は、迂回して下流の加賀野から船や筏で渡河した。
22日午前8時、杉浦重勝らは竹ヶ鼻城に退却し、渡河した東軍は9時に竹ヶ鼻城を急襲した。
福島正則の家臣らに負傷者が出たが、正則と旧知の間柄だった二の丸の梶川・花村・毛利らが勧告を受けて降伏し、二の丸に福島軍を呼び込んだ。
本丸に孤立した重勝はそれでも降伏勧告を拒絶し、残った手勢36名で抵抗を続けた。
正則の養子の福島正之の奮戦により本丸門が破られ、午後4時には重勝自ら打って出て大槍を駆使して奮戦したのち、槍を門に立てかけ、城に火を掛け自刃した。
生き残っていた重勝の家臣7名も自刃していたと伝わる。
こののち東軍は、岐阜城に向かう。
米野の戦い(こめののたたかい)
1600年8月22日
岐阜県羽島郡笠松町・岐南町一帯
慶長5年(1600年)8月20日、清須城で岐阜城攻めが決まったとき、東軍の池田輝政・浅野幸長・堀尾忠氏・山内一豊・有馬豊氏ら1万8000余は、木曾川上流から岐阜城に進軍することとなった。
これに対し、西軍についた岐阜城主の織田秀信は、百々綱家・飯沼長資と木造具康・具政父子ら9000余で東軍を迎え撃つ。
翌22日明方、池田輝政ら率いる東軍は木曽川を渡河し、西軍は鉄砲で応戦する。
昼には羽栗郡米野村で激戦を繰り広げたが、その日の夕方には戦いは終わり、衆寡敵せず西軍は総崩れになった。
西軍の飯沼長資は戦死し、百々綱家ら残兵は岐阜城へ敗走した。
岐阜城の戦い(ぎふじょうのたたかい)
1600年8月23日
岐阜県岐阜市大宮町
岐阜城
松坂城の戦い(まつさかじょうのたたかい)
1600年8月24日
三重県松阪市殿町
伏見城を落とした西軍の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・鍋島勝茂・龍造寺高原・長宗我部盛親ら3万余の軍勢は、伊勢に侵攻し古田重勝が守る松坂城を攻撃する。
このとき伊勢で東軍に属していたのは、重勝のほかは安濃津城の富田信高や上野城の分部光嘉らがいた。
松坂城内は兵や町人を合わせて2000人ほどの寡兵であった。
戦いは8月23日に始まり、24日に総攻撃が行われた。
大軍を前にした重勝は西軍に降伏したが、関ヶ原の戦い後、西軍を引き止めた功により2万石を加増され松坂城5万5000石の大名となっている。
安濃津城の戦い(あのつじょうのたたかい)
1600年8月24日 ~ 25日
三重県津市丸之内
安濃津城(津城)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである安濃津城の戦いが起こります。
富田信高(安濃津城主)、分部光嘉(伊勢上野城主)、古田重勝(松阪城主)、稲葉道通(岩出城主)ら伊勢の東軍の諸将らは徳川家康の会津征伐に従軍していました。
西軍の大軍が伊賀方面から伊勢に進出してきたため、分部は寡兵で自城を守り切れないと判断し、富田の安濃津城にて共同で西軍を迎えることとします。
富田の兵、分部の兵、更に古田重勝からの援軍500を加えても、安濃津城に籠城する東軍は1,700という劣勢でした。
対する毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された西軍は総勢3万にのぼります。
富田、分部らの籠城方は奮戦するも後詰・救援の見込みもないため、8月25日に高野山金剛峯寺の木食応其が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、安濃津城は開城します。
信高、光嘉は共に一身田の専修寺へ退き、剃髪して高野山にのぼった。
しかし、関ヶ原の戦い後、西軍を釘付けした功を認められた信高は、2万石を加増されて安濃津に戻ることができた。
郡上八幡城の戦い(ぐじょうはちまんじょうのたたかい)
1600年9月1日 ~ 4日
岐阜県郡上郡八幡町柳町
郡上八幡城
大津城の戦い(おおつじょうのたたかい)
1600年9月8日 ~ 14日
滋賀県大津市浜大津
大津城
杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)
1600年9月14日
岐阜県大垣市河間町周辺
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)
1600年9月15日
岐阜県不破郡関ケ原町一帯
関ヶ原古戦場
大垣城の戦い(おおがきじょうのたたかい)
1600年9月14日 ~ 23日
岐阜県大垣市郭町
佐和山城の戦い(さわやまじょうのたたかい)
1600年9月17日 ~ 18日
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城から見た琵琶湖
岡山城の戦い(おかやまじょうのたたかい)
1600年9月30日
滋賀県甲賀市水口町水口
岡山城
石田三成と結んでいた五奉行の一人である長束正家は、伊勢に出陣して安濃津城の戦いに加わったあと、関ヶ原本戦では南宮山の東に布陣し徳川家康の後方を狙うも、吉川広家に阻まれて西軍に合流できず戦いに加わることができなかった。
池田輝政や浅野長政らと小競り合いはあったが、兵力はかなり温存できており、石田三成の敗走を知ると、居城の水口岡山城を目指して撤退を試みた。
退却する長束正家隊を東軍で因幡・鹿野城主の亀井茲矩、山名豊国・池田長吉(池田恒興の三男)らが追撃し、水口岡山城へあと少しのところで弟の長束玄春は捕捉され、処刑されてしまった。
水口岡山城を攻撃するには兵力が少なかったため、亀井茲矩・山名豊国・池田長吉らは、長束正家に本領安堵と約束して降伏を促す。
9月30日、この勧告に応じて城を明け渡した正家は城を出たところたちまちに捕縛されてしまい、同様に重臣の嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞ら6名も城に入った池田勢に捕われた。
10月3日、弟の長束直吉とともに近江日野で家臣の奥村左馬助の介錯にて自刃した。享年39。
福知山城の戦い(ふくちやまじょうのたたかい)
1600年9月23日 ~ 11日
京都府福知山市内記
この合戦に登場する武将
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宇喜多秀家 (うきたひでいえ)
豊臣家臣。直家の嫡男。主君・秀吉に寵愛され、五大老の1人となるが、内乱により重臣の大半を失う。関ヶ原合戦では西軍に属し、戦後八丈島へ配流された。
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石田三成 (いしだみつなり)
豊臣家臣。五奉行の1人として国政に参画。主君・秀吉の死後、西軍を指揮して徳川家康と関ヶ原で戦うが、諸将の統制をとれずに敗れ、京都で斬首された。
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前田玄以 (まえだげんい)
豊臣家臣。はじめ延暦寺の僧であったが還俗し、織田信忠に仕える。本能寺の変の際は信忠の嫡男・秀信を守って脱出した。のちに豊臣家五奉行の1人となる。
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本多正信 (ほんだまさのぶ)
徳川家臣。三河一向一揆に身を投じて主家を離反、諸国を放浪したのちに帰参。行政と謀略に優れた手腕を発揮した。主君・家康には「友」と呼ばれたという。
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鈴木重朝 (すずきしげとも)
豊臣家臣。重秀の子。朝鮮派兵に参加した。関ヶ原合戦では西軍に属し、伏見城を守る鳥居元忠を討つ戦功を立てた。戦後、浪人したのち水戸徳川家に仕えた。
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島津義弘 (しまづよしひろ)
島津家17代当主。貴久の次男。伊東・大友両家を粉砕し、島津家を隆盛に導いた家中随一の猛将。朝鮮派兵の際は明の大軍を破り「鬼石曼子」と恐れられた。
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小早川秀秋 (こばやかわひであき)
豊臣家臣。木下家定の子。豊臣秀吉の命により小早川隆景の養子となる。関ヶ原合戦では東軍に寝返り、東軍勝利に大きく貢献したが、その2年後に急死した。
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大谷吉継 (おおたによしつぐ)
豊臣家臣。関ヶ原合戦で西軍に属す。親友・石田三成のために病をおして奮戦、藤堂高虎の軍を撃退するが、寝返った小早川秀秋軍に攻められ敗北、自害した。
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毛利秀元 (もうりひでもと)
穂井田元清の子。従兄弟・輝元の養子となる。豊臣秀吉の朝鮮派兵の際は毛利軍を指揮した。関ヶ原合戦の際は主戦場に赴き「宰相殿の空弁当」の逸話を生む。
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吉川広家 (きっかわひろいえ)
元春の三男。関ヶ原合戦で西軍の敗北を予想し、外交工作によって毛利家の存続をはかる。しかし宗家は防長2国に減封され、家中から裏切り者と非難された。
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小西行長 (こにしゆきなが)
豊臣家臣。堺の豪商・小西隆佐の子。朝鮮派兵の際は先鋒を務めた。関ヶ原合戦では西軍に属して戦うが敗れ、斬首された。熱心なキリスト教信者として有名。
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長宗我部盛親 (ちょうそかべもりちか)
元親の四男。関ヶ原合戦で西軍に属して改易され、京で寺子屋を開く。のち大坂城に入り、藤堂高虎軍を壊滅させるなど活躍したが、大坂落城後、斬首された。
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鍋島勝茂 (なべしまかつしげ)
肥前佐賀藩主。直茂の嫡男。関ヶ原合戦で西軍に属すが、巧みな事後処理で所領を安堵される。島原の乱の際は、多大な犠牲を払いながらも乱鎮圧に貢献した。
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長束正家 (なつかまさいえ)
丹羽家臣。主家没落後は豊臣家に仕え、五奉行の1人となる。算術に通じ、主家の賦課収納の財政処理を担当した。関ヶ原合戦では西軍に属し、戦後自害した。
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鳥居元忠 (とりいもとただ)
徳川家臣。関ヶ原合戦の際に主君・家康の命で伏見城に籠城する。13日間の攻防戦の末、城兵とともに玉砕した。その忠節は「三河武士の鑑」と称賛された。
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小野木重次 (おのぎしげつぐ)
豊臣家臣。小田原征伐などに従軍し、丹波福智山4万石を領す。関ヶ原合戦では西軍に属し、田辺城を落城させるが、西軍主力が敗北したため開城、自害した。
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織田信包 (おだのぶかね)
信秀の四男。越前攻めや石山本願寺攻めに参戦した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の子・秀頼の傅役を務めた。娘は秀吉の側室となり、寵愛された。
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小出吉政 (こいでよしまさ)
豊臣家臣。秀政の嫡男。但馬出石6万石を領す。関ヶ原合戦では西軍に属し、丹後田辺城攻撃に参加した。弟・秀家が東軍に属したため、本領を安堵された。
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杉原長房 (すぎはらながふさ)
豊臣家臣。但馬豊岡3万石を領す。関ヶ原合戦では西軍に属し、丹後田辺城攻撃に参加した。妻の父が浅野長政であった関係もあり、戦後所得は安堵された。
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谷衛友 (たにもりとも)
豊臣家臣。小田原征伐など主な戦いに従軍した。関ヶ原合戦では、西軍に属して小野木公郷とともに行動するが、東軍に寝返り、本領を安堵された。
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中川秀成 (なかがわひでなり)
豊臣家臣。清秀の次男。兄・秀政の死により家督を継ぎ、豊後岡7万石を領す。朝鮮派兵などに従軍した。関ヶ原合戦では東軍に属し、太田一吉の軍を破った。
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毛利高政 (もうりたかまさ)
豊臣家臣。備中高松城攻めの際に毛利家の人質となり、以後、森姓を毛利姓に改めた。関ヶ原合戦では西軍に属したが、戦後、豊後佐伯2万石を与えられた。
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木下延俊 (きのしたのぶとし)
豊臣家臣。家定の次男。姫路城代を務め関ヶ原合戦で西軍の弟・小早川秀秋の入城を拒んだ。『慶長日記』は彼の1613年の1年間を記した資料である。
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竹中重利 (たけなかしげとし)
竹中半兵衛の従兄弟。豊臣秀吉の馬廻。関ヶ原合戦では黒田官兵衛に誘われ東軍につく。戦後大分城を与えられ、港や城下を整備。現在の大分の基礎を作った。
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細川藤孝 (ほそかわふじたか)
足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の擁立に貢献した。その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。古今伝授を受けた文化人としても著名。
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ガラシャ (がらしゃ)
明智光秀の三女。名は玉子とも伝わる。細川忠興の妻で、敬虔なキリスト教徒。関ヶ原合戦の直前に西軍の人質になることを拒み、家臣の手で最期を遂げる。
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三淵光行 (みつぶちみつゆき)
細川藤孝の甥。父・藤英の自害後、藤孝に養育される。関ヶ原合戦に際し、丹後田辺城に籠もり、西軍と戦う。功績を徳川家康に賞され、近江に所領を得た。
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前田利長 (まえだとしなが)
利家の嫡男。家督を相続後、謀叛の兆しありとの噂が流れるが、母・芳春院を人質に出して討伐を免れた。関ヶ原合戦で東軍に属し、加賀100万石を領した。
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山口宗永 (やまぐちむねなが)
豊臣家臣。地方支配にすぐれたという。一時小早川秀秋の補佐役を務めるが、不和になり出奔した。関ヶ原合戦では西軍に属し、前田利長との戦いで戦死した。
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丹羽長重 (にわながしげ)
豊臣家臣。長秀の嫡男。越前北庄120万石を継ぐが、次第に減封され、関ヶ原合戦後は所領を失う。大坂の陣に従軍して活躍、陸奥白河10万石を領した。
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徳永寿昌 (とくながながまさ)
柴田家臣。賤ヶ岳合戦の際、主君・勝豊とともに豊臣秀吉の傘下に入る。秀吉の死後、朝鮮に渡って全軍に撤退命令を伝えた。関ヶ原合戦では東軍に属した。
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市橋長勝 (いちはしながかつ)
豊臣家臣。九州征伐、小田原征伐に参陣する。関ヶ原合戦では東軍に味方して、大坂の陣にも従軍。その功によって加増され越後三条4万1千石余を領した。
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伊東盛正 (いとうもりまさ)
豊臣家臣。父・盛景の死後、家督を相続し、美濃大垣3万4千石を領す。関ヶ原合戦では西軍に属し、戦後、所領没収の上追放された。のち前田利常に仕えた。
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福島正則 (ふくしままさのり)
豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の筆頭。関ヶ原合戦では東軍の主力として奮戦し、安芸広島49万石を得る。しかし、のちに居城・広島城無断修築の罪で改易された。
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細川忠興 (ほそかわただおき)
織田家臣。藤孝の子。明智光秀の娘を娶るが、本能寺の変後は豊臣家に属した。関ヶ原合戦では東軍に属し、豊前中津39万6千石を領した。利休七哲の1人。
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京極高知 (きょうごくたかとも)
豊臣家臣。高吉の次男。信濃飯田10万石を領し、城下町の整備に尽力した。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、高野山に逃れた兄に徳川家への仕官を説いた。
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黒田長政 (くろだながまさ)
豊臣家臣。官兵衛孝高の嫡男。九州征伐などで活躍した。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後筑前福岡52万石を領す。以後は徳川幕府への恭順の姿勢を貫いた。
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加藤嘉明 (かとうよしあきら)
豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。「沈勇の士」と評された。豊臣水軍の主力として各地の合戦で活躍。関ヶ原合戦では東軍に属し、伊予松山20万石を領した。
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筒井定慶 (つついじょうけい)
豊臣家臣。福須美順弘の子。叔父・順慶の養子となる。従兄弟・定次の改易後、家督を継いだ。大坂夏の陣で城方に居城を落とされて逃亡し、のちに自害した。
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田中吉政 (たなかよしまさ)
豊臣家臣。はじめ宮部継潤に属す。豊臣秀次の家老を務め三河岡崎5万石を領した。関ヶ原合戦では東軍に属し石田三成を捕らえ、筑後柳川32万石を領した。
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井伊直政 (いいなおまさ)
徳川家臣。徳川四天王の1人。軍装を赤で統一した軍兵は「赤鬼」と恐れられ、常に先鋒を争った。関ヶ原合戦では島津軍を追撃し、島津豊久を討ち取った。
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本多忠勝 (ほんだただかつ)
徳川家臣。徳川四天王の1人。「家康に過ぎたるもの」と評された家中随一の猛将。名槍・蜻蛉切を手に57度の合戦に参陣し、傷一つ負わなかったという。
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池田輝政 (いけだてるまさ)
織田家臣。恒興の次男。本能寺の変後は豊臣家に属し、各地で活躍。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、播磨姫路52万石を領して「姫路宰相」と呼ばれた。
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浅野幸長 (あさのよしなが)
豊臣家臣。長政の嫡男。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、紀伊和歌山37万石を領する。のちに加藤清正と協力し、徳川家康と豊臣秀頼の会見を実現させた。
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山内一豊 (やまうちかずとよ)
織田家臣。妻・千代の内助の功が著名。本能寺の変後は豊臣秀吉に属す。関ヶ原合戦の際は居城・掛川城を徳川家康に献上し、戦後、土佐高知24万石を得た。
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有馬豊氏 (ありまとようじ)
豊臣家臣。則頼の嫡男。秀吉の死後は徳川家康に属し、関ヶ原合戦、大坂の両陣で戦功を立て、筑後久留米21万石を領した。島原の乱の鎮圧にも功を立てた。
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織田秀信 (おだひでのぶ)
信忠の嫡男。本能寺の変後、羽柴秀吉に擁立されて3歳で織田家を継ぐが、実権は秀吉に奪われた。関ヶ原合戦で西軍に加担して敗北し、高野山で出家した。
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百々安信 (どどやすのぶ)
豊臣家臣。山崎合戦などに従軍した。のち織田秀信の家老となる。関ヶ原合戦では秀信に東軍加担を説くが失敗、西軍に属し敗れた。戦後は山内一豊に仕えた。
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木造具康 (こづくりともやす)
北畠家臣。木造城主。俊茂の子。木造家は北畠顕俊(伊勢国司初代・顕能の子)を祖とする北畠家庶流。他の一門と異なり、宗家と同等の官位に任官していた。
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木造具政 (こづくりともまさ)
北畠家臣。北畠晴具の子。木造家を継いだ。兄・具教に背いて織田信長の軍に降る。その後は織田信雄に属し、小牧長久手合戦では蒲生氏郷軍と戦うが敗れた。
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安国寺恵瓊 (あんこくじえけい)
毛利家臣。武田信重の子。武田家滅亡時に逃れ出家。外交僧を務めた。織田信長と豊臣秀吉の将来を予言した事で著名。関ヶ原合戦で西軍に属し、斬首された。
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古田重勝 (ふるたしげかつ)
豊臣家臣。父・重則が播磨三木城攻めで戦死した後、家督を継ぐ。伊勢松坂3万5千石を領した。関ヶ原合戦では東軍に属して戦い、戦後2万石を加増された。
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川口宗勝 (かわぐちむねかつ)
織田家臣。本能寺の変後は信雄に仕え、その没落後は秀吉に従った。関ヶ原合戦では西軍に属し、敗戦後は伊達政宗預かりとなる。のち許されて徳川家に仕官。
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富田信高 (とみたのぶたか)
豊臣家臣。関ヶ原合戦では東軍に属し、伊勢安濃津城に籠城するが敗れ、高野山に登る。戦後、召し出されて伊予宇和島12万石を領すが、のちに改易された。
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分部光嘉 (わけべみつよし)
長野家臣。細野藤光の次男。織田信長の伊勢侵攻軍に対して恭順を主張し、長野家を継いだ織田信包に属した。のちに豊臣秀吉に仕え、伊勢上野城主となった。
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稲葉道通 (いなばみちとお)
豊臣家臣。重通の五男。兄・牧村利貞の死後、その遺子が幼少であったため、伊勢岩手2万石余を相続した。関ヶ原合戦では東軍に属し、九鬼嘉隆と戦った。
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遠藤慶隆 (えんどうよしたか)
美濃の豪族。郡上八幡城主。豊臣秀吉に仕える。小牧長久手合戦の際、織田家への内通疑惑により減封された。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後旧領に復した。
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京極高次 (きょうごくたかつぐ)
豊臣家臣。高吉の子。妻と妹の縁故により豊臣秀吉に仕え、近江大津6万石を領す。関ヶ原合戦では東軍に属し居城に籠城、西軍の一部を大津に足止めさせた。
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島左近 (しまさこん)
筒井家臣。のち浪人し、石田三成に高禄で召し抱えられる。「三成に過ぎたるもの」と謳われた名将。関ヶ原合戦で縦横無尽の活躍をし、壮絶な戦死を遂げた。
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徳川家康 (とくがわいえやす)
江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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水野勝成 (みずのかつなり)
徳川家臣。遠江高天神城攻めなど多くの合戦に従軍した。一時は豊臣秀吉などに仕えたが、のちに帰参し、備中福山10万石を領す。島原の乱にも参陣した。
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福原長堯 (ふくはらながたか)
豊臣家臣。則尚の弟。石田三成の妹婿。朝鮮派兵の際は奉行として渡海した。関ヶ原合戦では西軍に属し、大垣城を守った。主力の敗北後に開城し、自害した。
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石田正継 (いしだまさつぐ)
三成の父。文武に優れ、和漢に通じる才人であったと伝わる。佐和山城代を務めて三成の補佐に当たるが、関ヶ原の戦い後、東軍に攻められ、落城と共に自刃。
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石田正澄 (いしだまさずみ)
豊臣家臣。関ヶ原合戦では父・正継とともに弟・三成の居城・佐和山城を守備する。西軍の敗北後、小早川秀秋らの攻撃を受け落城、一族とともに自害した。
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池田長吉 (いけだながよし)
恒興の三男。輝政の弟。秀吉の養子として豊臣家の天下統一事業に寄与。関ヶ原合戦では東軍に属して武功を挙げ、家康より加増を受けて因幡鳥取藩主となる。
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亀井茲矩 (かめいこれのり)
尼子家臣。主家滅亡後は豊臣家に仕え、鹿野城主となる。干拓や用水路の建設など、領内の産業振興に努めた。また朱印状を得て、シャムに貿易船を派遣した。
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山名豊国 (やまなとよくに)
因幡守護。鳥取城主。豊定の三男。武田高信を討ち居城を奪回する。羽柴秀吉に属すが、毛利家に通じた家臣たちに追放された。のち、秀吉の御咄衆を務めた。