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この人誰?

石田重成

関ヶ原の戦い

1600年7月

西軍の石田三成と東軍の徳川家康

目次[非表示]

伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)

1600年7月19日 ~ 8月1日

京都府京都市伏見区桃山町

内藤家長

内藤元長

松平家忠

上林竹庵

佐野綱正

松平近正

安藤定次

LOSE

伏見城

伏見城

慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は大坂城を出て山城伏見城に移動し、6月18日には守将の鳥居元忠と別れの宴を行った後、上杉討伐のため会津に向かった。

一方、大坂城の前田玄以増田長盛長束正家の三奉行は、7月17日に家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布する。

これに先立つ7月15日の時点で、伏見城では鳥居元忠らが籠城を始めており、西軍はこれに対する攻撃の準備を行う。

7月19日、西軍の宇喜多秀家の軍勢による攻撃が本格的に始まった。

伏見城は初めは反撃して前田玄以長束正家の屋敷を焼き払うなどするが、その後は攻撃側からの大量の鉄砲攻撃にさらされ、29日には、石田三成の4万余の大軍で包囲されてしまう。

攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。

しかし、孤立した城は8月1日に落城する。

鳥居元忠は鉄砲頭の鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他にも内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。

この戦いは9月15日に行われる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城は落城するも、少数の兵で西軍の大軍を10日以上も足止めすることで、西軍の美濃・伊勢方面への展開が大きく遅れる原因となった。

また、島津義弘小早川秀秋は元々東軍に味方するつもりであったが、城側に入城の意思を示したときに拒否され、結局西軍に参加して城攻めに加わっている。

田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)

1600年7月19日 ~ 9月18日

京都府舞鶴市北田辺

前田茂勝

藤掛永勝

川勝秀氏

長谷川宗仁

赤松左兵衛佐

山名主殿頭

早川長敏

WIN

LOSE

田辺城(舞鶴城)

田辺城(舞鶴城)

慶長5年(1600年)6月16日に家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、畿内一帯が軍事的な空白地域になったことを好機と見て、大坂城に入り家康を討伐するために兵を挙げた。

石田三成は大坂城下にいる東軍方の大名の妻子を人質として取り込もうとしたが、その際、長岡(細川)忠興の正室であるガラシャが自死し、失敗に終わった。

その後、西軍は畿内近国の家康側諸勢力を制圧することに取り組んだ。

その中には丹後田辺城も含まれており、丹波福知山城主の小野木重次や亀岡城主の前田茂勝、織田信包小出吉政杉原長房谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら丹波・但馬の諸大名と、中川秀成毛利高政・早川長敏・木下延俊竹中重利ら豊後の諸大名も加わり、1万5000の兵力で田辺城を包囲した。

田辺城を守る側は、忠興が殆どの兵を連れて出ていたため、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎、さらに幽斎の甥である三淵光行が率いる500人ほどしかいなかった。

幸隆と幽斎らは抵抗するも、兵力の差が大きく、援軍の見込みもないため、月末には田辺城は落城寸前となった。

しかし、攻撃側には幽斎を文化人として尊敬する者も多く、積極的な攻撃ができていなかった。

幽斎は当時三条西実枝から古今伝授を受けており、幽斎の弟子である八条宮智仁親王やその兄の後陽成天皇らも、幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。

そのような状況下でついに天皇は、幽斎の弟子である三条西実条と中院通勝、中将烏丸光広を勅使として派遣し、講和を命じた。

勅命を受けた幸隆と幽斎は、9月13日に田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に移ることとなった。

この戦いは西軍の勝利となったが、丹波・但馬の西軍1万5000は田辺城に釘付けにされ、関ヶ原の本戦が行われる9月15日までに間に合わず、西軍の展開に大きな影響を及ぼした。

また、幽斎の抵抗を通して家康の統治権代行の正当性が広く周知されることは、石田三成にとって大きな痛手となった。

大聖寺城の戦い(だいしょうじじょうのたたかい)

1600年8月3日

石川県加賀市大聖寺錦町

浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)

1600年8月9日

石川県小松市北浅井町・南浅井町

福束城の戦い(ふくつかじょうのたたかい)

1600年8月16日 ~ 17日

岐阜県安八郡輪之内町福束

丸茂兼利

武光棟忠

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福島正則公像

福島正則公像

東軍の尾張清須城主である福島正則の誘いを退けて福束城の丸茂兼利は西軍に加わった。

福島正則は今尾城主の市橋長勝や高須城主の徳永寿昌らに福束城攻めを命じます。

慶長5年(1600年)8月16日、石田三成は大垣城主の伊東盛正・長松城主の武光棟忠ら3000余を援軍として福束城に送ったが、東軍に敗れてしまう。

城主兼利は、城を捨てて大垣城に落ちていった。

高須城の戦い(たかすじょうのたたかい)

1600年8月19日

岐阜県海津市海津町高須

高木盛兼

LOSE

福束城を落とした東軍の尾張清須城主の福島正則は、松ノ木城の徳永寿昌市橋長勝らに高木盛兼の高須城を攻めさせた。
高木氏では、高須城の高木盛兼をはじめ駒野城主の高木帯刀や津屋城主の高木正家ら一族をあげて西軍についていたからである。

隣地の西軍に属した丸毛兼利の福束城が落城し、高木盛兼は戦力差を感じていたが、不戦敗では面目が立たないため空砲を撃って、空戦を演出した上で城を出て降伏したいと願い、東軍との話合いはまとまった。

慶長5年(1600年)8月19日、東軍1000余は空砲ではなく実弾を撃ってきたので、欺かれたと思い交戦するも城を支えきれず、寿昌の降伏をすすめる使者を受け入れると城を明け渡し、舟で縁者の高木正家が守る津屋城に落ちていった。

関ヶ原の戦い後、徳永寿昌に高須城5万石が与えられている。

竹ヶ鼻城の戦い(たけがはなじょうのたたかい)

1600年8月22日

岐阜県羽島市竹鼻町

杉浦重勝

梶川三十郎

花村半左衛門

毛利広盛

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木曾川

木曾川

8月20日、清須城で岐阜城攻めが決まると、東軍の福島正則細川忠興京極高知黒田長政加藤嘉明藤堂高虎田中吉政井伊直政本多忠勝ら16000の兵は木曾川下流から岐阜城に進軍することになった。

このとき岐阜城の織田秀信に呼応して西軍についていた竹ヶ鼻城主の杉浦重勝は、東軍を木曾川の起(おこし)の渡しで待ち受ける。
起の渡しでは、近隣の加賀野井城の主を失った加賀井重望の家臣らや秀信からの援軍梶川三十郎・花村半左衛門や三成からの援軍毛利広盛らと柵を作って鉄砲隊を布陣していた。

鉄砲隊がいることや、砂地のため馬で渡河するのが困難だったため、木曾川での対決を避けた東軍は、迂回して下流の加賀野から船や筏で渡河した。

22日午前8時、杉浦重勝らは竹ヶ鼻城に退却し、渡河した東軍は9時に竹ヶ鼻城を急襲した。

福島正則の家臣らに負傷者が出たが、正則と旧知の間柄だった二の丸の梶川・花村・毛利らが勧告を受けて降伏し、二の丸に福島軍を呼び込んだ。
本丸に孤立した重勝はそれでも降伏勧告を拒絶し、残った手勢36名で抵抗を続けた。
正則の養子の福島正之の奮戦により本丸門が破られ、午後4時には重勝自ら打って出て大槍を駆使して奮戦したのち、槍を門に立てかけ、城に火を掛け自刃した。

生き残っていた重勝の家臣7名も自刃していたと伝わる。

こののち東軍は、岐阜城に向かう。

米野の戦い(こめののたたかい)

1600年8月22日

岐阜県羽島郡笠松町・岐南町一帯

慶長5年(1600年)8月20日、清須城で岐阜城攻めが決まったとき、東軍の池田輝政浅野幸長・堀尾忠氏・山内一豊有馬豊氏ら1万8000余は、木曾川上流から岐阜城に進軍することとなった。

これに対し、西軍についた岐阜城主の織田秀信は、百々綱家・飯沼長資と木造具康具政父子ら9000余で東軍を迎え撃つ。

翌22日明方、池田輝政ら率いる東軍は木曽川を渡河し、西軍は鉄砲で応戦する。

昼には羽栗郡米野村で激戦を繰り広げたが、その日の夕方には戦いは終わり、衆寡敵せず西軍は総崩れになった。

西軍の飯沼長資は戦死し、百々綱家ら残兵は岐阜城へ敗走した。

岐阜城の戦い(ぎふじょうのたたかい)

1600年8月23日

岐阜県岐阜市大宮町

岐阜城

岐阜城

松坂城の戦い(まつさかじょうのたたかい)

1600年8月24日

三重県松阪市殿町

伏見城を落とした西軍の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家鍋島勝茂・龍造寺高原・長宗我部盛親ら3万余の軍勢は、伊勢に侵攻し古田重勝が守る松坂城を攻撃する。

このとき伊勢で東軍に属していたのは、重勝のほかは安濃津城の富田信高や上野城の分部光嘉らがいた。

松坂城内は兵や町人を合わせて2000人ほどの寡兵であった。

戦いは8月23日に始まり、24日に総攻撃が行われた。

大軍を前にした重勝は西軍に降伏したが、関ヶ原の戦い後、西軍を引き止めた功により2万石を加増され松坂城5万5000石の大名となっている。

安濃津城の戦い(あのつじょうのたたかい)

1600年8月24日 ~ 25日

三重県津市丸之内

安濃津城(津城)

安濃津城(津城)


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである安濃津城の戦いが起こります。
富田信高(安濃津城主)、分部光嘉(伊勢上野城主)、古田重勝(松阪城主)、稲葉道通(岩出城主)ら伊勢の東軍の諸将らは徳川家康の会津征伐に従軍していました。

西軍の大軍が伊賀方面から伊勢に進出してきたため、分部は寡兵で自城を守り切れないと判断し、富田の安濃津城にて共同で西軍を迎えることとします。

富田の兵、分部の兵、更に古田重勝からの援軍500を加えても、安濃津城に籠城する東軍は1,700という劣勢でした。
対する毛利秀元長束正家安国寺恵瓊鍋島勝茂長宗我部盛親らで構成された西軍は総勢3万にのぼります。

富田分部らの籠城方は奮戦するも後詰・救援の見込みもないため、8月25日に高野山金剛峯寺の木食応其が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、安濃津城は開城します。
信高光嘉は共に一身田の専修寺へ退き、剃髪して高野山にのぼった。
しかし、関ヶ原の戦い後、西軍を釘付けした功を認められた信高は、2万石を加増されて安濃津に戻ることができた。

郡上八幡城の戦い(ぐじょうはちまんじょうのたたかい)

1600年9月1日 ~ 4日

岐阜県郡上郡八幡町柳町

稲葉通孝

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郡上八幡城

郡上八幡城

大津城の戦い(おおつじょうのたたかい)

1600年9月8日 ~ 14日

滋賀県大津市浜大津

末次元康

WIN

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大津城

大津城

杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)

1600年9月14日

岐阜県大垣市河間町周辺

WIN

中村一栄

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関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)

1600年9月15日

岐阜県不破郡関ケ原町一帯

関ヶ原古戦場

大垣城の戦い(おおがきじょうのたたかい)

1600年9月14日 ~ 23日

岐阜県大垣市郭町

佐和山城の戦い(さわやまじょうのたたかい)

1600年9月17日 ~ 18日

滋賀県彦根市佐和山町

佐和山城から見た琵琶湖

岡山城の戦い(おかやまじょうのたたかい)

1600年9月30日

滋賀県甲賀市水口町水口

長束玄春

嶺三郎兵衛

家所帯刀

伏兎彦之丞

長束直吉

奥村左馬助

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岡山城

石田三成と結んでいた五奉行の一人である長束正家は、伊勢に出陣して安濃津城の戦いに加わったあと、関ヶ原本戦では南宮山の東に布陣し徳川家康の後方を狙うも、吉川広家に阻まれて西軍に合流できず戦いに加わることができなかった。

池田輝政浅野長政らと小競り合いはあったが、兵力はかなり温存できており、石田三成の敗走を知ると、居城の水口岡山城を目指して撤退を試みた。

退却する長束正家隊を東軍で因幡・鹿野城主の亀井茲矩山名豊国池田長吉(池田恒興の三男)らが追撃し、水口岡山城へあと少しのところで弟の長束玄春は捕捉され、処刑されてしまった。

水口岡山城を攻撃するには兵力が少なかったため、亀井茲矩山名豊国池田長吉らは、長束正家に本領安堵と約束して降伏を促す。

9月30日、この勧告に応じて城を明け渡した正家は城を出たところたちまちに捕縛されてしまい、同様に重臣の嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞ら6名も城に入った池田勢に捕われた。

10月3日、弟の長束直吉とともに近江日野で家臣の奥村左馬助の介錯にて自刃した。享年39。

福知山城の戦い(ふくちやまじょうのたたかい)

1600年9月23日 ~ 11日

京都府福知山市内記

小野木重勝

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬