武将名鑑【信長の野望 新生】
明智光秀(あけちみつひで)
明智光秀(あけちみつひで)
明智光秀 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
96 (6 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
84 (86 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
93 (19 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
97 (4 位) | ||||
合計 | 370 (7 位)2201人中 |
明智光秀 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 惟任光秀 | ||||
幼名 | 明智彦太郎 | ||||
仮名・通称 | 十兵衛 惟任日向守 | ||||
渾名 | キンカ頭 | ||||
法号・戒名 | 鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門 輝雲道琇禅定門 秀岳院宗光禅定門 前日洲条鉄光秀居士 長存寺殿明窓玄智大禅定門 | ||||
父 | 明智光綱 | ||||
養父 | 明智光安 | ||||
母 | お牧の方(武田信豊の娘) | ||||
配偶者・正室 | 妻木煕子 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1528年 | 織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。 | |||||||||
死亡年 | 1582年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
連歌百韻 | 城下施設、政策、具申等の期間短縮。全具申が可能 | ||||||||||
能弁 | 外交取次次の信用上昇増加 | ||||||||||
砲術 | 自部隊の鉄砲LVが上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
時は今 | 自部隊の攻撃上昇 敵部隊の防御低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 19 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 26 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 33 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 43 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 55 |
明智光秀が登場する合戦
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本圀寺の変 [織田信長と三好三人衆]
1569年1月5日 ~ 6日
京都府京都市下京区堀川六条
-
天筒山城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年4月25日
福井県敦賀市天筒町
元亀元年(1570年)4月25日、越前に入った織田信長は敦賀の妙顕寺に着陣すると、金ヶ崎城とその支城である天筒山城の攻略にとりかかった。
天筒山城は要害の地で、朝倉義景家臣の寺田采女正ら1500余の兵が籠城していたが、柴田勝家ら織田勢は樫曲に回り込み、湿地帯から攻め上がることで城内侵入した。
正攻法の突撃となったので、信長軍は森可成の嫡男・可隆が討死するなど多大の犠牲が出たものの、当日に落城した。
朝倉方の城兵は1300余が討死しており、ほとんど全滅だった。
天筒山城を落とした織田勢は、勢いに乗じて金ヶ崎城に向かった。
-
金ヶ崎城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年4月26日
福井県敦賀市金ヶ崎町
-
延暦寺の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1571年9月12日
滋賀県大津市坂本本町
比叡山延暦寺阿弥陀堂
-
石山砦の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年2月24日 ~ 26日
滋賀県大津市石山寺
元亀4年(1576年)2月、織田信長に反旗を翻した足利義昭は、近江瀬田城主・山岡景隆の弟で園城寺(三井寺) 光浄院の山岡景友(暹慶)に信長の入京を阻止するよう命じます。
そのため山岡景友は急いで石山と今堅田に砦を築いた。これに対し2月20日、信長は家臣の柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆らを派遣し、24日に織田軍は勢田から琵琶湖を渡り石山砦を攻撃する。
石山砦には山岡景友が率いる伊賀衆・甲賀衆が守備していたが、未完成の砦での防戦を断念した山岡景友は26日に降伏して退去した。
-
今堅田砦の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年2月29日
滋賀県大津市今堅田
元亀4年(1573年)2月26日に石山砦を落とした柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆ら織田勢は、柴田勝家を守りに残すと今堅田砦に向かった。
2月29日、織田軍は湖上に面した今堅田城を攻撃した。
織田勢は二手に分かれており、丹羽長秀・蜂屋頼隆らは陸路を北上して陸上から攻撃を加えており、水路を北上した明智光秀らは午前8時ごろ湖上から攻撃を加えている。
足利義昭についた渡辺昌・磯谷久次らが籠城して防戦に努めたが、正午ごろに明智隊が城に突入し落城。
この戦いで義昭側は死者500人、負傷者1,000余人を出したとされ、一方で光秀は家臣18人がこの戦いで戦死している。
光秀は今堅田を平定後、そのまま坂本城に入り、他の三将は帰還した。
-
明智城の戦い [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1574年2月5日
岐阜県恵那市明智町
天正2年(1574年)2月、武田勝頼は織田信長を圧迫するため東濃に15000余の軍勢で出陣し、遠山氏の重要な拠点であった明智城を攻撃する。
このころ明智城は、元亀3年 (1572年) の上村の戦いで城主の遠山景行とその子の景玄が敗死していたため、景玄の子の遠山一行と叔父の遠山友治ら500の兵が守っていた。
明智城の重要性を理解していた織田信長は、2月5日に嫡男の信忠、明智光秀や美濃の諸将(池田・蜂屋・河尻・森・塚本)など尾張・美濃の軍勢3万の兵を率いて出陣したが、武田方の信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったという。
織田軍は明智城を赴援できず、明智城の開城をみて2月24日に岐阜に帰陣した。
-
龍門寺城の戦い [織田信長の越前一向一揆鎮圧]
1575年8月15日
福井県越前市本町
木ノ芽峠城や鉢伏城の戦いに敗れて越前府中に敗走した一向一揆勢は、すでに海路から府中に入っていた羽柴秀吉・明智光秀らに討ち取られてしまう。
8月15日の夜、織田勢は一揆勢の大将・三宅権之丞が守る府中の龍門寺城を奇襲して占拠すると、ここを信長の本陣とした。
こののち数万人の一向一揆勢が虐殺されたといい、信長自身が書状において「府中は死がい計にて、一円あき所なく」と報告している。 -
黒井城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1575年11月 ~ 1576年1月15日
兵庫県丹波市春日町黒井
黒井城
-
天王寺の戦い [石山合戦]
1576年5月3日 ~ 7日
大阪府大阪市天王寺区四天王寺
-
孝子峠の戦い [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日
大阪府泉南郡岬町
雑賀衆
LOSE
天正五年(1577年)2月22日、志立に到着した織田軍は、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していった。
浜手を進む織田勢には、織田信長の子である織田信忠・北畠 (織田) 信雄・神戸(織田)信孝のほか、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・長岡 (細川)藤孝・筒井順慶らが主力として加わり、和泉山脈を横切る孝子峠に向かう。
この孝子峠は、和泉と紀伊との国境に位置している重要な地点であったため、雑賀衆はここで織田勢を迎え撃とうとしたのである。
しかし織田勢の主力に撃破された雑賀衆は退き、その勢いに乗った織田勢は峠を下って中野城に向かった。
-
平井城の戦い [織田信長の紀伊平定]
1577年3月1日
和歌山県和歌山市平井
天正5年3月1日、浜手を進んだ織田勢のうち、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・長岡藤孝・筒井順慶らの孝子峠からの3万の軍勢は、中野城を1日で攻略した後、雑賀衆を率いていた鈴木重秀の居城である平井城を攻撃した。
この平井城は大軍を迎え撃つには適さない平城であり、重秀自身はすでに退去していたのだろう。
織田軍は、圧倒的な勝利ではなかったようだ。
-
片岡城の戦い [松永久秀の謀反]
1577年10月1日
奈良県北葛城郡上牧町
天正5年(1577年)10月1日、織田信忠率いる大軍は信貴山近くの法隆寺に布陣する。
この日先陣の長岡(細川)藤孝・明智光秀・筒井順慶ら5000余の兵で信貴山城の支城の片岡城を攻撃した。
片岡城はもともと筒井順慶と結ぶ片岡春利の居城であったが、永禄12年(1569年)、松永久秀に奪取されていたものである。
片岡城は1000兵で守っていたが織田勢の猛攻により海老名勝正(友清)・森秀光(正友)以下150余人が討死し落城した。
10月3日、信長に「9月23日手取川の戦いで勝利した上杉謙信であったが七尾城から進軍が止まった」との報告が柴田勝家から直接安土城に入った。
信長は謙信はこれ以上進軍することはないと判断し、総大将に嫡男の織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀など加賀に出陣していた部隊を信貴山城攻城の援軍として送り込み4万の大軍となっている。 -
亀山城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1577年10月16日 ~ 19日
京都府亀岡市内丸町
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八上城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1578年3月14日 ~ 1579年6月2日
兵庫県篠山市八上上
-
細工所城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1578年4月10日 ~ 26日
京都府南丹市園部町小桜町
織田信長の命で丹波八上城を包囲していた明智光秀らは、本願寺の戦いのため摂津に転戦しその後また丹波に戻ると八上城を包囲し、周りの支城を攻撃する。
天正6年(1578年)4月10日から明智光秀・滝川一益・丹羽長秀らは、波多野氏の属城であり荒木氏綱が守る丹波細工所城を包囲した。
激戦の末に水の手を絶たれた荒木氏綱らは城を捨てて退去する。
こののち細工所城には光秀の家臣が入った。
-
神吉城の戦い [織田信長の播磨・但馬平定]
1578年6月27日 ~ 7月20日
兵庫県加古川市東神吉町
天正6年(1578年)4月、三木城攻めが中断に追い込まれると、織田信長は嫡男の織田信忠(すでに家督を譲られており織田家当主であった)を総大将とする援軍を播磨に送り込みます。
織田軍には明智光秀、滝川一益、佐久間信盛など名だたる武将がいたようです。6月27日、信忠は三木城の最も有力な支城である神吉城を包囲します。
織田軍3万に対し神吉城はおよそ2,000ほどの寡兵でした。7月15日に織田軍が総攻撃を始めます。
7月20日、しばらく耐えるも近親者の内通であえなく神吉城は落城し城主・神吉頼定が討死します。
これにより三木城は、瀬戸内海からの糧道を断たれることになったのである。 -
黒井城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1579年7月 ~ 8月9日
兵庫県丹波市春日町黒井
黒井城
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嶺山城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1579年7月 ~ 8月20日
京都府京丹後市峰山町赤坂
天正7年(1579年)6月に明智光秀が波多野秀治の居城八上城を落としと、波多野氏の一族や遺臣は丹後に逃れ、吉原西雲の居城である嶺山城に籠もった。
そのため光秀は翌7月に細川藤孝・忠興父子らに嶺山城を包囲させておき、黒井城が落城すると自ら主力を率いて丹後に向かった。
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宇津城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1579年7月19日
京都府京都市右京区京北下宇津町
天正7年(1579年)7月、明智光秀は波多野氏と組み織田家に抵抗を続ける丹波宇津城主・宇津頼重(長成)を攻める。
織田勢の猛攻を受けた頼重は、19日に城を捨てて逃亡した。
光秀は逃亡した宇津城兵を追撃させたが、頼重は若狭方面に逃げたとされ行方知れずとなる。宇津頼重が押領していた丹波国山国荘の直務支配が回復したとして、朝廷から明智光秀に鎧や馬などの恩賞と織田信長に御礼の勅使が遣わされた。
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鬼ヶ城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1579年7月19日
京都府福知山市大町南山
天正6年(1578年)に赤井直正が急死してから病没すると、家督は直正の嫡男・赤井直義が継ぐこととなった。
しかし、直義はわずか9歳であったため、直正の弟の赤井幸家が後見人となっていた。宇津城を攻略した明智光秀は、最後まで織田家に抵抗する姿勢をみせていた赤井直正の属城である丹波鬼ヶ城に向かう。
光秀は鬼ヶ城の周囲に付城を築いて包囲した。
「陰徳太平記』によると、 赤井幸家は毛利方の吉川元春に援軍を要請していたというが、元春が丹波にくることはなかった。
本城である黒井城と同時期に自落したようである。
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弓木城の戦い [織田信長の丹波・丹後平定]
1579年8月
京都府与謝郡与謝野町弓木
天正7年(1579年)に一色義道の居城である建部山城は落城し、義道は逃亡中に中山城で自刃した。
丹後嶺山城の包囲が続けられるなか、明智光秀と長岡(細川)藤孝らは義道の子の一色義定の居城である丹後弓木城を攻撃した。
弓木城は堅固且つ大規模な山城であったので攻めあぐねた織田方は、藤孝の娘を義定に嫁すという条件で和睦した。
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本能寺の変 [本能寺の変]
1582年6月2日
京都府京都市中京区元本能寺町
本能寺跡
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二条御所の戦い [本能寺の変]
1582年6月2日
京都府京都市中京区金吹町
二条城
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山﨑の戦い [本能寺の変]
1582年6月13日
京都府乙訓郡大山崎町
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勝龍寺城の戦い [本能寺の変]
1582年6月13日 ~ 14日
京都府長岡京市勝竜寺
山崎の戦いで総崩れになり敗走した明智光秀は、勝竜寺城に入り陣容を立て直そうとした。
しかし追撃してきた神戸信孝らの大軍に勝龍寺城を囲まれてしまう。
不利を悟った明智光秀は近臣とともに夜陰に乗じて城を脱出し、居城の坂本城を目指す。
しかしその途中の小来栖で落武者狩り遭い、明智光秀は落命したと伝わっている。6月14日の朝、主君を失った勝竜寺城は降伏開城した。
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