賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦い
1582年12月
福島正則と柴田勝家
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長浜城の戦い(ながはまじょうのたたかい)
1582年12月11日 ~ 15日
滋賀県長浜市公園町
天正10年(1582年)12月11日、 羽柴秀吉は丹羽長秀・筒井順慶・長岡 (細川) 忠興・池田恒興・ 蜂屋頼隆ら5万余の軍勢を率いて、長浜城の柴田勝豊を包囲した。
勝豊は越前北庄城主・柴田勝家の養子であったが、勝家の実子の勝敏が誕生したため勝豊は嗣子としての資格を失い、勝家に疎んじられるようになっていたという。
さらに同じ甥の立場であった佐久間盛政が勝家に重用されることに対しても不満があった。
雪に阻まれている勝家からの後詰も期待できないなか、勝豊はさしたる抵抗もなく本領安堵の条件を容れて、12月15日秀吉に降伏し長浜城を明け渡した。
すでに勝豊は病んでいた様子で、開城後すぐに京都で療養した。
岐阜城の戦い(ぎふじょうのたたかい)
1582年12月20日 ~ 29日
岐阜県岐阜市大宮町
岐阜城
三法師は安土城へ移ることが清洲会議で決定していたが、羽柴秀吉と対立する信孝は三法師を岐阜城から離さず、12月2日に1万人余の兵を擁して岐阜城で挙兵した。
これを謀反の口実として、秀吉は2万余の軍勢でただちに出陣。
丹羽長秀、池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢した。
信孝と結ぶ越前北庄城の柴田勝家は積雪のため援軍を送ることができないまま、秀吉は長浜城の柴田勝豊を降し、信孝の岐阜城を包囲した。
依然として美濃を掌握しきれていなかった信孝は伊勢の滝川一益の勧めに従い、12月20日に三法師を秀吉に渡すとや母の坂氏や乳母・娘らを人質として秀吉に降伏した。
秀吉は12月29日に包囲を解く。
この結果、東美濃で独立的行動をとっていた森長可・稲葉一鉄や与力の氏家行広らも信孝側を離れ、家老の岡本良勝・斎藤利堯も秀吉側に寝返った。
立花山の戦い(たちばなやまのたたかい)
1583年1月8日 ~ 1月12日
岐阜県美濃市立花
天正11年(1583年)正月、神戸信孝の命により、美濃郡上八幡城主の遠藤慶隆と美濃木越城主の遠藤胤基ら300余騎は、羽柴秀吉方についた靴尾山城主・佐藤秀方の須原砦・洞戸砦を攻略すると、長良川を挟んで蛇尾山と対峙する立花山(現美濃市)に布陣した。
1月8日、佐藤秀方から後詰を要請された秀吉は美濃金山城主の森長可に池田恒興・一柳直末らをつけて送り込み、立花山を攻囲した。
これに対し遠藤慶隆は信孝に救援を求める密使を送ると、信孝は守備の功労を誉め援軍派遣を約束したが援軍は来なかった。
2月には、糧道を絶たれ馬具の熊皮まで焼いて食すようになり、木尾・三日市(ともに現郡上市美並町)の住人が酒樽に米を詰め酒と称して送り、山道から陣中に運び入れて一時の急を救ったものの、攻囲はますます厳しくなり遠藤方は決死の突撃を覚悟した。
同年4月、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅ぼされ、信孝が秀吉に降伏すると、佐藤秀方より軍使が来て信孝の敗北が知らされ、開城勧告がなされた。
遠藤慶隆は石神兵庫・遠藤利右衛門を人質として送り、母野(現郡上市美並町)で両軍の和議が成り遠藤氏は秀吉の配下に入った。
佐藤秀方は、この戦を機に秀吉の武将となり、武儀郡の大半を領有(石高2万5,000石といわれる)した。
長島城の戦い(ながしまじょうのたたかい)
1583年2月12日 ~ 7月
三重県桑名市長島町西外面
天正11年(1583年)2月10日、羽柴秀吉は7万5000余の軍勢で柴田勝家や神戸信孝側についた滝川一益を攻略するため北伊勢に出陣した。
羽柴勢は北伊勢にある長島・峰・亀山などの諸城を攻略していった。
一益の居城である長島城へは、秀吉自ら3万余の大軍を率いて攻撃。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗北し、神戸信孝も秀吉に降伏している中、一益は長島城に籠城して羽柴勢の攻撃を凌いだが、7月になって降伏開城した。
滝川一益は、織田信長から拝領した領地すべてを没収され、剃髪したのち京都で出家せざるを得なくなった。
峰城の戦い(みねじょうのたたかい)
1583年2月12日 ~ 4月17日
三重県亀山市川崎町森
滝川一益の居城である伊勢長島城の攻撃に動き出した羽柴秀吉は、2月12日に弟の羽柴秀長、甥の三好信吉(羽柴秀次)をはじめ、筒井順慶・蒲生賦秀(氏郷)らに命じて一益の甥の滝川益重が守る伊勢峰城を包囲させた。
羽柴軍の猛攻を受け3月3日に亀山城が開城したあとも、益重は籠城を続けていたが兵糧も尽きかけてしまう。
4月17日、益重はついに降伏勧告を容れて開城した。
益重は峰城を北畠信雄に渡して退去している。
後に秀吉は益重を召し出して奮戦を称え、領地を与え家臣とした。
亀山城の戦い(かめやまじょうのたたかい)
1583年2月16日 ~ 3月3日
三重県亀山市本丸町
WIN
滝川益氏
LOSE
本能寺の変後に織田信孝方から羽柴秀吉方となっていた伊勢亀山城主の関盛信は、天正11年(1583年)正月に秀吉へ年賀の挨拶をするため子の一政ととも姫路城を訪れた。
その城を留守にした隙に、滝川一益は亀山城を奪取し、腹心の滝川益氏を入れた。
2月に秀吉は兵20,000を率いて伊勢の滝川一益領へ侵攻。
羽柴秀吉・羽柴秀長・羽柴秀次・織田信雄・掘秀政・山内一豊・高山右近・蒲生氏郷らが長島城、桑名城、亀山城を攻撃した。
秀吉の攻撃を受けた亀山城の滝川益氏は、3月3日に降伏し一益の拠る長島城に退く。
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)
1583年4月20日 ~ 21日
滋賀県伊香郡余呉町柳ヶ瀬
賤ヶ岳から見下ろす余呉湖
北庄城の戦い(きたのしょうじょうのたたかい)
1583年4月23日 ~ 24日
福井県福井市中央
岐阜城の戦い(ぎふじょうのたたかい)
1583年4月25日
岐阜県岐阜市大宮町
金華山(岐阜城)から眺める岐阜市の街並み
天正10年(1582年)12月の岐阜城の戦いで羽柴秀吉に降伏していた神戸(織田)信孝は、柴田勝家が賤ヶ岳に出陣したとの報に接して再び挙兵した。
これにより安土に送られていた信孝の母と妻子6人が処刑されてしまう。
その後、滝川一益を攻撃していた兄の北畠信雄に岐阜城を包囲され、4月23日に北庄城の戦いで柴田勝家を失うと、28日にやむなく開城した。
一説では、降伏したのではなく信雄が信孝を欺いて和議を持ちかけ、岐阜城を開城させたという。
信孝は長良川を下って尾張国知多郡に奔り、知多半島の内海大御堂寺(野間大坊)に送られ、自刃に追い込まれることになった。
信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれている。
神戸城の戦い(かんべじょうのたたかい)
1583年5月
三重県鈴鹿市神戸本多町
林正武
WIN
小島民部少輔
LOSE
天正10年(1582年)7月、伊勢神戸城主・神戸(織田)信孝が岐阜城に移ったあと、神戸城には信孝の異父兄・小島民部少輔が入っていた。
天正11年(1583年)4月の岐阜城の戦いで弟の信孝を自刃に追込んだ北畠(織田)信雄は信孝の遺領を継ぐと、家臣の林正武に神戸城を攻めさせた。
5月、実力で小島民部少輔から神戸城を奪取した林正武は、子の十蔵に神戸氏の名跡を継がせ、自らも神戸氏を称するようになった。
この合戦に登場する武将
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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)
戦国一の出世頭。織田信長に仕え、傑出した人望と知略を武器に活躍し、頭角を現す。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家らを次々と倒し、天下に覇を唱えた。
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丹羽長秀 (にわながひで)
織田家臣。「米五郎左」の異名をとる。安土城の普請奉行を務めるなど、行政面で活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉に属し、越前北庄120万石を領した。
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筒井順慶 (つついじゅんけい)
大和の国衆。順昭の嫡男。父・順昭の夭逝により2歳で家督を継ぐ。松永久秀と争い、居城・筒井城を追われたが、のちに織田信長に従属して勢力を回復した。
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細川忠興 (ほそかわただおき)
織田家臣。藤孝の子。明智光秀の娘を娶るが、本能寺の変後は豊臣家に属した。関ヶ原合戦では東軍に属し、豊前中津39万6千石を領した。利休七哲の1人。
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池田恒興 (いけだつねおき)
織田家臣。信長の乳兄弟。姉川合戦などで活躍した。本能寺の変後は、織田家四宿老の1人となる。羽柴秀吉に味方して小牧長久手の合戦に出陣し、戦死した。
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蜂屋頼隆 (はちやよりたか)
織田家臣。黒母衣衆の1人。斎藤家を経て織田信長に仕える。以後は遊軍を率いて各地で活躍した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、越前敦賀5万石を領した。
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柴田勝豊 (しばたかつとよ)
柴田家臣。叔父・勝家の養子となる。長浜城主を務めた。のちに勝家と対立し、その事を知った羽柴秀吉に攻められ、降伏した。賤ヶ岳合戦の直後、病死した。
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織田信孝 (おだのぶたか)
信長の三男。伊勢の豪族・神戸具盛の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後、柴田勝家と結んで羽柴秀吉に対抗するが敗れ、秀吉の命により自害させられた。
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織田秀信 (おだひでのぶ)
信忠の嫡男。本能寺の変後、羽柴秀吉に擁立されて3歳で織田家を継ぐが、実権は秀吉に奪われた。関ヶ原合戦で西軍に加担して敗北し、高野山で出家した。
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氏家行広 (うじいえゆきひろ)
豊臣家臣。卜全の子。小田原征伐に従軍し、伊勢桑名2万2千石を得る。関ヶ原合戦で西軍に属し、戦後流浪。大坂城に入り、大坂夏の陣で豊臣秀頼に殉じた。
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岡本良勝 (おかもとよしかつ)
織田家臣。信長の三男・信孝は良勝の屋敷で生まれたという。のち主家を出奔、豊臣家に仕え伊勢亀山城主となる。関ヶ原合戦では西軍に属し、戦後自害した。
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遠藤慶隆 (えんどうよしたか)
美濃の豪族。郡上八幡城主。豊臣秀吉に仕える。小牧長久手合戦の際、織田家への内通疑惑により減封された。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後旧領に復した。
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森長可 (もりながよし)
織田家臣。可成の嫡男。伊勢長島一向一揆鎮圧や武田家征伐に参戦し「鬼武蔵」の異名をとった。本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、小牧長久手合戦で戦死した。
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滝川一益 (たきがわかずます)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。
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豊臣秀長 (とよとみひでなが)
秀吉の異父弟。兄の片腕として、その覇業に貢献する。温和で人望高く、秀吉と他大名との折衝役を務めた。秀吉に先立って死去、諸将にその死を惜しまれた。
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豊臣秀次 (とよとみひでつぐ)
豊臣家臣。豊臣秀吉の義兄・三好吉房の子。秀吉から関白職を譲られるが、のちに「殺生関白」と呼ばれるほどの乱行を振るまい、謀叛の罪で自害させられた。
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蒲生氏郷 (がもううじさと)
織田家臣。賢秀の子。主君・信長の娘を娶る。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え活躍、陸奥会津92万石を領した。文武に秀でたその器量を秀吉は恐れたという。
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滝川益重 (たきがわますしげ)
滝川家臣。一益の従兄弟。甥とも。本能寺の変後、一益とともに柴田勝家に属し北伊勢で羽柴秀吉軍と激戦を展開。のち秀吉に仕え、九州征伐などに従軍した。
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関盛信 (せきもりのぶ)
伊勢の豪族。亀山城主。織田信長の伊勢侵攻軍に降る。本能寺の変後は豊臣秀吉に従った。のちに蒲生氏郷の与力となり氏郷の会津転封に従って会津に移った。
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関一政 (せきかずまさ)
伊勢の豪族。亀山城主。盛信の次男。蒲生家に仕え、奥州征伐で活躍。関ヶ原合戦の際は東軍に属し、伯耆黒坂5万石を領すが、のちに内紛により改易された。
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織田信雄 (おだのぶかつ)
信長の次男。伊勢国司・北畠家の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後は豊臣家に従属した。小田原征伐後、徳川家康の旧領への転封を拒否し、改易された。
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堀秀政 (ほりひでまさ)
織田家臣。各地で戦功を立てる一方、徳川家康の饗応役も務めるなど、文武の両面に才能を発揮した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、一門格の待遇を受けた。
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山内一豊 (やまうちかずとよ)
織田家臣。妻・千代の内助の功が著名。本能寺の変後は豊臣秀吉に属す。関ヶ原合戦の際は居城・掛川城を徳川家康に献上し、戦後、土佐高知24万石を得た。
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高山右近 (たかやまうこん)
織田家臣。高槻城主。友照の子。父と同じくキリスト教に入信する。各地の合戦で活躍するが、後に改宗を拒否したため改易され、幕府の命で呂宋へ追放された。
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柴田勝家 (しばたかついえ)
織田家臣。「かかれ柴田」の異名をとった猛将。北陸方面軍の総大将を務めた。本能寺の変後、羽柴秀吉と争い賤ヶ岳合戦で敗れ、居城・北庄城で自害した。