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この人誰?

肝付兼篤

豊臣秀吉の関東平定

1590年3月

豊臣秀吉と北条氏政

目次[非表示]

松井田城の戦い(まついだじょうのたたかい)

1590年3月28日 ~ 4月20日

群馬県安中市松井田町松井田・新堀

3月28日、前田利家上杉景勝真田昌幸信幸父子の北国勢らが率いる豊臣勢3万5000余の大軍が上野松井田城を包囲する。

北条氏の重臣である大道寺政繁が守る松井田城は、信濃と上野の国境に位置する要衝である碓氷峠を扼していた。

政繁は勧告を拒絶して抗戦を続けたが、周囲にある北条方の国峰城や厩橋城が次々と落とされると、4月20日に政繁は人質として長男の直重を出して、降伏開城した。

松井田城の開城後、真田昌幸らの北国勢は上野国の要の城である箕輪城の攻略を進めた。

山中城の戦い(やまなかじょうのたたかい)

1590年3月29日

静岡県三島市山中新田・田方郡函南町柏谷城山

松田康長

松田康郷

蔭山氏広

LOSE

3月29日、羽柴秀次を総大将とする中村一氏田中吉政山内一豊堀尾吉晴・一柳直末ら6万8000余の豊臣勢は、箱根を守る山中城を攻撃する。
山中城には、城番の松田康長のほか相模玉縄城主の北条氏勝や松田康郷・蔭山氏広・間宮康俊らが入り、3000余の兵で守っていた。

間宮康俊は寄親の北条氏勝らを撤退させて、自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦したために、豊臣方も一柳直末など多くの戦死者を出した。

しかし圧倒的な戦力差を前に力攻めを行われわずか半日で落城し、北条方の松田康長・間宮康俊などの武将や2000余の城兵が討ち取られた。
城を脱出した北条氏勝は玉縄城に逃げ戻った。

韮山城の戦い(にらやまじょうのたたかい)

1590年3月29日 ~ 6月24日

静岡県伊豆の国市韮山

朝比奈泰栄

江川英吉

富永政家

LOSE

韮山城から見た城下

山中城の戦いが行われていた3月29日、織田信雄を中心とする長岡(細川)忠興蒲生氏郷蜂須賀家政福島正則ら4万4000余の軍勢は、伊豆韮山城を包囲する。

韮山城には、北条氏政の弟の北条氏規や朝比奈泰栄・江川英吉・富永政家ら率いる3640余の兵が籠城していた。

守将の北条氏規は非開戦派であったが、伊豆国の要で北条氏の所縁深い韮山城を守ることとなった。

まず秀吉から開城交渉を命じられた徳川家康は、小笠原丹波を使者として交渉するも氏規はこれを拒否し徹底抗戦する。

小笠原丹波は包囲するだけの大軍に不甲斐なく思い、帰陣すると勝手に攻撃し、北条方の江川英吉に撃退され討死した。

氏規は3ヶ月近くにわたって籠城したが、徳川家康の斡旋により6月24日についに降伏開城した。

秀吉/a>は蜂須賀家政福島正則、戸田勝隆、筒井定次らの最小限の兵力だけ残し韮山城の包囲を続けさせ、主力の織田信雄らを小田原城に向かわせた。

下田城の戦い(しもだじょうのたたかい)

1590年4月1日 ~ 23日

静岡県下田市三丁目

清水政勝

清水英吉

高橋丹波守

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豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆半島における北条水軍最大の拠点であった伊豆下田城攻めが始まる。

豊臣水軍の脇坂安治の1300余・長宗我部元親の2500余・加藤嘉明隊・九鬼嘉隆の1500余らの大軍は、2月26日に駿河の清栄湊に寄港したあと、伊豆下田沖に向かい、4月1日に下田城を攻撃した。

城を守っていた伊豆衆筆頭の清水康英は、嫡子の政勝、弟の英吉や家臣の高橋丹波守らの城兵600余で籠城し、豊臣水軍1万4000余からの攻撃を50日余り凌いだが、4月23日に脇坂安治安国寺恵瓊らと起請文を交わし、城を開けて降伏した。

降伏した康英は、一命を助けられて下田城を退去した。

国峰城の戦い(くにみねじょうのたたかい)

1590年4月17日

群馬県甘楽郡甘楽町国峰

小幡信氏

LOSE

前田利家上杉景勝金森長近らの主力が上野松井田城を包囲するなか、上杉氏の先鋒を務める藤田信吉は上野国峰城の攻略に向かう。

国峰城の小幡氏はもともと上野守護上杉氏に従っていたが、その後、武田氏・織田氏に従い、このころは北条氏に臣従していた。

当主の小幡信定は小田原城に参陣していたため、留守を子の小幡信氏が守っていた。

信氏は宮崎城(現・富岡市)を守備していたが、事前に織田信雄家臣の岡田利世を通じて内通していたようであり、豊臣勢の北陸軍が侵攻すると降伏して前田軍に投降した。
その後信氏は小幡氏本拠の国峯城攻略の先兵となり、城を守備していた叔父の小幡信秀夫妻を殺害した。

西牧城の戦い(さいもくじょうのたたかい)

1590年4月中旬日

群馬県甘楽郡下仁田町南野牧

松平康国

WIN

大谷公嘉

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前田利家上杉景勝の主力が上野松井田城を包囲するなか、信濃小諸城主の松平康国は一手を率いて上野西牧城の攻略に向かう。

この西牧城は信濃と上野の国境に位置する内山峠を押さえる要衝で、このとき北条氏の家臣の多目周防守元忠・大谷帯刀三左衛門公嘉ら派遣され400余の城兵とともに守備していた。

松井田城の開城により西牧城も開城し、多米元忠・大谷公嘉は自刃させられた。

玉縄城の戦い(たまなわじょうのたたかい)

1590年4月21日

神奈川県鎌倉市城廻

北条氏勝

北条氏勝

山中城の戦いに敗れた北条氏勝は、落城を前に自害を図るが家臣の朝倉景澄に制止され、弟の直重・繁広の言に従って城を脱出し居城であった相模玉縄城へ戻った。

この氏勝は河越城の戦いで活躍した北条綱成の孫にあたる。

氏勝は玉縄城に籠城して抗戦する構えを見せていたが、包囲した徳川家康氏勝を味方にしようとする。
そのため玉縄城では戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣・松下三郎左衛門とその一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得により、4月21日に降伏した。

その後氏勝は武蔵・下総方面の豊臣勢の案内役を務めて北条方諸城の無血開城の説得に尽力した。

江戸城の戦い(えどじょうのたたかい)

1590年4月22日

東京都千代田区千代田

戸田忠次

WIN

川村秀重

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玉縄城を攻略した徳川家康は、豊臣秀吉の命により武蔵・下総の平定に向かうと、4月22日に北条氏の関東支配の拠点である江戸城を包囲する。

城代の遠山景政が小田原城に参陣していたため、このときは弟の川村秀重が城を守っていた。

当時の江戸城は「江戸は遠山景政の居城にて、いかにも粗末、町屋なども茅ぶきの家が百ほどもあるかないかの体で、城も形ばかりで城の様にもなっていない」と城と呼べない粗末なものだったようです。

秀重は勧告を容れて降伏し、徳川配下の戸田忠次が城を請け取る。

北条氏の滅亡後、その遺領を秀吉に与えられた家康は、8月1日、いわゆる「八朔」の日に江戸城に入ったという。

箕輪城の戦い(みのわじょうのたたかい)

1590年4月24日

群馬県高崎市箕郷町西明屋

垪和信濃守

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箕輪城

箕輪城

上野松井田城を落とした前田利家上杉景勝真田昌幸らは、西牧城・国峰城・厩橋城を落として大導寺政繁の案内で上野箕輪城に向かう。

このとき箕輪城を守っていたのは、武蔵鉢形城主・北条氏邦の家臣の垪和信濃守である。
氏邦は、豊臣勢の襲来を予期して箕輪城を改修補強させていたが、城兵は一戦も交えず、4月24日に降伏開城した。
こののち信濃高遠城主・保科正直が城の請け取りにあたり、前田利家に引き渡している。

徳川家康の関東に入封に際し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられている。

石倉城の戦い(いしくらじょうのたたかい)

1590年4月26日

群馬県前橋市石倉町

松平康国

松平康勝

WIN

寺尾左馬助

LOSE

西牧城を攻略した松平康国は、上野石倉城の攻略に向かう。

この康国は、天正壬午の乱で徳川家康に従って活躍した依田信蕃の子で、父の戦死により家康か松平の姓と偏諱を与えられていた。

上野石倉城を守っていた寺尾左馬助(石倉治部)から康国への申し入れにより、いったんは石倉城は開城されるが、開城時の混乱の中で疑心暗鬼に陥った左馬助が康国を殺害されてしまった。

康国の弟の康勝が左馬助を討ち取った。

その後家康は、康国の跡を弟の康真に継がせている。

臼井城の戦い(うすいじょうのたたかい)

1590年5月18日

千葉県佐倉市臼井田

原邦房

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豊臣秀吉の命に従い武蔵江戸城を攻略した徳川家康は、下総を平定するべく臼井城に向かう。

下総は小田原の北条氏に従う千葉氏の勢力下にあったが、戦国時代には千葉氏は衰え、千葉氏の筆頭家老である臼井城の原氏が実権を握っていた。

このときの城主はわずか4歳の吉丸で、同族の原(千葉)邦房が指揮を執っていた。

家康はこの白井城を攻略すると、家臣の酒井家次に37000石で入封させた。

鉢形城の戦い(はちがたじょうのたたかい)

1590年5月19日 ~ 14日

埼玉県大里郡寄居町鉢形

鉢形城 曲輪

鉢形城 曲輪

5月19日、前田利家利長父子、上杉景勝真田昌幸の北国勢と、浅野長政本多忠勝・島田利正・鳥居元忠ら徳川勢の連合軍は、3万5000余の軍勢で武蔵鉢形城を包囲する。

城主の北条氏邦は、小田原城で籠城している北条氏政の弟であった。

鉢形城は稀に見る頑強な要害であったため、1ヶ月近く籠城を続けたものの、抗戦の不利を悟って降伏開城する。

このとき自刃するため菩提寺正龍寺に入った氏邦は、利家によって一命を助けられ、のち利家とともに金沢に移った。

徳川家康の関東討入にともない、鉢形城は成瀬正一・日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。

岩付城の戦い(いわつきじょうのたたかい)

1590年5月20日 ~ 22日

埼玉県さいたま市岩槻区太田

伊達房実

妹尾兼延

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5月19日、豊臣秀吉から武蔵平定を命じられた浅野長吉は、山崎片家岡本良勝らとともに武蔵岩付に着陣すると、20日から岩付城(岩槻城)に総攻撃をかける。

城主の太田氏房は小田原城に参陣していたため、家臣の伊達房実・妹尾兼延ら2000余が城を守っていた。

包囲する豊臣勢は2万余であり、抗戦の不利を悟った房実・兼延らは小田原城開城に先立って5月20日に降伏する。
城を請け取った浅野長吉らは、前田利家上杉景勝に加勢するため鉢形城に向かった。

八王子城の戦い(はちおうじじょうのたたかい)

1590年6月22日 ~ 23日

東京都八王子市元八王子町

横地吉信

狩野一庵

近藤綱秀

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天正18年(1590)鉢形城を攻略した前田利家上杉景勝真田昌幸信幸父子ら北国勢は、後北条氏の副都心ともいえる武蔵八王子城を包囲する。

八王子城主は北条氏政の弟である北条氏照で、城代の横地吉信のほか、狩野一庵・中山家範・近藤綱秀ら1000余で守っていた。

豊臣勢は翌6月23日に総攻撃を仕掛け、城代の吉信が城から脱出し城主・北条氏照を欠いたまま半日で落城した。

小田原城に対する見せしめのために徹底した攻城が指示され、敵味方の相交える鉄砲の音は雷のようだったという。

このとき氏照の正室をはじめとする女性たちは、滝に身を投げた。

忍城の戦い(おしじょうのたたかい)

1590年6月5日 ~ 7月16日

埼玉県行田市本丸

忍城

忍城

小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい)

1590年4月3日 ~ 7月5日

神奈川県小田原市城内

小田原城

小田原城

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬