織田信長の丹波・丹後平定
織田信長の丹波・丹後平定
1575年11月
赤井直正と明智光秀
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黒井城の戦い(くろいじょうのたたかい)
1575年11月 ~ 1576年1月15日
兵庫県丹波市春日町黒井
黒井城
亀山城の戦い(かめやまじょうのたたかい)
1577年10月16日 ~ 19日
京都府亀岡市内丸町
八上城の戦い(やかみじょうのたたかい)
1578年3月14日 ~ 1579年6月2日
兵庫県篠山市八上上
細工所城の戦い(さいくしょじょうのたたかい)
1578年4月10日 ~ 26日
京都府南丹市園部町小桜町
織田信長の命で丹波八上城を包囲していた明智光秀らは、本願寺の戦いのため摂津に転戦しその後また丹波に戻ると八上城を包囲し、周りの支城を攻撃する。
天正6年(1578年)4月10日から明智光秀・滝川一益・丹羽長秀らは、波多野氏の属城であり荒木氏綱が守る丹波細工所城を包囲した。
激戦の末に水の手を絶たれた荒木氏綱らは城を捨てて退去する。
こののち細工所城には光秀の家臣が入った。
後にこの荒木氏綱は明智光秀に出仕するも、山﨑の戦いで討死している。
氷上城の戦い(ひかみじょうのたたかい)
1579年5月5日
兵庫県丹波市氷上町氷上
丹波八上城に拠る波多野秀治が織田勢に包囲されるなか、波多野氏の庶流にあたる氷上城の波多野宗長・宗貞父子も抵抗を続けていた。
天正7年(1579年)1月、織田氏の家臣の丹羽長秀・羽柴秀長の軍勢に居城氷上城を包囲されると、5か月に及び籠城した。
しかし城の兵糧が尽きると、羽柴秀長は宗長の才を惜しみ降伏を薦めるが、5月5日、宗長・宗貞父子が城を打って出たため両軍は八幡山で衝突した
敗れた宗長・宗貞父子は追撃してきた織田勢に氷上城を包囲され、宗長は城に火を放ち、子の宗貞とともに自害して果てた。
宇津城の戦い(うつじょうのたたかい)
1579年7月19日
京都府京都市右京区京北下宇津町
天正7年(1579年)7月、明智光秀は波多野氏と組み織田家に抵抗を続ける丹波宇津城主・宇津頼重(長成)を攻める。
織田勢の猛攻を受けた頼重は、19日に城を捨てて逃亡した。
光秀は逃亡した宇津城兵を追撃させたが、頼重は若狭方面に逃げたとされ行方知れずとなる。
宇津頼重が押領していた丹波国山国荘の直務支配が回復したとして、朝廷から明智光秀に鎧や馬などの恩賞と織田信長に御礼の勅使が遣わされた。
鬼ヶ城の戦い(おにがじょうのたたかい)
1579年7月19日
京都府福知山市大町南山
天正6年(1578年)に赤井直正が急死してから病没すると、家督は直正の嫡男・赤井直義が継ぐこととなった。
しかし、直義はわずか9歳であったため、直正の弟の赤井幸家が後見人となっていた。
宇津城を攻略した明智光秀は、最後まで織田家に抵抗する姿勢をみせていた赤井直正の属城である丹波鬼ヶ城に向かう。
光秀は鬼ヶ城の周囲に付城を築いて包囲した。
「陰徳太平記』によると、 赤井幸家は毛利方の吉川元春に援軍を要請していたというが、元春が丹波にくることはなかった。
本城である黒井城と同時期に自落したようである。
黒井城の戦い(くろいじょうのたたかい)
1579年7月 ~ 8月9日
兵庫県丹波市春日町黒井
黒井城
嶺山城の戦い(みねやまじょうのたたかい)
1579年7月 ~ 8月20日
京都府京丹後市峰山町赤坂
天正7年(1579年)6月に明智光秀が波多野秀治の居城八上城を落としと、波多野氏の一族や遺臣は丹後に逃れ、吉原西雲の居城である嶺山城に籠もった。
そのため光秀は翌7月に細川藤孝・忠興父子らに嶺山城を包囲させておき、黒井城が落城すると自ら主力を率いて丹後に向かった。
8月20日頃、織田勢が総攻撃をかけ嶺山城は落城。
嶺山城には藤孝の次男・興元入った。
弓木城の戦い(ゆみきじょうのたたかい)
1579年8月
京都府与謝郡与謝野町弓木
天正7年(1579年)に一色義道の居城である建部山城は落城し、義道は逃亡中に中山城で自刃した。
丹後嶺山城の包囲が続けられるなか、明智光秀と長岡(細川)藤孝らは義道の子の一色義定の居城である丹後弓木城を攻撃した。
弓木城は堅固且つ大規模な山城であったので攻めあぐねた織田方は、藤孝の娘を義定に嫁すという条件で和睦した。
この合戦に登場する武将
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明智光秀 (あけちみつひで)
織田家臣。優れた才知と教養により重用されるが、突如謀叛を起こし信長を本能寺に討つ。しかし事後調略に失敗し、山崎合戦で敗れ逃亡中に殺された。
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赤井直正 (あかいなおまさ)
丹波の豪族。時家の次男。兄・家清の戦死後、若年の甥・忠家を後見した。明智光秀の丹波平定軍を撃退するなど武勇に優れ「丹波の赤鬼」の異名をとった。
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波多野秀治 (はたのひではる)
丹波の豪族。八上城主。晴通の子。居城を三好家から奪還し、勢力を拡大した。明智光秀の攻撃を受け、籠城して戦うが降伏、安土に送られ磔刑に処せられた。
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波多野秀尚 (はたのひでなお)
波多野家臣。晴通の子。兄・秀治とともに八上城に籠城して明智光秀軍と戦うが1年半に及ぶ攻防の末、降伏。秀治とともに安土に送られ、磔刑に処せられた。
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滝川一益 (たきがわかずます)
織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。
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丹羽長秀 (にわながひで)
織田家臣。「米五郎左」の異名をとる。安土城の普請奉行を務めるなど、行政面で活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉に属し、越前北庄120万石を領した。
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荒木氏綱 (あらきうじつな)
丹波の豪族。細工所城主。豪勇をもって知られた。波多野家滅亡後、明智光秀の仕官要請を拒否、代わりに子・氏清を出仕させた。氏清は山崎合戦で戦死した。
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豊臣秀長 (とよとみひでなが)
秀吉の異父弟。兄の片腕として、その覇業に貢献する。温和で人望高く、秀吉と他大名との折衝役を務めた。秀吉に先立って死去、諸将にその死を惜しまれた。
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細川藤孝 (ほそかわふじたか)
足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の擁立に貢献した。その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。古今伝授を受けた文化人としても著名。
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細川忠興 (ほそかわただおき)
織田家臣。藤孝の子。明智光秀の娘を娶るが、本能寺の変後は豊臣家に属した。関ヶ原合戦では東軍に属し、豊前中津39万6千石を領した。利休七哲の1人。
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細川興元 (ほそかわおきもと)
藤孝の次男。信長に従って松永久秀と戦ったほか、小田原征伐や関ヶ原でも戦功があった。のち兄・忠興と対立し京に隠棲するが、徳川秀忠より呼び戻された。