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仮病を使って敵を油断させる!加藤嘉明家臣の佃十成(つくだかずなり)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、加藤嘉明氏の家臣である佃十成(つくだかずなり)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
佃十成の生まれ
天文22年(1553年)、三河国加茂郡猿投で土豪の岩松玄蕃丞の子として誕生します。
初めは織田信長に従い、のちに徳川家康に仕えたが、天正13年(1585年)に些細なことから争いを起こして国を追われ、摂津国西成郡佃に蟄居します。
この際に「佃十成」と名乗ったようです。
その後加藤嘉明から請われて家臣となり、九州平定、小田原征伐、文禄・慶長の役に従軍し功を立て、家老に取り立てられました。
三津浜夜襲
1600年の関ヶ原の戦いの際には、主君の加藤嘉明は東軍に属し、本戦のため出陣します。
佃十成は主君の居城である伊予国松前城の留守居という大役を任されます。
留守役は本当に信頼に足る人間にしか任せられないので、加藤嘉明から底知れぬ信頼があったのでしょう。
西軍の毛利氏はこの混乱に乗じて東軍である加藤嘉明と藤堂高虎の領地の諸国人などに対して調略を行います。
そして毛利氏らの支援を受けて、御家再興を狙う河野氏の旧臣らが蜂起します。
河野家の後継者的立場である宍戸景世を総大将格とし、他に毛利家家臣、桂元綱、宍戸景好、伊予の国人内子曽根城の旧城主の曽根宣高の子である曽根景房、因島水軍の村上吉忠や、能島水軍の村上元吉ら舟数百艘、3500余騎(『能島家根本覚書』)で出陣。
9月10日に加藤嘉明家臣の石川隆次が守る来島城に攻め寄せたが堅固だったため、佃十成が城代を務める松前城に矛先を向けた。
9月17日、毛利勢は松山沖の興居島を経て伊予国三津浜(現在の愛媛県松山市古三津)に上陸。
現地の河野氏旧臣で伊予荏原城主の平岡直房らと合流して兵を増強し、松前城より直線距離8km余りの三津刈屋口、古三津一帯に布陣。
上陸した毛利勢は伊予の国人である曽根高房を使者として松前城に派遣し、豊臣秀頼の朱印状を示してこちらに正義があることを主張し松前城の明け渡しを要求します。
村上武吉・元吉、宍戸景好らが連署して松前の豪商に「加藤方についた場合は、妻子以下みな討ち果たすであろう」という脅迫文を出し、押さえ込みます。
加藤嘉明家臣である嘉明の弟・加藤忠明や足立重信、佃十成らは、要求に対し一計を案じます。
佃十成は病と偽り、また「開城するが妻子を逃す時間が欲しい」と返答した。
さらに留守居の軍勢がほとんどいないという噂を毛利勢に流すと、これを聞いた総大将・宍戸景世は小躍りして喜び油断したという。
佃十成率いる少数の加藤勢はその夜半から朝にかけて夜襲を行い、三津の刈屋畑や古三津一円で激戦の末、毛利勢を敗走させる。
毛利勢は佃十成によって村上元吉が討ち取られ、曽根景房らも討ち死し、総大将の宍戸景世も手傷を負うなど多数の被害を受けた。
さらに追撃を行い、23日未明道後周辺あるいは三津ノ木山で最後の一戦を戦い、毛利勢は北に逃れた。
その夜互いに関ヶ原での西軍敗北の報を聞き、翌日、風早の浦から毛利勢は撤退した。
佃十成はこの戦功によって、伊予浮穴郡久万山に6,000石の所領を与えられた。
松山城の築城では縄張りを担当し、加藤家の重臣として北郭に壮麗な屋敷を構えていたという。
寛永11年(1634年)、死去。
信長の野望での佃十成
ゲーム信長の野望での佃十成のパラメーターを見てみましょう。
統率 61 (744 位)
武勇 59 (863 位)
知略 56 (1150 位)
内政 46 (1527 位)
外政 49 (1379 位)
合計 271 (1133 位)
2200人中の順位です。
ゆるく戦闘面のパラメーターが高いです。
そこまでの計略ではなく、戦働きも良い方ではあるが突出して良いわけではないのでこのくらいといった感じか。
まとめ
いかがでしたか?
加藤嘉明に才能を見出され、関ヶ原の戦いでは留守役を務め、見事河野氏の旧臣らを撃退した佃十成。
乱世の後に残った家は、どこにも優秀な配下がいますね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
佃十成