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私と一緒に地図に残る仕事をしませんか?伊予の土木家・足立重信(あだちしげのぶ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは加藤嘉明の家臣で、さまざまな土木工事を担当した足立重信(あだちしげのぶ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
足立重信の生まれ
足立重信は美濃国(岐阜県)で生まれ、若い頃から加藤嘉明に小姓として仕えました。
生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1563年と設定されています。
伊予に引っ越しし城下町を整備する
1594年、主君・加藤嘉明が文禄の役での軍功により伊予国(愛媛県)に転封し正木(松前)城主となったため、それに伴い足立重信も伊予に入ります。
足立重信は加藤嘉明に命じられ、伊予川(彼に因んで重信川と呼ばれるようになる)の河川改修や城の城下町の拡張をはじめます。
暴れ川・伊予川の灌漑工事
当時、伊予川は流路が定まっていなかったほど暴れ川として有名でした。
そこで足立重信は伊予川の灌漑工事で指揮をとり、霞堤や鎌投という水制などの工法を用い、下流に新たな流路12キロに渡って開削し堤防を築いて大改修を行います。
氾濫は食い止められ、周辺に広大な耕作地を生み出しました。
この重信の功績を称え、伊予川を重信川と呼ぶようになったと言われています。
川に人名が付けられるケースは国内でも非常に珍しく、司馬遼太郎は「日本の河川で人名がついているのはこの川(重信川)だけではないか」と記述しています。
伊予の農民たちが大変感謝して、敬意を払って高信の名前を河川の名前にしたとは感慨深いですね。
さらに松山城の南麓を流れる湯山川(現在の石手川)の流路を変更して伊予川と合流させ、旧流路を城の堀として活用する等、堅固な築堤と水制工事、城下開発に卓越した手腕を見せました。
戦での活躍
文禄・慶長の役では、加藤嘉明に従軍し功を立てます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、佃十成らと共に嘉明の留守居として、毛利氏らの支援を受けて蜂起した河野氏の旧臣らの軍勢を撃退します(三津浜夜襲)。
これらの戦功によって家老に任ぜられ、5000石の所領を与えられました。
しっかり戦でも活躍します!
松山城の築城
1602年、松山城の建設工事が始まります(1627年に完成する)。
まず問題なのが、石垣作りです。
約80万個の大きな石を山頂まで運ぶ必要があります。
何千という農民を集め、細い山道に丸太をしき、その上に石を転がしながら運ぶという地道で終わりのない作業が始まります。
農民たちは疲労と米作りができないことで大きな焦りになっていきました。
ある日、石が転げ落ち農民たちをなぎ倒す事故が起こりました。
工事中止の危機でしたが、ある農民が「これはわしらの村のため。」「安心して米作りできる村にするためだ」と言い、再び作業は続けられました。
農民たちは重信の河川工事の恩返しをしたかったのでしょう、それ以来、縄を引く声が一段と大きくなりました。
その中で一際大きかったのが重信自身でした。
重信は農民たちを第一線で指揮し続けましたが、完成目前の1625年に病気のため亡くなってしまいました。
生前望んだ松山城下を見渡せる愛媛県松山市の山越来迎寺に葬られました。
信長の野望での足立重信
ゲーム信長の野望での足立重信のパラメーターを見てみましょう。
統率 48 (1435 位)
武勇 38 (1897 位)
知略 62 (805 位)
内政 86 (53 位)
外政 74 (238 位)
合計 308 (582 位)
2200人中の順位です。
輝かしい実績により、内政手腕を高く評価されているのがわかりますね。
「土木名人」という特性を取得することができ、再現度が高いです!
まとめ
いかがでした?
その後松山市はというと、四国最大の都市となり「道後温泉」の町としても有名です。
バイキングの小峠に似ている正岡子規は、この地で重信川について俳句を読んでいたりしています。
一所懸命がんばるので、周りの人に愛され応援される人だったのかなと想像します。
上司にしたいタイプですね。
今回はいい話でした。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。