武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
毛利秀元(もうりひでもと)
毛利秀元(もうりひでもと)
毛利秀元 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
75 (259 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
81 (128 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
68 (528 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
51 (1263 位) | ||||
合計 | 275 (284 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1579年 | 穂井田元清の子。従兄弟・輝元の養子となる。豊臣秀吉の朝鮮派兵の際は毛利軍を指揮した。関ヶ原合戦の際は主戦場に赴き「宰相殿の空弁当」の逸話を生む。 | |||||||||
死亡年 | 1650年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
牢固 | 自部隊の防御上昇 | ||||||||||
数寄 | 家宝をまれに入手 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
用心 | 自部隊の防御上昇 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
|||||||||||
大層報労 | 忠誠上昇 消費労力増加 | ||||||||||
奉行
準備中 |
|||||||||||
毛利伝 | 百万一心之訓が発令可能、すでに発令可能なら維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 未登場 | |||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 未登場 | |||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 元服前 | |||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | |||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 22 | 山口館 | ||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 36 | 櫛崎城 |
毛利秀元が登場する合戦
-
伏見城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年7月19日 ~ 8月1日
京都府京都市伏見区桃山町
宇喜多秀家 (28)石田三成 (40)前田玄以 (61)本多正信 (62)鈴木重朝 (39)島津義弘 (65)小早川秀秋 (18)大谷吉継 (41)毛利秀元 (21)吉川広家 (39)小西行長 (41)長宗我部盛親 (25)鍋島勝茂 (20)長束正家 (44)WIN
LOSE
伏見城
慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は大坂城を出て山城伏見城に移動し、6月18日には守将の鳥居元忠と別れの宴を行った後、上杉討伐のため会津に向かった。
一方、大坂城の前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は、7月17日に家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布する。
これに先立つ7月15日の時点で、伏見城では鳥居元忠らが籠城を始めており、西軍はこれに対する攻撃の準備を行う。
7月19日、西軍の宇喜多秀家の軍勢による攻撃が本格的に始まった。
伏見城は初めは反撃して前田玄以や長束正家の屋敷を焼き払うなどするが、その後は攻撃側からの大量の鉄砲攻撃にさらされ、29日には、石田三成の4万余の大軍で包囲されてしまう。
攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。
しかし、孤立した城は8月1日に落城する。
鳥居元忠は鉄砲頭の鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他にも内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。
この戦いは9月15日に行われる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城は落城するも、少数の兵で西軍の大軍を10日以上も足止めすることで、西軍の美濃・伊勢方面への展開が大きく遅れる原因となった。
また、島津義弘と小早川秀秋は元々東軍に味方するつもりであったが、城側に入城の意思を示したときに拒否され、結局西軍に参加して城攻めに加わっている。
-
松坂城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月24日
三重県松阪市殿町
伏見城を落とした西軍の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・鍋島勝茂・龍造寺高原・長宗我部盛親ら3万余の軍勢は、伊勢に侵攻し古田重勝が守る松坂城を攻撃する。
このとき伊勢で東軍に属していたのは、重勝のほかは安濃津城の富田信高や上野城の分部光嘉らがいた。
松坂城内は兵や町人を合わせて2000人ほどの寡兵であった。
戦いは8月23日に始まり、24日に総攻撃が行われた。
大軍を前にした重勝は西軍に降伏したが、関ヶ原の戦い後、西軍を引き止めた功により2万石を加増され松坂城5万5000石の大名となっている。
-
安濃津城の戦い [関ヶ原の戦い]
1600年8月24日 ~ 25日
三重県津市丸之内
安濃津城(津城)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである安濃津城の戦いが起こります。
富田信高(安濃津城主)、分部光嘉(伊勢上野城主)、古田重勝(松阪城主)、稲葉道通(岩出城主)ら伊勢の東軍の諸将らは徳川家康の会津征伐に従軍していました。西軍の大軍が伊賀方面から伊勢に進出してきたため、分部は寡兵で自城を守り切れないと判断し、富田の安濃津城にて共同で西軍を迎えることとします。
富田の兵、分部の兵、更に古田重勝からの援軍500を加えても、安濃津城に籠城する東軍は1,700という劣勢でした。
対する毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された西軍は総勢3万にのぼります。富田、分部らの籠城方は奮戦するも後詰・救援の見込みもないため、8月25日に高野山金剛峯寺の木食応其が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、安濃津城は開城します。
信高、光嘉は共に一身田の専修寺へ退き、剃髪して高野山にのぼった。
しかし、関ヶ原の戦い後、西軍を釘付けした功を認められた信高は、2万石を加増されて安濃津に戻ることができた。
毛利秀元が登場する記事一覧
おすすめ記事一覧
-
歴史イベント
【新解釈】本能寺の変の真実!光秀が謀反を決意した真の動機とは?
-
ランキング
戦国武将のかっこいい異名・あだ名ランキングTOP10
-
ランキング
障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!
-
ランキング
織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
-
戦国時代の逸話
豊臣秀吉の指は6本あった?その真相に迫る【戦国時代の逸話】
-
どうする家康
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
-
ランキング
戦国武将の変な名前ランキング!!
-
戦国時代の逸話
直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】
-
戦国時代の暮らし
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】
-
どうする家康
なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
-
どうする家康
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】
-
どうする家康
家康につかなかったため滅ぼされた三河武士、鵜殿長照(うどのながてる)とは?【マイナー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はなぜ松平から徳川に改姓したのか?【メジャー武将列伝】
-
戦国時代の女性
徳川家を苦しめた妖刀「村正」【戦国時代の逸話】
-
マイナー武将列伝
鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
-
蟹江七本槍
大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】