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織田信長の従兄弟!?川口宗勝(かわぐちむねかつ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、織田氏の家臣である川口宗勝(かわぐちむねかつ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
川口宗勝の生まれ
川口宗勝は天文17年(1548年)に川口宗吉の子として誕生します。
川口宗勝の母は織田信長の伯母とされているので、川口宗勝と織田信長は従兄弟同士ということになります。
初めは水野信元に仕えます。
水野信元の父・水野忠政は大河内元綱の養女である於富の方と婚姻し、徳川家康の生母・於大の方が子供にいます。
この於富の方は水野忠政と婚姻する前は、(川口宗勝の祖父にあたる)川口盛祐と婚姻しており、(川口宗勝の父にあたる)川口宗吉を授かっています。
なので川口宗勝は水野信元や徳川家とも遠戚であるということです。
於富の方はなぜこれほどモテたのでしょうか?
残念ながら美人だったという資料は見つけられませんでした…
これは於富の方の父・大河内元綱は摂津源氏源頼政の孫顕綱の後裔と称していたためでしょう。
摂津源氏とは全国の武将が最も憧れた血筋です。
なので、その血を引く於富の方と婚姻し子供を産むことで摂津源氏を名乗れるようになるということです。
永禄6年(1563年 川口宗勝が15歳の頃)には柴田勝家に、翌永禄7年(1564年)には織田信長の直臣となり弓大将となりました。
織田信長の従兄弟である川口宗勝は信長の直臣となることは予定されており、修行のため事前に柴田勝家や水野信元の配下に置いたのでしょう。
水野信元の活躍
永禄9年(1566年)に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が墨俣に一夜城を築いた時の野武士の中に宗勝の名が見えます。
本能寺の変後には織田信雄、豊臣秀吉に仕え、伊勢国尾張国内で18,000石を領した。
安濃津城攻め
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである安濃津城の戦いが起こります。
富田信高(安濃津城主)、分部光嘉(伊勢上野城主)、古田重勝(松阪城主)、稲葉道通(岩出城主)ら伊勢の東軍の諸将らは徳川家康の会津征伐に従軍していました。
西軍の大軍が伊賀方面から伊勢に進出してきたため、分部は寡兵で自城を守り切れないと判断し、富田の安濃津城にて共同で西軍を迎えることとします。
富田の兵、分部の兵、更に古田重勝からの援軍500を加えても、安濃津城に籠城する東軍は1,700という劣勢でした。
対する毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された西軍は総勢3万にのぼります。
富田、分部らの籠城方は奮戦するも後詰・救援の見込みもないため、8月25日に高野山金剛峯寺の木食応其が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、安濃津城は開城します。
信高、光嘉は共に一身田の専修寺へ退き、剃髪して高野山にのぼった。
しかし、関ヶ原の戦い後、西軍を釘付けした功を認められた信高は、2万石を加増されて安濃津に戻ることができた。
川口宗勝はこの安濃津城攻めで西軍に属し奮戦しました。
しかし関ヶ原の戦いで西軍が敗れると川口宗勝は高野山に蟄居し、所領を没収され身柄を伊達政宗に預けられました。
慶長11年(1606年)、徳川秀忠に許されて青菅2,500石を賜り秀忠の旗本となりました。
これも川口宗勝と徳川家が縁戚関係だったため許されたのでしょう。
川口宗勝の最後
慶長17年(1612年)、青菅にて死去。
元禄11年(1698年)までの92年間、宗信(孫作)、宗次(久助)、宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に渡って同地を知行しました。
信長の野望での川口宗勝
ゲーム信長の野望での川口宗勝のパラメーターを見てみましょう。
統率 51 (1280 位)
武勇 48 (1462 位)
知略 41 (1901 位)
内政 36 (1932 位)
外政 34 (1994 位)
合計 210 (1975 位)
2200人中の順位です。
川口宗勝はコネ入社なので、目立った活躍はないため能力値が全体的に壊滅状態です。
残念!
まとめ
いかがでした?
織田信長の従兄弟であった川口宗勝。
コネ入社と書きましたが、なんだかんだ言って織田家・豊臣家・伊達家・徳川家に仕え勝ち馬に乗り続けました。
そのような嗅覚は鋭かったのかも知れません。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。