武将名鑑【信長の野望 新生】
毛利輝元(もうりてるもと)
毛利輝元(もうりてるもと)
毛利輝元 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
50 (1332 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
56 (1004 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
41 (1893 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
69 (418 位) | ||||
合計 | 216 (1135 位)2201人中 |
毛利輝元 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 羽柴安芸宰相 羽柴安芸中納言 大江輝元 | ||||
幼名 | 幸鶴丸 | ||||
仮名・通称 | 少輔太郎 | ||||
法号・戒名 | 幻庵宗瑞 天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士 天樹公 | ||||
父 | 毛利隆元 | ||||
母 | 尾崎局(内藤興盛の娘、大内義隆の養女) | ||||
配偶者・正室 | 南の大方(宍戸隆家の娘) | ||||
側室1 | 二の丸殿(児玉元良の娘) |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1553年 | 毛利隆元の嫡男。祖父・元就の死後、毛利家を継ぎ、秀吉の下では五大老の1人となる。関ヶ原合戦では西軍総大将の座に就くが、戦場に出ることはなかった。 | |||||||||
死亡年 | 1625年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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人脈 | 遠国登用に関する具申が可能 | ||||||||||
修繕 | 所属城の耐久自然回復量上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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早駆 | 自部隊の機動上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 18 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 30 |
毛利輝元が登場する合戦
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月山富田城の戦い [毛利元就の石見・出雲平定]
1565年4月17日 ~ 1566年11月21日
島根県安来市広瀬町富田
月山富田城二の丸
-
月山富田城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1569年7月 ~ 1570年2月14日
島根県安来市広瀬町富田
山名鹿之助像
永禄12年(1569年)7月、出雲に侵入した尼子勝久の6000の軍は、かつて尼子氏の本城であった月山富田城を攻囲した。
尼子方に投降する城兵もあらわれるなか、わずか300の兵で富田城を守る城将の天野隆重・野村士悦らは、毛利元就に後詰を要請する。
これに対し元就は毛利軍の主力が九州から撤退してくるのを待つと、永禄13年(1570年)正月6日に総大将に毛利輝元をおき吉川元春・小早川隆景・児玉就久ら2万6000の軍勢で出雲に向かわせた。
天野隆重は寡兵で籠城している際に、月山富田城を明け渡して降伏すると見せかけ、やってきた尼子再興軍に奇襲をかけ秋上宗信らを撃退したり、浄安寺に伏兵とした入った山中鹿之助らに対して鉄砲や矢を猛射し勝利していいる。
毛利勢の援軍が到着し、2月14日に布部山の戦いで尼子勢を破ると、富田城の包囲は解かれた。
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布部山の戦い [尼子勝久の再興戦]
1570年2月14日
島根県安来市広瀬町布部
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木津浦の戦い [石山合戦]
1576年7月13日
大阪府大阪市大正区千島一帯
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木津浦の戦い [石山合戦]
1578年11月6日
大阪府大阪市大正区千島一帯
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忍山城の戦い [織田信長の中国平定]
1579年12月24日 ~ 25日
岡山県岡山市北区上高田
宇喜多直家によって美作祝山城が包囲されるなか、毛利輝元は小早川隆景らとともに大軍を率いて後詰に向かう。
天正7年(1579年)11月16日、宇喜多直家の属城となっていた備中忍山城の近くに布陣した輝元は、伯耆から吉川元春が到着するのを待って、12月24日から忍山城に総攻撃をかける。
毛利勢の吉川経言は宇喜多勢を追い返しその勢いで山下を焼き打ち城を取り囲み、夜半に城中に火を放ち外から攻め寄せた。
城兵は防戦に努めたものの衆寡敵せず、翌25日には落城した。
-
小倉城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1586年10月4日
福岡県北九州市小倉北区城内
小倉城
豊前門司城に集結した毛利輝元ら毛利勢と軍奉行(軍事の総指揮者)の黒田官兵衛らは、吉川元春・小早川隆景を中心に香春岳城主・高橋(秋月)元種の属城である豊前小倉城を攻撃する。
元種は、永禄10年(1567年)の岩屋城・宝満城の戦いで大友宗麟に高橋氏の惣領職を奪われた高橋鑑種の養嗣子で、このときは島津氏に従っていた。
毛利勢は、元種の実父である秋月種実に妨害されながらも10月4日に小倉城を落とす。
城兵の命と引き換えに小倉城城代の小幡玄蕃は自刃し、一命を助けられた城兵は香春岳城に退去した。
-
松尾城の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1587年3月29日
宮崎県延岡市松山町
島津勢を豊後から逐った豊臣勢の東九州方面軍は、総大将・羽柴秀長を中心として黒田孝高・蜂須賀家政・毛利輝元・吉川元長・小早川隆景ら9万余の兵で、豊後から日向に侵入していく。
こうした動きに、それまで島津氏に従っていた日向の諸城も秀長に降ったが、日向松尾城(縣城)の土持久綱はに島津義久から「久」の字を賜っていたりと島津家への忠誠は高く依然として抵抗を続けていた。
このため松尾城は包囲され、3月29日に久綱は降伏開城し、島津家久を頼って日向佐土原城に落ちていく。
毛利輝元が登場する記事一覧
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