武将名鑑【信長の野望 新生】
足利義昭(あしかがよしあき)
足利義昭(あしかがよしあき)
足利義昭 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
28 (2126 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
37 (1899 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
78 (191 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
68 (445 位) | ||||
合計 | 211 (1255 位)2201人中 |
足利義昭 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 義秋 | ||||
幼名 | 千歳丸 | ||||
渾名 | 貧乏公方 | ||||
法号・戒名 | 覚慶 昌山道休 霊陽院昌山道休 | ||||
父 | 足利義晴 | ||||
養父 | 近衛稙家 | ||||
母 | 慶寿院(近衛尚通の娘) | ||||
側室1 | さこの方(赤松政秀の娘、織田信長の養女) | ||||
側室2 | 小宰相局(大河内氏) | ||||
側室3 | 一対局、春日局、大蔵卿局、小少将局 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1537年 | 室町幕府15代将軍。織田信長の後援で将軍職に就くがのちに対立、周辺諸国と協力して信長包囲網を敷く。自らも挙兵するが信長軍に敗れ、京を追われた。 | |||||||||
死亡年 | 1597年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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人脈 | 遠国登用に関する具申が可能 | ||||||||||
能弁 | 外交取次次の信用上昇増加 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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治癒 | 自部隊の兵力回復 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 34 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 46 |
足利義昭が登場する合戦
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坂本の戦い [三好三人衆と松永久秀]
1566年8月3日
滋賀県大津市坂本
-
箕作城の戦い [織田信長の上洛戦]
1568年9月12日
滋賀県東近江市五個荘山本町
建部秀明
吉田重光
狛修理亮
吉田新助
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佐和山城から見た琵琶湖
永禄11年(1568年)8月7日、織田信長は近江小谷城の支城である佐和山城に赴き、ここで上洛途上に位置する観音寺城の六角承禎・義治父子に対し、入洛を助け道をあけるよう、足利義昭の近臣であった和田惟政ら家臣3名の使者を送って申し出た。
しかし、六角父子はこれを拒絶する。
信長は再度使者を送って入洛を助けるよう要請するも、病気を理由に使者に会わず追い返されてしまった。
7日間佐和山城にいた信長は、開戦もやむを得ないと考え岐阜城に戻った。
9月7日、六角氏征伐のため尾張・美濃・伊勢の大軍を率いて岐阜を出陣した。
8日には佐和山城近くの高宮に本陣をおき、義弟にあたる浅井長政隊と合流する。
さらに、松平信一率いる徳川家康からの援軍も加わり、織田・浅井・徳川連合軍の軍勢は5万 ~ 6万に膨れ上がった。
対して六角勢は、居城の観音寺城に馬廻り衆1000騎を、支城の箕作城に建部秀明・吉田重光・狛修理亮・吉田新助ら3000の兵を、和田山城には田中治部大輔ら主力6000を、その他支城18城に被官衆を置いて、各城が連繫しながら織田・浅井・徳川勢を挟撃する作戦にでる。
9月12日早朝、連合軍は愛知川を渡河すると3隊に分かれ、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉・佐久間信盛らの第3隊が箕作城に向かっていた。
織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測していたため、六角氏は和田山城に主力を置いていたが、戦端は箕作城でひらかれた。
まず木下隊2300が北の口から、丹羽隊3000が東の口から攻撃を開始した。
しかし箕作城は急坂や大木が覆う堅城で合ったため、午後五時には逆に追い崩されてしまう。
その夜、木下秀吉は夜襲を決行する。
3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に攻撃した。
7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城してしまった。
200以上の首級が上がった。
-
芥川城の戦い [織田信長の上洛戦]
1568年9月29日
大阪府高槻市原
-
本圀寺の変 [織田信長と三好三人衆]
1569年1月5日 ~ 6日
京都府京都市下京区堀川六条
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野田・福島砦の戦い [織田信長と三好三人衆]
1570年8月26日 ~ 9月23日
大阪府大阪市福島区玉川付近
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二条御所の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年4月2日 ~ 7日
京都府京都市上京区中立売
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槇島城の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年7月18日
京都府宇治市槇島町
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若江城の戦い [室町幕府の滅亡]
1573年11月16日
大阪府東大阪市若江南町
元亀4年(1573)7月の槇島城の戦いに敗れた足利義昭は、河内若江城に三好義継を頼った。
入洛した織田信長に従い北河内を安堵されていた三好義継だったが、義昭の妹を室に迎えていたことから信長と義昭が対立すると、義昭に同調したのである。
義昭はまもなく堺に移ったが、信長は佐久間信盛に命じ義継を攻めさせた。
義継は籠城して迎え撃ったが、肝心の義昭が近臣だけを連れて堺に逃亡してしまった。
10日以上も奮戦したが義継の家老の多羅尾常陸介(多羅尾右近)・池田教正・野間長前(野間佐吉)ら若江三人衆は信長の実力を恐れて佐久間信盛に内通し佐久間軍を城門に引き入れたため落城。
義継は妻子一族を自ら殺害し、11月16日に近臣の那須久右衛門家富に介錯させて自身も自害した。
これにより三好氏の嫡流は滅亡した。
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