武将名鑑【信長の野望 新生】
和田惟政(わだこれまさ)
和田惟政(わだこれまさ)
和田惟政 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
57 (966 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
51 (1275 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
63 (744 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
60 (792 位) | ||||
合計 | 231 (815 位)2201人中 |
和田惟政 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
仮名・通称 | 弾正忠 紀伊入道 | ||||
父 | 和田宗立(惟助) | ||||
配偶者・正室 | 高山友照の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1530年 | 足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭に仕え、将軍職就任を陰から支えた。キリスト教を保護し、宣教師・ルイス=フロイスを織田信長に紹介した。 | |||||||||
死亡年 | 1571年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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撹乱 | 敵部隊の体力低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 17 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 24 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 31 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 41 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
和田惟政が登場する合戦
-
箕作城の戦い [織田信長の上洛戦]
1568年9月12日
滋賀県東近江市五個荘山本町
建部秀明
吉田重光
狛修理亮
吉田新助
LOSE
佐和山城から見た琵琶湖
永禄11年(1568年)8月7日、織田信長は近江小谷城の支城である佐和山城に赴き、ここで上洛途上に位置する観音寺城の六角承禎・義治父子に対し、入洛を助け道をあけるよう、足利義昭の近臣であった和田惟政ら家臣3名の使者を送って申し出た。
しかし、六角父子はこれを拒絶する。
信長は再度使者を送って入洛を助けるよう要請するも、病気を理由に使者に会わず追い返されてしまった。
7日間佐和山城にいた信長は、開戦もやむを得ないと考え岐阜城に戻った。
9月7日、六角氏征伐のため尾張・美濃・伊勢の大軍を率いて岐阜を出陣した。
8日には佐和山城近くの高宮に本陣をおき、義弟にあたる浅井長政隊と合流する。
さらに、松平信一率いる徳川家康からの援軍も加わり、織田・浅井・徳川連合軍の軍勢は5万 ~ 6万に膨れ上がった。
対して六角勢は、居城の観音寺城に馬廻り衆1000騎を、支城の箕作城に建部秀明・吉田重光・狛修理亮・吉田新助ら3000の兵を、和田山城には田中治部大輔ら主力6000を、その他支城18城に被官衆を置いて、各城が連繫しながら織田・浅井・徳川勢を挟撃する作戦にでる。
9月12日早朝、連合軍は愛知川を渡河すると3隊に分かれ、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉・佐久間信盛らの第3隊が箕作城に向かっていた。
織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測していたため、六角氏は和田山城に主力を置いていたが、戦端は箕作城でひらかれた。
まず木下隊2300が北の口から、丹羽隊3000が東の口から攻撃を開始した。
しかし箕作城は急坂や大木が覆う堅城で合ったため、午後五時には逆に追い崩されてしまう。
その夜、木下秀吉は夜襲を決行する。
3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に攻撃した。
7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城してしまった。
200以上の首級が上がった。
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御牧城の戦い [織田信長と三好三人衆]
1570年10月22日
京都府久世郡久御山町
元亀元年(1570年)10月、野田・福島砦の戦いに勝利をおさめた三好三人衆は、勢いに乗じて京都に向けて軍勢を進め、織田信長方の山城御牧城を攻略する。
さらに河内高屋城や河内烏帽子形城なども諸城を一斉に攻撃し始めた。
そのため信長は、配下の木下秀吉(豊臣秀吉)や勝龍寺城主の細川藤孝、高槻城主の和田惟政らに御牧城の奪還を命じたのである。
10月22日、織田勢の猛攻により、御牧城を守っていた三好方の御牧氏らが降伏開城し奪還に成功した。
高屋城・烏帽子形城は三好軍の攻撃を守りきり、朝倉・浅井軍と三好軍との挟撃策は不発に終わってしまう。
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高屋城の戦い [織田信長と三好三人衆]
1571年6月9日 ~ 11日
大阪府羽曳野市古市
永禄12年(1569年)織田信長の入京に従った高屋城主の畠山高政が家臣である遊佐信教に追放されると、信教はその弟の昭高を擁立し傀儡とし高屋城主とさせた。
元亀2年(1571年)6月、三好義継・三好三人衆は松永久秀とともに高屋城を攻撃するが、信長方から足利義昭直臣の和田惟政らの後詰が着陣したため兵を退く。
こののち三好三人衆は信長に反旗を翻した将軍足利義昭と結んで抵抗を続けるが、天正元年(1573年)淀城の戦いで石成友通が敗死すると没落した。
和田惟政が登場する記事一覧
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