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益田正親(ますだまさちか)は何をした人?貧農の出ながら優秀!【黒田二十四騎】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは黒田二十四騎のうちの一人、益田正親(ますだまさちか)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
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黒田二十四騎
益田正親義は黒田二十四騎です。
黒田二十四騎(くろたにじゅうよんき)とは、賤ヶ岳の七本槍に倣い、黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称です。
- 黒田兵庫助利高 : 黒田孝高の実弟・黒田職隆の次男 黒田八虎の一人
- 黒田修理亮利則 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の三男 黒田八虎の一人
- 黒田図書助直之 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の四男 黒田八虎の一人
- 黒田三左衛門一成 : 黒田孝高の養子 黒田八虎の一人
- 栗山善助利安 : 黒田八虎の一人
- 井上九郎右衛門之房 : 黒田八虎の一人
- 母里太兵衛友信 : 黒田八虎の一人
- 後藤又兵衛基次 : 黒田八虎の一人
- 毛屋主水武久
- 吉田六郎太夫長利 : 黒田孝高の乳兄弟
- 村田兵助吉次
- 三宅山太夫家義
- 益田与助正親
- 堀平右衛門定則
- 久野四兵衛重勝
- 原弥左衛門種良
- 林太郎右衛門直利
- 野村太郎兵衛祐勝 : 母里友信の異母弟
- 野口藤九郎一成
- 竹森新右衛門次貞
- 桐山孫兵衛信行
- 衣笠久左衛門景延
- 菅六之助正利
- 小河伝右衛門信章
通称は与助(よすけ)、与九郎(よくろう)、初名は宗清。
益田性をもらう
天文11年(1542年)益田正親は播磨国姫路近郊の貧農で九番目の子として生まれます。
この家は黒田家に借りたお米を返せなくなり、台所の水汲みとして奉公していたところ、辛抱強く寒暑に動じずに一所懸命に奉公する姿を黒田官兵衛に見出されました。
その後薙刀持ち、徒侍を経て士分となり、83石を拝領します。
それに当たって姓が必要となった際に、黒田官兵衛の嫡男の黒田長政の正室・糸姫(蜂須賀正勝の娘)の義母・大匠院(蜂須賀正勝の正室)が益田氏の出であったことから、それにちなんで「益田」と名乗ることとなります。
この時期は、羽柴秀吉が織田家の家臣としてグングン成長していた時期で、関係を深めるため羽柴家臣内での婚姻が多いです。性をもらうというのも、関係を深める行為ですね。
※別の説として、毛利氏重臣の益田氏にちなむとするものもあります。
益田正親の活躍
天正15年(1587年 益田正親が45歳の頃)の豊前の城井鎮房の反乱において、長政が城井谷を攻めて敗北した際、正親の兄の与六郎が討死。
文禄元年(1592年 益田正親が50歳の頃)、文禄・慶長の役を前に500石に加増され、足軽大将となります。
文禄4年(1595年 益田正親が53歳の頃)に698石に加増されます。
慶長5年(1600年 益田正親が58歳の頃)の木曽川・合渡川の戦い及び関ヶ原の戦いでは敵3人を討ち取ります。58歳でもがんばります!
慶長6年(1601年 益田正親が59歳の頃)、黒田氏が筑前国に入国した後に3,000石を与えられ、鉄砲組頭となりました。
農民上がりなので、足軽の気持ちをよくわかっており、戦場での働きは10,000石に匹敵すると言われていましたが、読み書きができなかったので3,000石です。
福岡城の石垣普請奉行を築城名人の野口一成と共に務めています。
慶長16年(1611年)10月15日死去。享年70。
遺領は、養子の縫殿介が2,500石を、実子の与市、二郎兵衛、助二郎の三人が各150石ずつを継ぎました。
生涯29首討ち取る。
益田正親の人柄
性格は律儀で正直者、根気もあって生涯下僕の心を失わず、勇猛にして非常に謙虚だったようです。
妻は秀吉子飼いであり、賤ヶ岳七本槍の一人である糟屋武則の次男・加藤権左衛門の娘です。
子に与市、二郎兵衛、助二郎、養子に縫殿介(黒田二十四騎の筆頭家老栗山利安の子)がいます。
石垣造りの名人として、福岡城のほか江戸城天守台の石垣造りも任さた野口左助は、母里多兵衛の妹と結婚。
多兵衛と色違いの水牛脇立兜を長政の命で身につけました。
まとめ
いかがでしたか?
貧農の出ながら鉄砲組頭にまでなった益田正親。
その性格は、素朴で正直者で、非常に謙虚ながらも、生涯で29の首級をあげています。
実に素晴らしいです。
身分にかかわらず、取り上げた官兵衛の天分を見て取る力もすごいですね。
黒田二十四騎はそれぞれ個性がありますよね。
他の黒田二十四騎の記事もありますので是非読んでください!
面白いです。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!