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黒田直之(くろだなおゆき)は何をした人?武将としてキリシタンとして活躍した黒田二十四騎!
こんにちは、歴史大好きtakaです。
武将って無限にいますよね。
ゲーム「信長の野望 大志」には2100人の武将が登場しますが、今回はその2100人にも選ばれなかったマイナーな武将 黒田図書助直之(くろだずしょのすけなおゆき)について記載していきます。
それでは見ていきましょう!
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黒田二十四騎
黒田直之は黒田二十四騎であり、黒田八虎です。
黒田二十四騎(くろたにじゅうよんき)とは、賤ヶ岳の七本槍に倣い、黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称です。
そして黒田八虎(くろだはっこ)とは、黒田二十四騎の中からさらに精鋭である親族や重臣を選出した呼称です。
黒田八虎は長政の家臣ですが、父の黒田官兵衛孝高の時代から活躍している古参と親族で固められています。
- 黒田兵庫助利高 : 黒田孝高の実弟・黒田職隆の次男
- 黒田修理亮利則 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の三男
- 黒田図書助直之 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の四男
- 黒田三左衛門一成 : 孝高の養子
- 栗山善助利安
- 井上九郎右衛門之房
- 母里太兵衛友信
- 後藤又兵衛基次
それにしても黒田二十四騎や黒田八虎という名前はかっこいいですね。
黒田直之の生まれ
永禄7年(1564年)3月18日に黒田職隆の四男として今の兵庫県である、播磨国姫路で生まれます。
黒田官兵衛孝高は異母兄となりますが、18歳も年下です。
官兵衛の息子の黒田長政が1568年生まれで黒田直之の4つ下なので、おそらく官兵衛の弟というより長政のお兄ちゃんっていう感じだったんじゃないかと思います。
幼名は惣吉、通称惣右衛門。
母は母里氏、妻は由良家より娶ります。
秀吉に仕える
秀吉の播磨平定の後、天正5年(1577年 直之が13歳の頃)より兄の黒田兵庫助利高(くろだひょうごのすけとしたか)や黒田修理亮利則(くろだしゅりのすけとしのり)と同じく豊臣秀吉の馬廻組となり、その後天下取りへの戦いが本格化し始めた頃に豊臣秀長の家臣となり、大和郡山城下に住みました。
羽柴秀長の筆頭重臣・藤堂高虎とは屋敷が隣であり、この時の縁で、藤堂高虎は後に黒田家のシンボルである大水牛兜(変形)を愛用したらしいです。
天正14年(1586年 直之が24歳の頃)の九州征伐時に兄である孝高に仕え黒田家に戻ります。
戦で活躍する
小田原征伐
小田原北条攻めで、北条家の家臣である由良新六郎(由良国繁)の娘を正室に迎えました。
朝鮮出兵
豊前入国後の朝鮮出兵では、黒田長政に従い侍大将として渡海して朝鮮軍と戦い、旗本備え112人を統率して稷山で功名を挙げました。
帰国後に4,556石を与えられました。
関ヶ原
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは黒田官兵衛や栗山利安・母里太兵衛と共に九州で参戦し、富来と柳川の城攻めで活躍しました。
合戦後の富来城攻めでは反撃に遭って退却するが、筑後柳川城、筑後久留米城攻めでは城受け取り役を務めました。
黒田長政の筑前入国後は、秋月の地で12000石を領しました。
キリスト教への信仰は厚く、山深い秋月の地で2000人の信者を保護したり、秋月には、今も天主堂跡と切支丹橋が残っています。
キリシタンとしての側面
黒田(シメオン)官兵衛がキリシタンであることは有名ですが、黒田直之も同じく熱烈なキリシタン(切支丹)でした。
中津城下でキリスト洗礼を受け、ミゲルという洗礼名も持ち、妻もマリアと名乗っています。
関ヶ原の戦い後に浪人となった同じキリシタン武将である明石全登を匿ったり、福島正則に働きかけて広島城下の教会堂再建の許可を受け、それを自費で再建したりもしています。
没
黒田直之の子孫は4代目から、秋月藩の黒田家一門として由良姓を名乗り、1300石となって明治に至っています。
まとめ
いかがでしたか?
兄である官兵衛、甥である長政を支え続けた、黒田直之。
朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでは武功を挙げ、キリシタンとして活躍した黒田直之の人生でした。
一番面白い時期の秀吉に仕えていたので楽しい人生だったことでしょう!
それではまた、マイナー武将について書いていきますので、よろしくお願いいたします!