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野口一成(のぐちかずしげ)は何をした人?左半身を切らせて、敵を倒す!【黒田二十四騎】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは黒田二十四騎のうちの一人・野口一成(のぐちかずしげ)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
黒田二十四騎
野口一成は黒田二十四騎です。
黒田二十四騎(くろたにじゅうよんき)とは、賤ヶ岳の七本槍に倣い、黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称です。
- 黒田兵庫助利高 : 黒田孝高の実弟・黒田職隆の次男 黒田八虎の一人
- 黒田修理亮利則 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の三男 黒田八虎の一人
- 黒田図書助直之 : 黒田孝高の異母弟・黒田職隆の四男 黒田八虎の一人
- 黒田三左衛門一成 : 黒田孝高の養子 黒田八虎の一人
- 栗山善助利安 : 黒田八虎の一人
- 井上九郎右衛門之房 : 黒田八虎の一人
- 母里太兵衛友信 : 黒田八虎の一人
- 後藤又兵衛基次 : 黒田八虎の一人
- 毛屋主水武久
- 吉田六郎太夫長利 : 黒田孝高の乳兄弟
- 村田兵助吉次
- 三宅山太夫家義
- 益田与助正親
- 堀平右衛門定則
- 久野四兵衛重勝
- 原弥左衛門種良
- 林太郎右衛門直利
- 野村太郎兵衛祐勝 : 母里友信の異母弟
- 野口藤九郎一成
- 竹森新右衛門次貞
- 桐山孫兵衛信行
- 衣笠久左衛門景延
- 菅六之助正利
- 小河伝右衛門信章
黒田二十四騎には黒田一成がおり、今回の野口一成と間違えないように。
生まれ、そして黒田官兵衛の家臣へ</span>
永禄2年(1559年)、播磨国加古郡野口で、教信寺の僧・浄金の子として生まれました。
taka
著者はこの教信寺の近くのコナミスポーツクラブに通っていました。
当時は特に気にかけていなかった寺ですが、好きな武将が生まれた場所と知ると面白いですよね。
父・浄金は黒田官兵衛孝高と親しく、囲碁仲間でした。
天正3年(1575年 一成が16歳の頃)、元服して黒田氏の家臣となります。
織田氏の傘下の黒田氏家臣として、天正5年(1577年 一成が18歳の頃)の高倉山城攻めでは、神吉小伝次を討ち取った。
この高倉山城は今のたつの市にあるのですが、この付近も著者が大学生の頃毎日のように横を通っていました。
めちゃくちゃ面白いですね。
活躍
天正8年(1580年 一成が21歳の頃)の三木合戦で、天正15年(1587年 一成が28歳の頃)の財部城攻めなどでも戦功を挙げます。
黒田家の九州豊前国移封後の天正16年(1588年 一成が29歳の頃)、旧領主城井鎮房暗殺の際にはその家臣を7人斬り伏せており、その功績から黒田長政から短刀を賜り、630石を拝領しました。
小田原征伐、文禄・慶長の役、木曽川・合渡川の戦い、関ヶ原の戦いにも参戦しました。
慶長6年(1601年 一成が42歳の頃)、黒田氏が筑前国に入国した後、鉄砲組大頭に任命されて2,500石を拝領。
また、黒田二十四騎の一人である益田正親と共に福岡城の石垣普請奉行も務めました。
慶長11年(1606年 一成が47歳の頃)の江戸城天下普請の際には、母里友信や村田吉次と共に天守台の石垣を担当しました。
村田吉次が「人並みの普請場を引き受けても仕方がない。一番目立つ場所を引き受けてこそ、黒田長政の忠義を幕府に示せるというものだ」と言って目立つ天守の石垣を黒田家が担当した話があります。
野口一成は石垣積みの名人としても名を残しています。
晩年
元和9年(1623年 一成が64歳の頃)、長政が没し黒田忠之が跡を継ぐと、3,000石に加増されています。
寛永7年(1630年 一成が61歳の頃)、福岡城南二の丸城番となる。
寛永14年(1637年 一成が68歳の頃)の島原の乱では、黒田家2代目藩主の黒田忠之の呼び出しを受け、側に控えました。
この戦陣の際、次男の万右衛門が討死しています。
この後、家督を孫の吉波(長男・一吉の子)に譲り、隠居して卜庵と号した。
寛永20年(1643年)4月8日死去。享年85。
左半身で攻撃を受ける
筑前黒田家の兵法家が道場を開き、剣術指南を行う際に。数多の戦で武功を挙げた野口一成を指南役に呼ぶことになりました。
だが、試合をさせると、突き、突き、突きの一本槍しか出来ない幼稚な剣術で、黒田家家臣は失望しました。
しかも、相手が太刀を振り下ろすと自分の左腕でそれを受け止め、平然と右手で握った太刀を突き出そうとします。
これに兵法家は激怒しました。
「何処の世界に、自分の左腕を斬り落とされながら戦う武者が居るんだ。」
これに憤慨し野口一成は言い返しました。
「いや、俺はこの戦法で今迄、数多くの武勲を立てて来たんだ。嘘だと思うなら証拠を見せてやる。」
野口一成は自分の屋敷に兵法家を招くと、具足櫃の中からある物を取り出してみせた。
左手に嵌める、頑丈な鋼鉄の篭手だった。無数の太刀疵痕が残っている。
篭手は楯の代用として、特に念入りに筋金を入れられいます。
次に見せた戦場太刀は、直刀に近いような錆だらけの太刀だった。刃の反りは曲がっており、見かけは粗末です。
しかし尖端には磨き上げられた様な切っ先があり、頑丈さに掛けては”とても折れそうにない”ような出来だったらしい。
つまり、野口一成は戦場で敵に逢うと、先ずは一気に間合いを詰め、敵が攻撃してきたらその剣閃を左手篭手で受け止めるか払うかして相手のバランスを崩し、その隙に相手の咽喉輪や腋の下を太刀で突くという戦法をとにかく磨き上げていったのである。
これが野口一成の我流剣法である。
そして関ヶ原では身体の左側ばかりに傷を負いながら奮闘したため、通称を「左助」(さすけ)と改めることとなりました。
まとめ
いかがでしたか?
左で攻撃を受けるので「左助」っていじられてますよね。「佐助」ではないですしね。
武将を調べていると、自分の地元出身だったりす
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!